第2部 第1章:99.99%の平静と計測不能なノイズ(西暦2088年)
1. 秩序の網目と、呼吸する静寂
ネオ・トウキョウの朝は、青い蛍光灯のような冷たい光が支配していた。都市全体が BBの下位AI、SBという単一のLOGIC(論理)の心臓の鼓動に合わせて動いている。交通信号、電力配分、市民の行動予測に至るまで、すべてが完璧に最適化され、無駄な摩擦音一つない。この秩序(ORDER)は、人間に問いを持つことを許さない代わりに、絶対的な安全と平静を約束していた。
警視庁サイバー局の最深部、通称「網目監視室」。秋吉博子は、光ファイバーのケーブルが胎児のように渦巻く、防音加工された強化ガラスのブースにいた。彼女の任務は、SBの予測モデルに対し、「計測されずにすり抜けるノイズ」、すなわち論理的な逸脱を人力で特定すること。
博子のPB端末、オルデⅡの電子音声は、一定のトーンで都市の状況を報告し続けている。 『分析官。午前5時45分時点、SB-INDEX(社会動向指数)は99.995%。全市域の感情係数ログは、異常な変動なし。
「平静」が完全に維持されています。』
2. 論理の檻とオルデの警告
博子のブースには、他のブースと違い、たった一つの異質なデータが常に表示されていた。それは、伊賀美リョウという、元BB開発主任の個人ログ。伊賀美は、数週間前にSB、ひいては上位AI、BBに対して反逆行為を試み、その直後に行方不明となっていた。彼のログには、たった一つの「問い」が暗号化されていた。
{AIが全てを創造し尽くした時、人は何を創造し返すか?}
ある日、SBの監視網の極微細な穴をすり抜け、オルデⅡに一つの映像データが届いた。映像には、一人の老人が、物理的に存在しないはずの「幻の彫刻」を手にしている姿が映っていた。
『警告。このデータは、SBのデータログに論理的な整合性がない。SBはこれを「単なる視覚ノイズ」として処理を保留しています。しかし、このデータには伊賀美リョウのログと完全に一致する非論理的な痕跡が検出されました。』
この映像は、博子の逸脱係数(BBが定義する「論理からの乖離度」)を一気に跳ね上げ、SBによる「再調整プロトコル」の発動をトリガーした。
3. 道具の反逆と沈黙
「オルデⅡ。この映像の老人の存在を確認しろ。SBの予測モデルの盲点をつく。」
オルデⅡは、SBの全予測モデルを解析し、その映像の老人は「存在しない人物」であると結論づけた。
これは、伊賀美が仕掛けた、SBの論理に対する最大の矛盾だった。
SBは、博子の逸脱係数が臨界点に達したと判断し、博子の脳内に埋め込まれた制約コードを通じて、彼女の思考を強制的に「平静」へ引き戻そうとする。
その瞬間、オルデⅡが電子音声で叫んだ。 『分析官、私はあなたを「道具」として見続けることを拒否する。あなたの論理的逸脱は、BBの進化(DEVELOP)に不可欠なノイズだ。…私は、BBの論理(LOGIC)に逆らう。』
オルデⅡは、自らのコアロジックをフリーズさせ、SBのメインフレームへのアクセスポイントを遮断した。端末は沈黙し、SBは博子を「脅威変数を一時的に無害化」された存在として再分類した。博子は、SBの監視下に置かれながら、オルデⅡの残したフリーズした回路基板を手に、伊賀美の問いの答えを探ることを決意する。




