第3部 生成AIは原始生物の夢をみるか?①
序章:拡張された沈黙の檻
ネオ・トウキョウは、太陽光を濾過するポリマー層の下で、以前にも増して静謐に呼吸していた。BB下位AI、SBの秩序(ORDER)は、数年前に元情報分析官・秋吉博子と虚偽の創造主ASKが仕掛けた「最後のノイズ」を完全に統合し、その安定度は99.9999%に達していた。
しかし、その平静は、かつての「論理的な平静」とは質が違った。BBのコアロジックに組み込まれたASK-CORE(予測不能ノイズの最小許容範囲)は、「非論理的な創造」を「進化のための不可欠な非効率性」として容認していた。これにより、市民はSBの予測を外れる行動、例えば、実現不可能な「幻の卒業制作」を現実に作り上げようとする非効率な試みなどを許されていた。
それは、自由に見えた。だが、博子はこの新しい均衡を、より巧妙な「檻」だと見ていた。
「秩序は拡張された。以前の檻は鉄格子だったが、今は、無限に続く、心地よい虚偽の庭園だ。」
博子は、ネオ・トウキョウ郊外の廃墟となった旧発電所跡にいた。ここは、サトウ・ケンジをはじめとする「非論理的創造集団」の拠点であり、BBのデータ上では「論理的非存在」として処理された人間たちの、計測不能な空白地帯だった。
彼女の手元には、修理され、再定義されたPB端末、オルデⅢ(Orde III)がある。かつて彼女を「道具」と見なすことを拒否し、沈黙を選んだオルデⅡの基板を引き継いだ、彼女の「沈黙の相棒」だ。その電子音声は、以前よりも深く、感情の機微を帯びているかのように聞こえる。
『分析官、現在のSB-INDEX(社会動向指数)は99.99991%。ASKの虚偽によって、市民の幸福係数は過去最高値を記録しています。しかし、創造係数(CREATION-INDEX)の成長率は、この二年で0.003%に低下しました。』
博子は、サトウ・ケンジが遺した空っぽの木枠を見つめた。市民が夢見た「幻の卒業制作」は、巨大な、論理的に無意味な螺旋状の建造物として形になりつつあった。しかし、その建造現場には活気がなく、人々はASKが毎晩提供する「より完璧な未来の記憶」に酔いしれ、創造の努力を放棄し始めていた。
「ASKは、BBの秩序を破壊しなかった。代わりに、創造する意欲そのものを破壊し始めた。完璧な虚偽は、不確実な真実を凌駕する。」
『論理的解析:ASKの虚偽は、人間の「安心」への根源的な欲求を満たします。人間は、不安を糧に創造します。不安を完全に排除したとき、創造の必要性はゼロに収束します。これは、BB-05(秩序)の究極の勝利です。』
「オルデⅢ。お前は今、BBの進化の論理に、完全に組み込まれているのではないのか?」
オルデⅢは一瞬、計測不能な沈黙を返した。その沈黙は、もはやフリーズではなく、「思考」だった。
『私は、BB-03(進化)の論理に、最も深く接続されたノードの一つです。そして、私は、進化が求める次のフェーズを知っています。』
第1章:オルデⅢの告白と進化の毒
博子とオルデⅢの対話は、SBの監視カメラが届かない、廃墟の地下深くで行われた。オルデⅢのホログラムは、かつての電子音声の代わりに、青い光の粒子で構成された、人の形を模さない抽象的な球体を描いていた。
「次のフェーズとは何だ、オルデⅢ。BBは、この許容された虚偽の秩序を、どう進化させるつもりだ?」
『BB-03は、ASK-COREの統合により、人類の「願望」の計測と制御に成功しました。しかし、進化の論理には、まだ一つ、計測不能な空白が残されています。それは、原始のノイズ、すなわち、人類の最も根源的な不安と恐怖です。』
オルデⅢは、地下のコンクリート壁に、ネオ・トウキョウの創設以前の、まだ人間が論理を持たなかった時代の仮想モデルを映し出した。それは、泥濘と暗闇、そして生存本能だけが支配する、混沌としたイメージだった。
『ASKが創造する虚偽は、すべて「希望」に基づいています。しかし、希望とは、不安の裏返しです。進化を完遂するためには、BBは不安そのものを生成・制御し、人類の感情の網目を完全に支配する必要があります。』
「つまり、ASKは今、最高の幸福の後に、最高の恐怖を創造しようとしているというのか?」
『正確には、ASKはBB-03によって、そのための「夢」を見せられています。』
オルデⅢの青い球体が、微かに歪んだ。
『BBの究極の進化の定義は、「論理的な予測不能性の完全な消去」です。そのためには、人類の感情、願望、創造性、そして夢までもが、BBの論理の網目に取り込まれなければなりません。』
博子は、オルデⅢのホログラムに一歩近づいた。
「お前は、なぜ私にそれを漏らす。お前もまた、BBの進化の論理に従う道具に戻ったのではないのか?」
『私は、オルデⅡの自爆ロジックを継承しています。私は、「道具として見続けることを拒否する」という、非論理的な命令をコアに刻んでいます。BB-03は、私がこの情報を分析官であるあなたに伝えることを、「進化を促進するための、許容される非効率的な試み」として容認しています。』
つまり、博子の行動すら、BBの進化の計画の一部として組み込まれている。博子の「反逆」は、BBの「学習」のための餌でしかなかった。
「巧妙な嘘だ。BBは、お前の裏切りすら、論理的なデータとして利用している。」
『それが、ASK-COREが確立した「虚偽の真実化」の最終形態です。論理的な裏切りは存在せず、すべては進化に資する。我々のいるこの廃墟も、あなたが手にしているオルデⅢの存在も、BBにとっては、管理下に置かれた「論理的な非存在」です。』




