こわくない怖い話
真夏の平日のこと。
定時が過ぎ、ありがたいことにどちらかと言えばホワイトの部類に入る我が企業では「そろそろ帰るか~」と社員たちが帰宅の準備を始めていた。
そんな矢先に突如落ちた落雷。まさかの停電。しかも落ちた場所が悪かったらしく、最寄り駅の電車も一時的に運行停止状態だと言う。当然、外はバケツをひっくり返したような大雨。
社員の一人が「データ飛んでないといいなあ…」とぽつりとつぶやいた。
そうだな。正直、それが一番怖い。
しかも少し待ってもまだ復旧しないようだ。蒸し暑くなってきた。
たぶん発端は、後輩の「データが飛んでないといいな」発言を聞いた同期のこの一言だった気がする。
「データが飛ぶって言えばさ、昔のゲームとかって雷落ちるとすぐデータ飛んでただろ」
「ああ、わかります」
「セーブデータ消えるとか恐怖でしかない」
「データが消えるとかじゃないけど、ゲームのバグも怖いっすよね。
ほら、『ぼくのな○やすみ』ってゲームあったじゃないですか。
あれのバグがガチホラーだったって」
同期の言葉にゲーマーの社員数人が頷き、男の後輩が思い出したように口にした内容にまた何人かが頷いた。
「なにそれ?」
「そういうゲームがあって、ある操作をするとバグが発生するんです。
それ自体は制作側も予期してなかったバグだったんですが、内容が怖くて」
「ゲームの内容自体はプレイヤーが子どもの主人公になって、夏休みを体験するみたいなやつなんだが、バグが発生すると存在しないはずの8月32日に進むんだ。
しかも家中から主人公以外が消える」
「なんだそれ怖っ」
「移植版はそのバグも修正されてるから、最初のやつでしか発生しないバグなんだけどな」
後輩と同期の説明に、ゲームを知らなかった数人の社員が「うわっ」と顔をしかめる。
ただのバグとは言え、内容がちょっとホラーだ。
「あ、そういえば、そんな感じのこと私、経験したかも」
「えっ?」
ふと、何気ない世間話のような口調で言い出したのは、入社三年目になる女子社員の長谷川だった。
高校生のころの夏休み中だったかな?
ある日夏休みだからって前日に夜更かしして、起きたらもう夕方の六時過ぎで。
なのに家の中がめちゃくちゃ静かなんです。親も起こしに来なくて。
ほんとうにしーん、って。
一切音がしなくて。
いつもならこの時間、居間でテレビを見てるはずの祖母も、夕食の準備をしているはずの母の姿もなくて、もちろんテレビなんかついてないし。
私はそのゲームのバグ?とか知りませんけど、正直なんか不気味になりました。
ただふと気づいたんです。居間に置いてあったデジタル時計には「6:00」ってありました。自室の時計はアナログだったから気づかなかったんですが、要するに夕方だと勘違いしてしまっただけで早朝だったんですね。
そりゃ誰もまだ起きてないよなあ、と私はほっとして、から違和感にやっと気づきました。
私の家って、元々めちゃくちゃぼろ家で、その五年前に新築を建て直したんです。
元々そのぼろ家のあった場所に、ぼろ家を壊して新しく建て直しました。
でもそのとき私がいた家は、その五年前に壊してなくなったはずのそのぼろ家だったんですよ。
デジタル時計をもう一回見ました。時刻は数分進んでいましたが朝の六時で、ただ、日付は五年前でした。
私は今更に恐ろしくなって誰か探そうと、ひとまずその当時、両親の部屋だった場所に飛び込みました。当然、誰もいませんでした。
けれど気づいてしまったんです。
テレビが、ついていました。DVDの再生が始まったところだったのか、読み込む音も聞こえました。
私は「これはきっと見てはいけないものだ」と思いながらも、金縛りに遭ったように目をそらせませんでした。
「…………………そ、それで?」
その場に落ちた破りがたい静寂を破ったのは、長谷川の沈黙に耐えきれなくなった一年先輩の男性社員である今川だったか。
長谷川はひどく重苦しい表情をして「い、いえ、これ以上は、あんまりにも…」と震えた声で紡ぐ。
しかしそこで話を終わらせられても、聞いているこっちは堪ったものではない。
ともかく長谷川が今ここにいるなら無事に戻って来れたんだし、話してくれたっていいじゃないか。
それともそのDVDの映像があまりに衝撃的なものだったのだろうか。
そう今川が尋ねると、長谷川が「そうですね…。衝撃って言えば衝撃だったというか…」と煮え切らない言い方をする。
「いやだから一度話したなら最後まで…」
「AVでした」
「言え………って、ハイ?」
一瞬意味が理解出来ず、首をかしげた今川を見て、長谷川は沈痛な面持ちでもう一回、ちゃんと聞こえるようにはっきりと告げた。
「AVでした。父の秘蔵の」
……………………………………………………………………。
「ってちょ、は!?え!?」
「アアアアアアアアイエエエエエエエエナンデ!?」
「なんでAV!?おまえのお父さんの!?」
「待ってさっきまでのホラーどこ行った!?」
「なぜAV!?」
「いや待てジャンルは!?ジャンルはなんだった!?」
しばらくの沈黙のあと、一斉に顔を覆ったりして絶望の境地のような声で絶叫したのは多くが娘を持つ男性社員だった。
ちなみに女性社員は「うわあ…」と引いている。
なんか約一名必死にジャンルを確認しているのはなにか娘に見られたら死ぬようなジャンルのAVを好んでいるからなのだろうか。
「いえ、私もさっぱり理由はわからないんですけど、…てっきり貞子的なホラー映像なのかと思ったのでびっくりしちゃって、…なんかそのまま見ちゃったんですよね…。
それで気づいたら元の新築の家の自室に戻ってて、あれ夢だったのかなあと思いながら朝食の席で父に『そういえばお父さんって五年前くらいにこんな感じのAVって持ってた?』って聞いたら父がちょうど今の皆さんたちみたいな絶望顔したのはよく覚えてます。
あ、ジャンルは洋モノでしたよ」
「それ聞いちゃダメエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!!!」
既婚男性社員の叫びが見事にハモった。女性社員の半分が爆笑した。
独身勢が他人事のように笑っているが、わかってない。母親や姉ならまだしも娘に見られるのは死ぬ。メンタルが死ぬ。嫁は性格によってはギリセーフ。
長谷川がなんだかのんきに「今思うとあれはタイムスリップだったのかなあ」とつぶやいている。しかしいくらなんでもタイミング悪すぎである。ちょうど秘蔵のAVを再生したときに娘がタイムスリップとかやめたげて。
「というか再生してたならなんでその時代のお父さんいなかったの?」
「なんか急激な便意に襲われて停止するの忘れてトイレにこもっていたそうです。あ、ちなみに母とは寝室は別だったし、わたしたちに見られるのを恐れてそんな早朝に再生してたんじゃないかなって」
だからタイミング。
「いやもーいいじゃないのAVならまだ。
実害及ぶようななにかじゃあるまいし」
「おまえは女だからこのショックがわからんのだ朝倉よ」
「あぁん喧嘩売ってんの今川君?」
めちゃくちゃ他人事の余裕で笑い飛ばした女性社員の朝倉の言葉に、近場に座っていた今川が般若に近い形相でにらむが、同じような顔でにらみ返された。
「蛇とマングース」とかつぶやける長谷川はやはり肝が据わっている。
「言っとくけど、わたしが経験した話のほうがもっとしゃれにならないから」
そう言って朝倉が語り出したのは、およそ一年ほど前の出来事だったという。
その当時、わたしは精神的に疲弊しきっていた。
原因は仕事でもなければ職場の人間関係でもない。別れた元カレがストーカー化したことだった。
わたしはなぜか、いかんせん男運が悪かった。
どうも昔からろくでもない男ばっかり引いてしまう。親しくなった男に限ってヒモとかギャンブル好きとか浮気性とかばっかりだ。
その元カレも例に漏れなかった。五股とか引くでしょ。いくらなんでも。
でも「じゃあ別れて」って言ったらストーカー化した。なんでよ。ほかの四人のとこに行けよ、と思ったけどたぶんわたしが一番お金があって、かつ甘えるより甘やかすタイプだったからかもしれない。
でも怖かった。ほんとうに怖かった。引っ越したのに、番号も変えたのに、不審な郵便物は届くし非通知電話は昼夜問わず鳴るし。
そしてとうとうある日の夜、「もう一度やり直そう。今から会いに行くよ」という恐怖の電話が。
家中の鍵をかけ、警察に電話をしたけれども間に合うかどうかわからない。そもそもストーカーなどの案件は実害が出るまで警察は本腰を入れてくれないと言うし、実際前に相談したときは郵便や電話くらいじゃあ、と流されてしまったし。
スマホを握りしめたまま震えていたら突如鳴り響く音。スマホに非通知着信がある。
わたしはもう泣きじゃくりながら、意を決して画面をタップした。
『もしもし、わたしメリーさん。今、○○駅にいるの』
流れたのは、あのストーカーとは似ても似つかぬ幼女のような声。
つか、メリーさんって言った。
ということは…?
「ちょっと待って駅じゃ遠い!今すぐ!今すぐわたしの背後に来て!」
思わずスマホ握りしめて叫んだら電話口から『えっ?』ってめっちゃ戸惑った声がしたわ。
それでもわたしはかまっていなかった。だって性的被害や暴力とか、もしくは監禁やあげく殺害の危険のあるストーカーよりメリーさんのほうがマシじゃない?
だって女の子だもん。同じ女子だもん!少なくとも突っ込まれる心配はしなくていいじゃん!
「急いで!大至急!高速で、いや音速で!いや亜音速!いや幽霊?だから光の速さいける!?
いや霊速かな!?
とにかく大至急わたしの背後に来て!ヘルプ!」
『えっ!えっ!?な、なにごと!?』
「いいから急いであの男に好き勝手されるくらいならメリーさんに魂とられたほうがマシっていうかむしろあの男の魂とって!
あの男の背後に凸って!!!」
我ながら錯乱していたの。必死だったの。今思うといろいろめちゃくちゃだったけど、あのときは本気だったの。
だって実在する人間のほうが怖かったんだもん。
またしても職場に落ちる沈黙。
なんかコレジャナイ、みたいな空気が満ちている中、再び今川が「…そ、それどうなったん?」とかなり困惑気味に尋ねた。
「んー?
その後、電話が切れちゃってさあ。
もうやばい。死ぬ、と思ったわよね。
でもいつまで経っても元カレからの電話はないし、誰も来ないし。
あれ?って思ってたらまたメリーさんから電話があって『今、あなたの後ろに…』って言ったあたりで待ちきれずに振り返って『会いたかった待ってたんだからバカァ!』って抱きしめてしばらく泣きじゃくったのが事の顛末かな?」
「リアクションがコレジャナイだろ」
「そんな歓迎されるメリーさんは聞いたことがない」
「メリーさんどしたんそれ」
「なんか泣きじゃくったわたしを哀れに思ったのか同居してくれてる。
元カレはあれから一切音沙汰ないし手紙もなくなったし、まあメリーさんがいるならだいじょぶかなって」
「あの先輩待ってください。
以前お邪魔したときに先輩のベッドの上に鎮座していらっしゃったかわいらしいフランス人形さんは…」
「長谷川それ以上はいけない!!!!!」
やはり肝が据わっているのか普通に尋ねかけた長谷川を今川が決死の覚悟で制した。
やめようそれ以上は聞いてはいけない。
ところでたぶん元カレについてはメリーさんに処されたんだろうなあ、とは誰もが思うけど言わなかった。
世の中には知らないほうが幸せなことがたくさんあります。
「まあでも確かに、実在する人物からの意味のわからない電話のほうが怖いよね」
女性らしい臨機応変さで諸々の事柄をスルーし、朝倉の言葉に頷いたのは彼女の同期である宮古である。朝倉とは気が合っているのかよく一緒にランチに行っている。
「朝ちゃんの場合は一応元カレってのはわかってたけど、実際世の中、素性も目的も居場所もわからない相手から電話とかあるもんね。
あれは怖い。
それに比べたら、ちゃんと居場所教えてくれて毎回名乗ってくれて今から行きますって宣言してくれるメリーさん超親切で礼儀正しい」
「見方を変えるとそうだよね。
まず名乗る、居場所を言う、今から行く、と連絡する。
そんな当たり前のことがちゃんと出来てるメリーさんはさすが」
「ほうれんそうがしっかりしてるんですね」
なんか宮古と朝倉が心霊現象を褒め称え、やはり図太い長谷川が謎のコメントをしている。
まあ今時そんな当たり前のことすら出来ないやつは多いんだが、心霊現象と比較されても。
そして今川にとっては後輩の男性社員である三島が「まあ花子さんだってちゃんとノックして遊びましょー?って了解とらないと応じてくれませんもんね。いきなり『おいいるか花子!?』って扉開けたって居留守使われますもんね」とか言ってたのはなにかちがう。大幅になにかがちがう。すべておかしい。あとあれは召還の儀式(?)なのであって居留守使ってるわけじゃないはずだ。
「というか宮ちゃんも以前なんかそんな不審電話あったって言ってなかった?」
「ああ、あったあった。
でもいい加減うっとうしかったから図書館でありったけの怪談の本借りてきて電話口で延々話してやったらかかって来なくなったの」
「なにやってんのほんとにおまえら」
今川のツッコミが段々適当になってきた。うちの会社の女性陣怖い。
「あっ、怪談話すんだよね!
わたしいいの思い出した!」
「待って宮古の怪談話って絶対ろくなもんじゃない。
つか今さっき怪談話めっちゃ図書館で勉強したみたいな話しといてやめて」
「いやだいじょうぶよこれはわたしの体験談だから」
宮古は胸を張って言うが、今川やほかの男性社員からすれば「宮古の体験談」のほうがずっと嫌な予感がするのだが、それは気のせいだったのか。
前に賃貸マンションに住んでたときの話なんだけど、その部屋って短期間で住人が変わる所謂事故物件らしかったのよ。
でも不動産の人に聞くと「その部屋では誰も亡くなってません」って返ってくるの。
そのときお金かつかつだったし、事故物件扱いなこともあって安かったから契約したんだけど、やっぱり不安にはなったのよ。
内心びびりながら初日の夜になったんだけど、特になにも出なかったのよ。
精々「上の階の人、夜中なのにうるさいなあ」くらいで。
それからも毎晩、上の階の人の足音がうるさくてね。
さすがに大家さんに言いに行ったら「上の階の部屋は誰も住んでません」だって。
それでよくよく聞いたら昔なにかあったのはわたしの部屋の真上の部屋のほうだったの。確かに不動産の人の話じゃ「その部屋では」なのよ。要するに「その部屋以外では」なんかあったってことよね?
うっわ、騙された。とは思ったけど、まあでもなんかあるってわかってて契約したんだし文句も言えないよね。
それに足音が聞こえるだけだったし、それだけならスルー出来るかなあって。
でも途中で気づいたんだ。
その足音、明らかにタップダンスしてる音だったってことに。
その場が再び、しん、と静まりかえった。
やはり最初に口を開いたのは今川だった。
「……………たっぷだんす?」
「タップダンス」
「…………え、あの、それは」
「やー、わたしもなんか聞いてるうちに興味持っちゃって。
ちょうど今の会社に入って収入も徐々に増えてたし、だから趣味の範囲で始めたのよ。
そしたら音が止んだの。
あとで聞いたら上の階に住んでた人ってタップダンス教室の講師だったらしくて、亡くなってからも布教活動やってるなんてよほど好きだったんだな、と」
要するに布教に成功したから満足して成仏したのか。なんだこの結果。
「あ、あたしのお母さんがある旅館に泊まったときに深夜に盆踊りする幽霊が出たらしいんですけど『振り付けがダメ。30点』って真顔で駄目出ししたら消えたって話聞きました」
「いやちょっと待とういろいろおかしいな!?
ここぞとばかりに知ってるおかしな体験談話し出すなよ!?」
「で、でもうちのお母さん、盆踊り歴二十年近い歴戦の猛者だからどうしても気になったそうで!」
「いやそんな話をしてんじゃねえから!」
おずおずと自分の身内の話をし始めたべつの新入女子社員に今川が力の限りツッコんだ。
宮古も彼女の母親もたいがいだが、さらっと宮古の話を受け入れたあげく母親のおかしな体験談を話し始めたその後輩もたいがいである。
あとその幽霊もなにがしたかった。もしかしておまえも布教活動か。盆踊りの布教活動しようとしてたら相手が自分以上の猛者で敗北を認めたのか。
「あ、そういえば」
ふと思い出した、という感じで口を開いたのは女性社員の古井だ。
まさかこいつまでなにか幽霊の布教活動にあって撃退したとかじゃないだろうな、と今川はうろんな目を向けてしまう。
「わたし、けっこう潔癖気味なんだよね。
外じゃそんな気にしないけど、家の中の自室はべつっていうか、うーん、自分のテリトリーには他人を入れたくない、みたいな?」
「ああ、わかる」
「ベッドの上とか特に聖域扱いで、自分自身ですらお風呂とか入って服も着替えてからじゃないと上がれないみたいな」
「あー、わからんでもないかも。
そこまでじゃなくても、いきなり部屋に他人にずかずか入って来られたら嫌だし、たいして親しくもない相手にベッドの上にいきなり座られたら怒る」
古井の言葉に朝倉や宮古を始めとした女性社員がうんうん頷く。
男性社員も「そういや女友達の家に遊びに行ったときに断りなくベッドに座ったらすっげえ嫌そうな顔された…」とか「オレもそれやったら二度と呼ばれなくなった」とか思い当たる節があるらしくつぶやいている。
まあ勝手知ったる他人の家とは言いますが、それはよほど付き合いの長い相手か心底気を許した相手に限ったことなのでたいして親しくもないうちにそれやったらそりゃ嫌われるわ、と今川も思う。
古井はそのまま語り始めた。
まあそんな感じでベッドの上には汚れたものとか一切置きたくないの。
それである日、お風呂から上がって部屋に戻ったら、ベッドの上に真っ黒い手首があったんだよね。
手首だよ手首。なんかの洋画で手首だけでとことこ歩いてるみたいな怪物?いたけどあんなの。真っ黒いだけで。
しかもうごうご動いてて。
それを見た瞬間、わたしは激しい生理的嫌悪感と憤りを覚えたのよ。
だってわたしのベッドに、わたしの聖域にわたしの断りもなくいたんだもの!
わたしですら身を清めてからじゃなきゃ座れないような場所に、汚らしい手首が!
もう耐えられずそのままその手首をひっつかんで、窓を開けて、
「誰の断りを得てわたしのベッドに居座ってんだ去ねえええええええええええ!!!!!!」
「と、窓から外へと全力でボッシュートしたわ」
「どうせそんなオチだろうと思った!!!」
今川は全力でツッコんだ。今までの流れからしてどうせそんなことだろうと思った。
なんでうちの部署の女性陣はこうなんだ。
「だってわたしのベッドにわたしの許可なくいるのよ!
もう信じらんない気持ち悪い!」
「あのさ、普通そこで感じるのは恐怖じゃないの?
なんで黒いキッチンの悪魔に対するみたいなリアクション?」
「バカ言わないで。
許可なくベッドの上にいたならその悪魔だろうが素手で掴んで窓からぶん投げるわ」
「勇ましすぎて怖えよ!」
素手で行くんか!自分の手に触れるよりベッドが大事か!と今川は叫びたい。
「ん?でも今のって怖い話なの?」
「そこなのよ」
宮古のふとした疑問に、古井はくるっと振り向いて真顔で言った。
「普通、女性としての正しい反応は悲鳴を上げて逃げるよね?
黒い悪魔でも同じよね?
わたし、以前もあったの。
風呂上がりに首筋にぽたっとなにかが落下してきて、見たら小指くらいのサイズのムカデでさあ。
でもやっぱり感じたのは風呂上がりに肌に触れられた嫌悪と怒りだけだったのよ。
全力で素手でぶん投げたわ。
そしてその手首の一件で悟った。
わたし、女性としてなにか大事なものを失ってるんだ、と!!!」
「怖いのそこ!?」
今川は力一杯ツッコんだが、何人かほかの男性陣の声もハモっていた。
「だってそうじゃない!
そりゃ元からお化け屋敷で『きゃあ!』とか言えるかわいげなんかなかったけど、女性らしいとも思ってなかったけど、さすがに女性としてなくしちゃいけない大事なものすら失ってるんだって気づいて愕然としたのよ!!!!!」
「つか、おまえの場合、人としてなにか重要なものを生まれつき備えてないと思う」
たぶん怖がるのはそこじゃないし、「女性として」以前の問題だなこれ、と今川は最早諦観のまなざしで言った。
普通うごうご動く手首相手にボッシュートしといて「女性として」云々どころの話じゃねえよ。普通男でもアウトだよ。キッチンの悪魔でもアウトだよ。
宮古と朝倉が「わかる。すっごい気持ちわかるわ」「わたしも変質者に遭遇したら悲鳴上げないで股間蹴り上げるもの」とか慰めてるけどおまえらも以下同文だよ。
「…あ、あのー」
今川がなんか遠い目になって「つかいつまで停電してんだろ。まだ復旧しねえの?帰りたいなあ」と切実に思っていたときに、やや不安げに挙手したのは今年新卒で入社したばかりの女性社員だった。
今川の印象ではおとなしく控えめでまじめな社員だ。確か名字は泉水と言ったか。
「私の体験談を、話してもよろしいでしょうか…?」
「…怪談?」
「…そうですね。怪奇現象の話ですから」
念のため確認してしまった今川に、泉水はやや自信なさげに答える。
まあでも、泉水だったら今までの社員のようなぶっ飛んだ体験談ではなさそうだ。むしろ今までの話とちがう普通の怪談だから自信なさげなのかもしれない。
そう思った今川が話を促すと、泉水はこう切り出した。
「習慣って、一度身につくとなかなか直らないじゃないですか」
毎日通ってる道とか、毎日繰り返してることだと頭でべつのことを考えてても身体が自然に同じ流れをなぞってますよね。
なにか予定があってちがう道を通らなきゃいけないのに、考え事してたらいつもの道に入ってそのまま家の近くまで行っちゃってたりとか。
母も私が学生のころ、夏休みに入ってお弁当作らなくていいのにいつもの習慣で早起きして作っちゃったりしてて。
それで、私は今、独り暮らししてるんですけど、朝はいつもぎりぎりで脱ぎ散らかした服とか片付ける余裕がないから夜帰ってからまとめて片付けるんです。
それもいつもの作業として習慣付いちゃったので、頭の中でべつのこと考えながら部屋中に散らかった服をまとめて洗濯機に放り込んでスイッチ押してから、ゴミも回収して、みたいな。
で、ある日の夜も同じように考え事しながら部屋中の衣類を回収して洗濯機に放り込んだんですけど、なんか一個、見覚えのないものがあって。
でもそのときの私は翌日に控えた大好きなアイドルのコンサートで頭がいっぱいになっていて、めちゃくちゃ浮かれて歌を口ずさみながらやってて、要するに上の空だったんですよね。
なんかぬいぐるみくらいの大きさがあってふさふさだったんですけど、うちにはペットなんていないしまあいいかー、くらいの感じで洗濯機に放り込んでスイッチ入れたんです。
その瞬間、この世のものとは思えない悲鳴が洗濯機の中から響いてきてびっくりして一時停止させて蓋開けたら真っ黒い髪の女の人の頭が洗濯槽の中にあって、涙目でこっち見てて。
「なのでそのまままた蓋を閉めて洗濯機を再スタートさせました」
「なぜそこで停止して出してあげなかったの!?」
「怖いじゃないですか」
「自分でほかの洗濯物と一緒に回収して放り込んでおいてなにを言ってんの!?」
だって要するにほかの衣類と一緒に回収して腕に抱えて洗濯機まで運んで行ったってことでしょ!?まさか怪奇現象もそのまま普通に回収されて洗濯機に放り込まれるとは思ってなかっただろうよ!しかも一度確認したのにまた蓋閉められて洗濯されるとも思わなかっただろうよ!
誰だこいつならまともだとか言ったやつは!オレか!?オレだ!と今川は数分前の自分を激しく責めた。
「なぜ蓋を閉める前に気づかなかったのか!むしろなぜスイッチを押す前に気づかなかったのか!」
「ごめんなさい。そのときの私は明日会える推しのことで頭がいっぱいで…」
「めっちゃかわいい顔で申し訳なさそうに謝ってるけど怪奇現象を洗濯機に放り込んだ女って時点で台無しだぞ」
「こういうときはてへぺろ、と言えばいいんでしたっけ?」
「テヘペロで流せるレベルの話じゃないから。つかそれどうなったの?
まさかほかの衣類と一緒に干したの?」
「…だって、私が洗っちゃったんだし、湿ったまま放っておくのもおかしいじゃないですか。
生乾きの匂いになっても嫌だし…。
でも干し方がわからなかったので髪を洗濯ばさみで挟んで…」
「むごい」
「痛かったらしくて『痛い!』って叫んで消えました」
「だろうね!」
やばいこの娘、おとなしそうに見えてまったくか弱くなかった。
心霊現象に向かって「生乾き臭になってもいやだし」とか言うなよ。洗濯ばさみで挟むなよ。むごい。
「あ、俺も似たような話あるー」
「なんだよおまえまで!
洗濯機で回したの!?それともトイレに流したの!?それか掃除機で吸い込んだのか!?」
のんきなテンションで手を挙げた同期の男性社員に今川がキレ気味に言い、朝倉が「まるで自分でやったかのような言い方だね」とコメントした。当然即座に「やってるわけがあるか!」と返されたが。
「いやあの、給料日前でかつかつだったときに備蓄のカップラーメン食べようとしたんだよ。
お湯入れてっからトイレ行きたくなっちゃったからトイレ行って、戻って来て『もう出来ただろう』って思って蓋開けてテレビ見ながらよく確認せずに箸を突っ込んで口に運んだんだけどいくら咀嚼してもかみ切れなくてさー。
おかしいなー?と思ってよく見たら黒い髪の毛だったんだ」
「気づくタイミングがおかしい!!!」
「やー、マジで腹減っててさー。
この際食えるならなんでもいっかなーって。
でもなんかあっという間に消えちゃったんだよ。
あれなんだったんだろ?」
「おまえ捕食者認定されたんだよ」
それは消えたのではなく逃げたのだ。食われると思ったんだよ。
なんというか、すべての話においてだいたい怪奇現象のほうが被害を被っている。
おかしい。すべてがおかしい。まあ若干、身内に被害が出ていた話もあったが。
たぶんそれ、怪奇現象側が出現場所ってか、ターゲットのチョイスを間違えてんだ。うん。きっとそうだ、と今川は現実逃避気味に思った。
「というか、今川先輩はなんかそういうたぐいの経験談ないんですか?」
「おまえらとオレを同類にすんなよ?
まあ、…普通の怪奇現象ならあったけど」
こいつらのと一緒くたにされてもなあ、と今川は腕を組んで悩む。
ずっと黙って若手社員たちの話を聞いていた専務の高橋が「まあ話してみたらどうだ?」とおだやかに勧めた。
あれは八年ほど前。オレがまだ今の会社に入社する前、ひどいブラック企業に勤めていたころの話だ。
あの当時、オレは精神的にかなり参っていた。
だってそうだろう?給料削減。サビ残当たり前。パワハラは普通に横行していたし、有給なんてとれるはずもない。
その日も後輩社員と一緒に無茶な営業を命じられ、死んだような目で会社を出たものの、なんか道に迷っちゃってな。
そしたらふと、木々の生い茂った庭が目に入った。
よく見たら、なんかレストラン?みたいな感じの建物が庭の奥に見えたんだよ。なんかこう、昔から続いてるレトロな、こじんまりとした感じの。
気づいたら庭に後輩と二人で足を踏み入れていたよ。
営業?もう知るかよって感じだったね。聞けば後輩も辞職を考えてて、オレも正直同じ心境だったし、そもそもへとへとでおなかすいてたし、なんかもうどうでもいいやーみたいな感じでさ。
オレも後輩も睡眠不足に過労で、頭回ってなかったんだろうな。
庭も建物も綺麗で、かついい感じに風情があってさ、ああこういう感じの趣のあるレストランっていいなあって、中に入ったんだよ。
扉に来客を知らせるベルがついてたから鳴ったんだけど、店員が誰も出て来ないんだ。
後輩が「すいません!」って声をかけたけど、応答はない。
あれ?開店前だったかな?休日だった?と思って扉を確認したけど、どこにもそんな看板はかかってないし。
それに照明は点いてるし、鍵も開いてるわけで、ただ普通のファミレスみたいに入ってすぐにテーブルや椅子が並んでるフロアがあるってわけじゃなく、エントランスみたいな感じだった。
でもオレも後輩もファミレスならともかく、本格的なレストランとか入ったことなかったし、案外こんなもんなのかなってあんまり気にしなかった。むしろ財布の中身を確認して「予算間に合うかな?案外高そうだなあ。だいじょうぶかな?」ってそっちの心配したよね。
呼んでも人が来ないのは、たまたま店員さんが手が離せないだけだろうか、とも思ったんだよ。
そしたら後輩がある注意書きがあることに気づいたんだ。
「先輩、これ」
「あれ、これ注意書き…?
メニュー表かと思った」
そう話しながら読み上げた注意書きには、
“当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください”
とあった。
「繁盛してて忙しいお店なんでしょうか?」
「予約制とかかなあ…?
注文がたくさんありすぎてすぐ手が離せないとか?」
まあでもこんな注意書きが出してあるってことはやっぱ営業中なんだよな、と思って先に進んでみることにした。
そしたら扉の前に、
“髪をとかして、履き物の泥を落とすこと”
とまた注意書き。そしてそばに鏡とブラシがおいてあった。
ああ、これは相当格式の高いお店なんだな。おかしな服装とか普段着で入れないとこなんだなって思ったんだよ。
「ドレスコードとかあるお店ですかねえ…。
思った以上に高そうだなあ…」
「…一応スーツならだいじょうぶかな?」
そんな話をしながら注意書きの通りにして、扉を開けるとまた似たような部屋。
そして奥にはまた扉と注意書きがある。
“金属製のものを全て外すこと”
“服をすべてお脱ぎください”
この辺りで、オレも後輩も「これはおかしい」と気づいた。
というか既視感がした。
「…なあ、」
「なんでしょうか…?」
「オレ、…こういう料理店の話知ってる」
「…奇遇ですね。
ぼくも知ってます…」
「なんか最終的に酢の匂いのする香水をかけろとかあってさあ…」
「そうそう…。
で、ツボの中に入ってる塩を身体に塗り込んでくださいって書いてある…」
その辺りでやっとオレも後輩も気づいたんだ。
入る前は睡眠不足と疲労から判断力と記憶力が鈍ってて気づけなかったけど、このレストランに来るときに通った道はよく通ってるはずの道だったんだ。
今までこんなレストランを見かけた記憶なんてなかったんだ。
やばい!と思って引き返そうとしたけど、扉が開かないの。びくともしない。
「うわああああああああ!
せ、先輩どうしましょう!?
食べられちゃいますよ!?」
「お、落ち着け!
素手で無理ならなにか硬いもので扉を殴るんだ!」
パニックに陥りながら鞄をあさっている間にも、進む扉の向こうからなんか不気味な声が聞こえるんだ。
心底怖かったよ。
しかし天はオレに味方をしたと思った。
鞄の中にあるものが入れてあったのをオレは思いだしたのだ。
「後輩よ」
「っな、なんですか!?」
「おそらくこの先に進めば酢のにおいのする香水をかぶらされ、塩を身体に塗り込まされるはずだ。
要するに、食い物があればいい」
「…あ、あるんですか?」
「ここにシュールストレミングの缶詰があった」
「…しゅーるすとれみんぐ?」
「世界一臭いニシンの缶詰。
その威力はあのくさやパイセンを優にしのぎ、くさやパイセンの臭さのおよそ八倍を誇る世界一臭い食べ物だ」
「テロ物質じゃないですかそれ!
というかなんでそんなもん会社の鞄に入ってるんですか!?」
「いや会社に心底腹が立って、どうせ退職するなら最後に一発やらかしてやろうと思ってさあ」
「先輩。
それたぶん威力業務妨害で先輩がお縄につくだけじゃないでしょうかね?
つかそれやられてたらぼくも被害被ってましたよね!?」
「踏みとどまったんだから許せよ。
だって臭いだけでまず普通の人間は即リバースするような代物らしいから、さすがに女子社員に公共の場でリバースはきついじゃん?
パワハラしてくるおっさんたちをリバースさせたかったけど、なんの罪もないかわいい新人女子社員たちを道連れにしちゃあいけないと思ってさあ」
「パワハラおっさんは遠慮なくリバースの刑に処して良しと言いたいですが、だからと言ってほかの男性社員が道連れになっていいってことじゃないですシュルスト先輩」
「だから悪かったってば!」
言い訳させてもらうならあのころはほんとうに過労と睡眠不足とストレスでおかしかったんだ。
だからあんな行動を起こしてしまったんだ。
追い詰められた人間って怖いよ。窮鼠猫を噛むとも言うしね?
「…というか、あの、まさかそれを出したってことは…」
「シュルストパイセンを身体に塗り込めば、喰われないで済むかなって!」
「そうかもしれませんがぼくたちもひどい目に遭いませんかね!?
臭いの時点でアウトなんじゃないでしょうか!?」
「どうせ死ぬなら一矢報いん!」
「いや死ぬ気じゃダメでしょ!」
「まあ死にたくはないからあがくんだよ。
しばらく匂いは取れなくなりそうだが、背に腹はかえられない。
あと、念のためガスマスクも用意してきた」
「しれっと会社の鞄からすっげーもん出してきましたけど先輩。
もし今日、出社前に職質されたらやばいことになってたんじゃないでしょうか…?」
手渡されたガスマスクを受け取りながら、後輩は「もし職質を受けて公共機関とかでシュルストを開封されたら普通にテロだぞ…」と想像して青くなっている。
職質されなかったからセーフです。セーフなんです。アウトとか言っちゃいけない。
そんな会話をしつつガスマスクを装備し、いざ缶詰を開封せんと指をかける。
「さあ、いざ行かん!」
「戦国武士みたいな格好いいこと言ってても武器がシュルストでガスマスクの時点でギャグ漫画でしかないですよね」
「おまえも似たようなもんだろうが」
「準備した当事者に言われても。
ところで先輩」
「止めるな!
止めないでくれ!」
「…いや、どうしてもと言うなら止めはしませんが、知ってます?
ぼく、さっきふと思い出したんですよ。
シュルストの話」
「なんだよ?」
「シュルストって、一滴でも衣類に付着したらもう二度と着れないレベルで臭いがついて取れない代物だって。
…先輩のスーツって、いくらしました?」
オレの動きがぴたっと止まった。
そういえば、オレもそんな話は聞いたことがある。
自分の着ているスーツをゆっくり見下ろした。ややくたびれてはいるが、まだまだ使える立派なスーツだ。
「…一着四万円」
「まあ、ぼくもそんな感じですね」
「……………こういうのは、後輩に譲るべきかなって思う」
「嫌ですぼくのスーツは犠牲にしたくありません!」
すっ、と缶詰を差し出されたら思い切り身を引かれた。
その間もガスマスク装備中なのでシュコシュコ呼吸音がうるさいのがシュールだ。
「おまえ、おれのスーツとおまえのスーツどっちが大事だ!」
「自分のスーツに決まってんじゃないですか!
転職のためにこれからも活躍してもらわないといけない大事な相棒なんですよ!?」
「オレのスーツさんだってそうだわ!
むしろシュルストを知らないっつっといてなんでそんな部分的な知識だけ知ってんだおまえは!」
「長くて正式名称を覚えてなかっただけです!
世界一臭い食べ物ってのは知ってました!というかシュルストって言われれば理解出来ました!」
もう状況忘れてぎゃんぎゃん言い合ってたよね。扉の向こうの声とか気配なんかすっかりどうでもよくなってたよね。
そもそもガスマスクだからしゃべりにくいし息苦しいしシュコシュコうるせえしで。
しかしそこでオレと後輩はあることに気づいた。
そう、注意書きの一文。
“服をすべてお脱ぎください”
「そうだ!
服をすべてお脱ぎくださいと書いてあるんだから仕方ないよな!」
「そうですね!
そういう注文なんですからぼくたちは悪くないですよね!」
お互いイイ笑顔でスーツを脱いだ。まあガスマスクしてるから実際の表情わからないし、晴れやかな笑顔とかじゃなくたぶん、いろいろ投げやりになったというか現実逃避とか開き直りというか、すべてぶん投げた結果の笑顔だったとは思うが。
ただパンツ一枚になったところでお互い手が止まった。
「…ところで後輩よ」
「なんでしょうか。先輩」
「…皮膚に付着した場合は、洗えば落ちるんだろうかな…。
臭いは」
「…落ちると思いますよ。
そりゃあ数日は臭うと思いますが…」
オレも後輩も、人体に付着した場合洗えば落ちるのかちゃんと調べたわけじゃない。
しかし今なお一定の需要がある食べ物なら、まあ、洗えばいずれは落ちるのだろう。
たぶん。たぶん(自己暗示)。
お互いに、自分の股間を見ていた。考えていることはたぶん一緒だ。
もしも全裸になってこの伝家の宝刀に汁が付着したら?もし一生封印する羽目になったら?
たぶん、そんなことを二人で考えただろう。
「…まあ、パンツはいいか」
「…そうですね。
パンツ一枚ならいくらでも替えは効きますし…。
…しかしなんというか」
「なんだ?」
「…見た目だけなら高級そうな店の中でパンツ一枚にガスマスクの男二人って客観視するとたぶんすっげえ絵面ですよね。
どんなテロリストだ」
「パンツ一丁のテロリストがいてたまるか。
変質者ならいるかもしれんが」
「通報待ったなしじゃないですか」
「命よりはまだ軽い!
そういうわけでいざ!」
オレは再度缶詰の蓋に手を掛け、意を決して開封した。
「…そのあとのことは正直思い出したくもないな。
ガスマスク越しにも恐ろしいほど伝わる悪臭。
もうリバースしたよガチで。後輩も一緒に。
なんで未だにこんなゲテモノの極みのような食物を生産してんだスウェーデンさんよ、って悪態吐きたくなったね。
二人そろってパンツ一枚のままのたうち回ったよ。
いやあ、死ぬかと思った。
あれこそまさしく飯テロだわ」
「あんたが一番おかしいわ」
なんだかすごい遠い目をして語った今川に朝倉が間髪入れずにツッコんだ。
ほかの社員も皆同意のようだ。
散々ほかの社員の体験談にツッコんでおいて、本人がこれである。
説得力もクソもない。常識人なぞいなかった。
「まあいろんな意味で通報案件だけど、それ、…どうなったんです?」
「いや、なんか気づいたら見知らぬ森の中にいたよね。
あの建物は綺麗に消えてて、そんで地元の猟師さんに保護された。
都内にいたはずなのに田舎の山奥に移動してたんだから怖いよなあ。
ただお互いシュルストの汁が身体に付着してたから、猟師さんも猟師さんの連絡受けて駆けつけたおまわりさんも『なんだこの臭い!くさっ!』『うわあ臭い!』ってずっと鼻を押さえてて傷ついたわ。
その後数日臭いが取れなかったから退職届出しに行ったときも上司がずっとくさいくさい言ってて『わかったからいいから辞めていいから早く行け臭い!』ってなった。
これならいけると思って上司に迫ってサビ残とかの給与支払いもお願いしたら案外すんなり払ってもらえてラッキーだったよ」
女子たちにはすっげー遠巻きにされたけどね、と今川はよどんだ目で締めくくった。
まあそうだろうな、と諦観気味に社員たちは思った。
ふと外を見るともう雨は止んでいて、綺麗な夜空が広がっている。電気もいつの間にか復旧していた。
みんな荷物を持って部屋を出て、ビルのエントランスに向かう。
エントランスでいつも会う警備の男性が今川たちを見て、
「今日は随分遅いんですね?」
と笑って言ったので、今川たちは目を丸くして、
「いやだって、落雷で電車も停まって、停電してたし」
「はあ?
落雷なんかなかったですし、ずっと晴れてましたし、停電もしてないですよ?
ほら、どこも濡れてないじゃないですか」
そう言って警備の男が示したビルの外、人々が行き交う道には水たまりどころか濡れた跡すらない。
「…ねえ、専務は?」
不意に朝倉が疑問を口にした。
部屋を出るまで一緒にいたはずの専務の姿がない。
そういえば専務は一切自分の話はせず、みんなの話を聞いているだけだった。
そして電車が停まっているという情報を提供したのも専務だったはず。
「………………あの、今思い出したんですが、そもそも専務って、…今日、有給取ってたはずでは?」
やや青ざめた長谷川の言葉に、その場の全員が背筋を震わせたのは言うまでもなく。
そして薄暗いどこかの部屋で、
「ターゲットを間違えたなあ…。
あんなの獲物にしたらこっちの身が持たない…」
と落胆したようにつぶやいた影があったことは、誰も知らない。