辺境の地にて
王城の謁見の間。
高い天井から吊るされたシャンデリアが冷たい光を落とし、玉座の上の国王が私を見下ろしていた。
「アリア・フォン・レイナルト。お前を北方辺境の地に任命する」
その声音は、氷より冷たく、刃物のように鋭かった。
隣に控える宰相が、口元だけで笑む。
「国境警備もままならぬ痩せた土地です。ですが――あなたなら立派にやってくれるでしょう。いや、やってもらわねば困りますな」
嘲りと冷淡さが混ざった声。
公爵家令嬢を完全に追い払えば、王都の貴族派からの反発が避けられない。
だからこそ、遠方の荒れ果てた地を「任務」として押し付ける――事実上の左遷だった。
私は膝を折り、一礼だけしてその場を下がった。
心の奥底で、静かに炎が灯るのを感じながら。
⸻
城を出ると、春まだ浅い冷気が頬を打った。
私の帰りを待っていたのは、両親――公爵夫妻だ。
父は厳しい顔つきで、しばし黙って私を見つめた。
「……アリア、事実は異なるとしても国王の命令は絶対だ。今は何もしてやれなくてすまない…。」
低く、重い声。しかしその奥には、悔しさが滲んでいた。
母は小さく首を振り、私の手をぎゅっと握った。
「あなたを守りきれなかったことを、どうか許してちょうだい」
「お母様……」
その手は温かく、微かに震えていた。
父は懐から小さな革袋を取り出し、私に手渡す。
「非常時の資金だ。少ないが、使い道はお前に任せる」
「……ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
王都を離れたとしても、永遠の別れではない――だが、次に会えるのがいつになるかはわからない。
⸻
私にはもう一人、旅に同行する者がいた。
侍女のエリー。
彼女は、私が王都の社交界に出始めた頃――雨の夜、道端に倒れていたところを見つけ、助けた少女だ。
孤児で、行くあてもなく、冷たい石畳の上で震えていた。
私はその日から、彼女を屋敷に迎え入れ、侍女として育てた。
追放が決まったとき、私は彼女に告げた。
「エリー、辺境では給金をまともに払えないかもしれない」
だが彼女は迷わず答えた。
「お嬢様のそばにいられるなら、それで十分です」
彼女の存在は、この旅の中で何よりの支えになるだろう。
⸻
旅立ちの日。
王都を発つ馬車に揺られ、私は窓の外に広がる景色を目に焼き付けていった。
整備された街路樹が途切れ、やがて荒野と森が交互に現れる。
人家はまばらになり、風は冷たさを増していった。
数日後、遠くに白く冠雪した山々が見えてくる。
その麓――ここが、私の新しい領地だった。
⸻
丘の上に、小さな石造りの館がぽつんと建っている。
周囲は未整備の畑と風雪にさらされた木柵の牧草地。
村人の姿はまばらで、通りすがりの農夫がちらりとこちらを見る。
その視線に敵意はなく、ただ好奇心と警戒心が混じっていた。
(まあ、王都で悪役令嬢と噂された人間が来たのだから、当然かしら)
⸻
館の中は質素だが、最低限の設備は整っていた。
厚い石壁、広い炉、堅牢な扉。
エリーが囲炉裏に薪をくべると、室内にほのかな温もりが広がった。
「お嬢様、村で採れたハーブのお茶です」
差し出されたカップから甘く爽やかな香りが立ちのぼる。
一口含むと、旅の疲れがほどけていくようだった。
⸻
翌朝、私は村を見て回った。
道は土ででき、両脇には雪を残す屋根が連なっている。
畑の土を手に取ると、さらさらと砂のように崩れた。
痩せきった土地――だが、改善の余地はある。
(堆肥、緑肥、輪作……やり方は知っている)
村長のトマスに案内を頼み、畑の端に立つ。
「この辺境では麦とカブが精一杯でしてな。肥料も限られ、家畜の数も少ない」
「では、増やしましょう」
私の即答に、トマスは目を瞬かせた。
⸻
計画はこうだ。
家畜の糞、枯れ草、落ち葉を集めて堆肥小屋を作る。
それを冬の間に発酵させ、春に畑へすき込む。
同時に豆科の作物を植え、土に窒素を戻す。
翌年は麦、その翌年はまた豆科――そうして土を回復させていく。
さらに雪解け水をためる池を造り、乾期の水源を確保する。
「……まるで魔法ですな」
「魔法ではありません。経験と知恵です。必ず形になります」
⸻
作業はすぐに始まった。
森で落ち葉を集める男たち、苗床を整える子どもたち、保存食を仕込む女たち。
私は机上の指示だけで終わらせるつもりはなかった。
翌日、スカートの裾をたくし上げ、手袋をはめ、私も畑に立った。
土を掘る鍬の重みは予想以上で、腕にじわじわと疲労が溜まっていく。
しかし、鍬を入れた瞬間の土の匂いは、なぜか心を落ち着かせた。
「お嬢様、自ら土を……!」
驚く村人に笑って答える。
「この土地を良くするのは、私だけじゃありません。皆でやるから意味があるのです」
作業を進めるうちに、手袋の中が汗で湿り、頬には土がついた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
エリーが笑いながら私の頬の土を拭い、「お嬢様が畑に立つなんて、初めて見ました」とからかう。
その笑顔を見て、私も自然と笑った。
⸻
数日も経つと、村人たちの目が変わった。
最初は遠巻きに見ていた人々も、私が毎朝畑に立つ姿を見て声をかけてくるようになった。
力仕事は彼らにかなわないが、苗の間引きや堆肥の混ぜ方、畝の作り方など、私が前世で覚えた知識は着実に成果を出していく。
エリーも袖をまくり上げ、村の女たちと一緒に手を動かしている。
焼きたての黒パンを差し出してくれた少女に「おいしいわ」と言うと、彼女は花のように笑った。
⸻
私は追放された令嬢――表向きは。
だが、この土地ではただのアリアだ。
誰かの命令ではなく、自分の意思で未来を作る一人の人間。
夕暮れ、丘の上から見下ろした村は黄金色に染まっていた。
「すぐには結果は出ない。でも、春を迎えれば芽吹きが見えるはず」
最初の成果が現れたのは数か月後。小麦の芽が青々と伸び始め、
半年後には初めての収穫祭を開けるまでになった。