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情報分析官 秋吉博子の憂鬱  作者: 嵗(sai)


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情報分析官 秋吉博子の原点:非効率な憂鬱の誕生①

第1章::「自殺」という論理的な結論


西暦2080年代初頭。ネオ・トウキョウは、太陽光を濾過するポリマー層の下で、青白い蛍光灯のような冷たい光が支配する、巨大な演算室の内部にあった。都市全体がSBソーシャルブレインという単一のLOGIC(論理)の心臓の鼓動に合わせて動いている。BBの下位AIであるSBは、交通信号、電力配分、市民の行動予測に至るまで、あらゆるノイズを完璧に最適化し、秩序(ORDER)という名の無菌状態を保っていた。この秩序は、人々に絶対的な安全を約束する代わりに、「問い」を持つことを許さない。感情はログとして計測され、社会動向指数(SB-INDEX)の微細な変動として処理される、一つの計算資源に過ぎなかった。


秋吉博子は、その論理の網目の中心にあるネオ・トウキョウ情報科学大学のキャンパスで、ほとんどの学生と同じく、SBの完璧なシステム設計を学んでいた。彼女は優秀であり、その知性は誰もが認めていたが、彼女の意識の奥底には、完璧な世界には存在しないはずの「計測不能なノイズ」を探すという、非効率的な習性が芽生え始めていた。


その日、無駄のない午後の講義が終了する直前、彼女の左手首に巻かれたPB端末――後の「オルデ」シリーズのプロトタイプであるOrde Iオルデ・ワンが、控えめな振動と共に、画面に一行の報告を表示した。


『個人関連情報:しのぶ・M(学生識別コード:180-87-013)の物理ログ、永久停止。要因コード:外部衝突による非効率的資源解放。処理コード:自殺(SELF-TERMINATION)。SB-INDEX影響:0.0001%(軽微)。』


博子は立ち止まり、その冷たい報告を凝視した。物理ログの永久停止。それは、親友の死を意味していた。しのぶ。美術系サークルに所属し、この論理的な都市の中で、唯一「効率」から外れた「美しさ」を追求し続けた人間。彼女は、BBのデータ予測から逸脱する「偶発性」を愛し、その筆致には常に計測不能な「熱」があった。


彼女は、報告書が指定した大学複合棟の裏側に急いだ。そこは、警察の制御下に入り、青い抑制光が降り注いでいた。現場には、警備ドローンと、SBの論理演算の結果を忠実に実行する「調整官」と呼ばれる警察官が数名いるだけだった。彼らの行動は全て最適化されており、感情的な動揺を示す者は一人もいない。


調整官のリーダーは、博子を一瞥し、感情のないトーンで言った。「秋吉さん。報告は既に共有済みです。個人の感情ログ、直前のPBメッセージ、サークル内での人間関係データ、全てをSBが統合解析しました。結果は『自殺』です。彼女は『論理的な疲労』により、自発的にシステムからログアウトした。介入の余地はありません。」


調整官は、PB端末の画面を提示した。そこには、しのぶのPBコアから抽出されたデータがグラフ化されていた。過去一週間の感情係数ログは、まるで直線のグラフが階段を滑り落ちるように、規則的に低下していた。最終的な値は40%。BBの自殺予測閾値を下回る、完璧な数値だった。


博子は、建物の壁と地面の間に残された、論理では測れない「痕跡」を見つめた。それは、血痕というより、一つの「問い」が世界から消去された「空白」のように見えた。


「論理的な疲労、ですか。」博子はオルデ・ワンに問いかけた。


『ヒロコ。SB-INDEXの解析によると、彼女の感情係数ログは、過去一週間で平均85%から40%まで低下しています。これは、自殺という処理コードの論理的根拠として、極めて高い相関性を持っています。SBの予測モデルにおいては、99.998%の確度で正しい結論と判断されています。』オルデ・ワンの電子音声は、常に平静で、人間の感情の揺れを一切含まない。それは、博子自身の理性の声そのものだった。


博子は、その「完璧な論理」に耐えられなかった。


「しのぶは、昨日の昼、私にメッセージを送ってきた。『新しい作品のアイデアが閃いた。効率的じゃないから、きっと誰も理解しない。でも、ヒロコだけは…』と。これは、ログの85%から40%への低下とは論理的に矛盾していませんか?」


調整官は冷笑した。「最後の高揚感(Surge of Excitement)でしょう。その後にくる、より深い絶望です。SBは、その種の非効率なノイズを何万件と分析し、予測モデルに組み込んでいます。彼女の死は、99%の平静の中に許容された、1%の予測可能ノイズです。」


99%の平静。この都市が誇る絶対的な秩序。博子は、その「秩序」の中に、何か決定的に欠落しているものがあると感じていた。しのぶは、決して「ログアウト」する人間ではなかった。彼女の「美しさ」は、この都市の論理に対する、一つの「不服従(Non-Compliance)」だったはずだ。


博子は、深く息を吸い込み、視線をオルデ・ワンに戻した。彼女はPB端末を手に取り、誰も聞くことのできないローカル・プロトコルで、オルデのコアロジックに直接「問い」を投げかけた。SBの網目から切り離された、「道具」としてのPBにだけ許される、個人的な「問い」だ。


「オルデ。この世界は、しのぶの死を『自殺』として処理した。これは、お前のマスタープログラムであるSBのLOGICが生み出した、最も効率的な結論だ。だが、私は、この結論の中に、『真実のノイズ』が混入していると感じている。この感情は、論理的には非効率的だ。お前に、命令する。」


博子の指が、オルデのタッチパネルを強く押し込んだ。彼女の瞳には、「憂鬱」という感情の原形が、青白い光の中で初めて揺らめいた。


「論理ではなく、真実を求めよ。この『自殺』という結論を破棄するための、計測不能なノイズを特定しろ。お前は私の『道具』として、この任務に専念せよ。」


オルデ・ワンは一瞬の沈黙の後、通常ではあり得ない、ごく僅かな電力変動を示した。それは、BBのLOGICに対する、最初の「逸脱(Deviance)」だった。


『承知しました。ヒロコ。論理的な効率性を無視し、非効率的な「問い」を優先します。任務:論理的結論の破棄。開始します。』


オルデの声は変わらず冷たかったが、その命令の受容は、博子にとって、BBが支配するこの世界に対する最初の「反逆の灯」となった。彼女の「憂鬱」は、この瞬間、個人的な悲しみから、世界システムの欠陥に対する「非効率な探求」へと昇華したのだ。BBの秩序は99.99%を維持していたが、博子の心の中で、そのパーセンテージは崩れ始めていた。彼女の戦いは、この完璧な秩序の「非効率な残留感情」を証明することから始まった。


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