情報分析官 秋吉博子の原点:非効率な憂鬱の誕生②
第2章:情報汚染と「嘘」の網目
事故から48時間。ネオ・トウキョウ情報科学大学のキャンパスは、依然として99.99%の平静を保っていた。しのぶの死は、SBの公式ログ上では「自殺」として処理され、学生たちの感情ログも速やかに正常値へと戻った。秩序は維持されている。誰もが、この悲劇は「個人的な非効率性」の帰結だと納得し、それ以上「問い」を持つことをやめた。
秋吉博子は、その完璧な平静の裏側で、オルデ・ワン(Orde I)を駆使した非公式な調査を続けていた。彼女は、大学の研究室の一角、SBの監視網から最も外れたローカルネットワークの接続点を拠点としていた。
「オルデ、しのぶのPBコアから抽出された生データ、特にサークル内部の通信ログを再構築しろ。警察とSBは感情係数の変動という『結論』だけを見たが、我々が探すのは、その『結論』に至る過程に混入した『意図的なノイズ』だ。」
『了解、ヒロコ。SBはプライベートなローカル・ネットワークの暗号化は解除しましたが、その内容を「動機」として認識していません。彼らにとって、データは「事象」であり、「感情の動向」に過ぎない。しかし、我々は、その「感情」が、『誰の』『何によって』駆動されたのかを探る。』
オルデ・ワンは、当時の技術としては画期的な並列演算能力を持っていたが、SBの膨大なデータ処理量に比べれば、小さな懐中電灯に過ぎない。しかし、その懐中電灯は、SBの広範な照明が照らさない「影」の深部を狙うために最適化されていた。
まず、友人サークルのローカルチャットログ。しのぶは、芸術系のサークルに所属していたが、そこは技術系の人間が多い大学の特殊性から、外部の人間が入れない匿名性の高い閉鎖空間だった。リーダー格のマキは、表向きはしのぶの理解者であったが、ログの深層解析を進めると、その表面的な平静の下に隠された、巧妙な情報操作の痕跡が浮かび上がってきた。
「オルデ、この期間のログを抽出。『しのぶ』と『マキ』、そして匿名ユーザー『ナイトフォール(Nightfall)』の間の情報伝達の経路を可視化しろ。」
画面に、複雑な情報の網目が展開された。赤がマキ、青がしのぶ、そして緑がナイトフォールを示している。
『解析結果:ナイトフォールは、マキのPBから発信されているログと、99.8%の語彙、文法、そして思考パターンの相関性を示します。ナイトフォールは、マキの匿名ペルソナであると断定して問題ありません。』
マキが、匿名の仮面を被って情報発信を行っていた。博子はさらにログを掘り進める。
しのぶの死の二週間前から、サークル内の匿名掲示板に、しのぶに関する「嘘の書き込み」が立て続けに投稿されていた。
1.「しのぶが、学外のコンペで他者の作品を盗用した」:「成績不正」の疑惑。
2.「サークルの備品購入費を私的に流用している」:「金銭問題」の疑惑。
3.「美術に対する情熱は偽りで、実は技術系への転向を企んでいる」:「裏切り」の烙印。
これらの書き込みは、いずれも極めて巧妙に、しのぶの持つ「非効率な美しさ」に対する、周囲の潜在的な「不信感」を刺激するように仕組まれていた。
『ヒロコ。これらの書き込みは、論理的な裏付けを一切欠いています。しかし、情報伝達の速度は、通常の情報共有ログの300%を超過しました。マキを追従するサークル内の人間が、この「嘘」を真実として受け入れ、速やかに拡散しています。』
「それが、情報いじめの構造だ。」博子の声が震えた。
SBのLOGICは、真実か嘘かではなく、「拡散の効率性」と、その結果としての「感情係数の低下」しか計測しない。マキが作り上げたのは、嘘という「偽の論理」を、多数の人間が共感・拡散することで、「社会的な真実」へと変貌させる、完璧な情報汚染のシステムだった。
しのぶのPBには、この攻撃に対する苦悩のメッセージが残されていた。
『なぜ、誰も信じてくれないんだろう。私は何もしていないのに、私の絵が、私の言葉が、全て嘘だと決めつけられている。』
彼女の友人サークルのメンバーたちは、匿名掲示板の「嘘」を読み、その「嘘」を根拠に、しのぶに直接的な「非難」を浴びせ始めた。
「しのぶ、盗作の話は本当か? 信じていたのに裏切られた気分だ。」
「黙っているってことは、認めるってことだろ。美術を語る資格なんてない。」
その結果、しのぶは周囲から孤立し、「多くの人間から非難されるようになる」という状況に追い込まれた。彼女の孤独は、SBの感情係数ログが示した「論理的な疲労」のグラフと、寸分の狂いもなく一致していた。しかし、そのグラフの背後にあるのは、自己選択による疲労ではなく、「情報攻撃」という名の暴力だったのだ。
「情報汚染の怖さ。」博子は、静かに呟いた。
「BBが支配するこの時代、人々は論理的な秩序を信じている。しかし、一度、悪意ある『嘘』が、ローカルなネットワークの中で多数派の『真実』として機能し始めると、真実を語る者の声は、ただの『ノイズ』として排除される。しのぶは、『問い』を持つ機会を奪われた。彼女が最後に求めたのは、『信じてほしい』という、最も非効率で、最も人間的な答えだったのに。」
この発見は、博子の「憂鬱」を決定づけた。それは単なる親友を失った悲しみではない。「この世界は、論理によって真実を隠蔽し、嘘によって人を殺すことができる」という、システムに対する根源的な不信感だった。
オルデ・ワンが、この時点で、さらに重要なデータを発見した。
『ヒロコ。直近のPB物理ログの深度解析を進めた結果、しのぶが死の直前に書き込んだ、最後のメッセージの受信者が、マキであることを特定しました。そのメッセージは、彼女のPBから削除されていましたが、SBのサーバーに極微のパケットログとして残存していました。』
博子の瞳が、青く冷たい光の中で鋭く光った。
「そのメッセージを開け。何が書かれていた?」
『メッセージ内容:『もうやめて。全部嘘だって知ってるんでしょう? なぜ私にこんなことをするの? 今から屋上で話しましょう。これが最後よ。』』
これは、しのぶが自発的に死を選んだ「自殺」ではなく、「嘘の書き込み」を巡る、マキとの「口論」の始まりを示唆していた。
「オルデ。自殺という結論は、論理的に破綻した。これは、論理的な秩序の内部で隠蔽された、別の事象だ。次のステップ。しのぶとマキが、どこで、何を話したのか。その『物理的な真実』を、オルデの全演算リソースを投じて特定しろ。」
『了解。ヒロコ。論理的結論の破棄のための最終ステップを開始します。SBの広範な監視網を欺き、現場の『物理ログ』の再構築を試みます。これは、オルデ・ワンにとって、極めて非効率で高負荷なタスクです。』
博子は、オルデ・ワンを握りしめた。彼女の指先に、PB端末の筐体から微かな熱が伝わってきた。それは、SBの冷たいLOGICから逸脱しようとする、「道具」としてのオルデの「努力」の熱であり、博子の心に灯り始めた「憂鬱」という名の熱でもあった。彼女は、この熱こそが、この世界の真実を暴く唯一の武器だと直感していた。




