ハードな出張
「おはようございます」
「おはようございます」
行程二日目、走りだした馬車は今日も好調で、
本日は早くも午前のうちには目的の大貴族の領地に入る。
王都からさほど離れていない地域ではあるが、青々しく繁る緑が美しい。
街中では見られないその車窓の景色を、ケイナは楽しんだ。
絶景かな絶景かな。
「…あなたの故郷とは、植生は違うものですか」
「よく見ると違うみたいですが、私の世界でも地域によって大きく植生は異なりますので、
あまり違和感はありません」
時折こんな会話をしながら進む。
道の向こうに、数頭の馬に乗った人たちが待ち構えているのが見えた。
「お出迎えでしょうか」
「そのようです。侍従が対応します。窓を開けずそのままで」
エルスワース侯爵家の侍従がひょいと馬車を降りて何か話している。
馬上の人も馬から降り、丁寧にお互いお辞儀をしている。
なんとも好意的で助かる。
本日は午前中に取引に関わる施設の視察、午後からは早速取引内容の調整を行い、
今晩は大貴族の屋敷に滞在し、夜のうちにケイナが契約書として二部清書する。
翌朝それらにサインをしたら、今回のお仕事は終了である。
今回は王都との農作物の取引がメインであったため、
小麦畑や粉引き車、水田や作物の洗浄場を効率よく見て回る。
最後に、と案内人に連れられてやってきたのは、爽やかな風が吹く小高い丘の上であった。
眼前にはなんとも広大な白い花畑が広がっている。
何ということ!絶景かな絶景かな!
「あれが蜂たちの花畑です。
あちらの木箱の中で養蜂が行われ、採れた蜂蜜を抽出・濾過しているのがあちらの建物です」
「わあ、蜂蜜…!」
思わずケイナが声を漏らすと、
「お好きですか」
とレイフォード君が笑いかけてきた。
「ええ、お恥ずかしながら甘いものには目がなく」
「そうでしたか」
「もう良い香りがしてきます。早く行きましょう」
蜂蜜飴とかないかなー、ちょっと分けてくんないかなー、
と逸る気持ちを抑え、小走りで丘を下る。
ええいロングスカートが走りにくい。
「待ってください、転びますよ」
はは、と笑いながら、レイフォード君はケイナが持っていた書類鞄を奪い、少し先に降りて
ほら、と手を差し出した。
美青年のエスコートずるいって!!
ケイナは顔の温度が上がるのを止められない。
ちくしょう綺麗な顔しやがって。
軽く手を借りながら丘を降りきると、
レイフォード君はこちらを見向きもせずさっさと先に行ってしまった。
薄情な。
養蜂場の説明は話半分で聞いていたが、その香りは素晴らしかった。
甘さの中にフローラルな芳香がなんとも言えず、
ケイナは半分酒に酔ったような心持ちだった。
「お嬢さん、よろしければこちらをどうぞ」
案内人に匙に乗せて差し出されたのは、
「もしやこれは巣蜜…?!」
「おや、ご存じでしたか。
さすが王城の方は博識でいらっしゃる」
「いえいえ、ご馳走ではないですか!
よろしいのですか?」
「もちろんです、エルスワース様もいかがですか」
「いえ、実は甘いものは得意ではないので。
蜂蜜は紅茶に入れる程度が好ましいですね」
「そうでありましたか、ではお嬢さん、存分にどうぞ」
役得ー!出張来てよかったー!
巣蜜は前の世界でもなかなか食べられないご馳走である。
甘くておいしいうえにお肌にもいいんじゃなかったかしら?
大きく掬った巣蜜を頬張り、もぐもぐ咀嚼していると、
「そのように美味しそうに召し上がって頂きますとこちらも嬉しくなりますな」
とのお言葉を頂いた。
あら、はしたなかったかしら?
「よろしければもう一匙、巣から直接掬ってみるのはいかがでしょうか?」
何それブルジョワみたーい!!
ぜひぜひー、と巣に匙を入れるとずしっと重たい蜜が付いてきた。
おお、生命の営みの重み。
いただきまーす、とあんぐり口を開けると、
ひょい、ぱく。
匙を持った手ごと掴まれ、巣蜜は薄く色づいたレイフォード君の唇の中に消えて行った。
ん?
「エルスワース侯爵令息?」
「気が変わりました」
美味しいものですね、とぺろりと舐めた唇は蜂蜜で潤い、てらりと輝いて…
いやー殺傷能力たかーーい!!
美青年の唇の色気よ!!
いや一回頂いちゃってるんだけど!!
顔に出さずもんどり打つケイナの頭の中を華麗に無視し、
視察を終えた一行は滞在先の屋敷へ向かったのであった。
―――――
「ようこそ、我が領地へ。
レイフォード・エルスワース侯爵令息」
屋敷のメインエントランスでケイナ達を出迎えたのは、屋敷の女主人である夫人と、
「ご無沙汰しております、エルスワース侯爵令息。
娘のティアンナでございます」
ザ・貴族令嬢といった風情のたおやかな若い女性であった。
「ああ、ご無沙汰しております。
夫人、今回はお世話になります。
こちらは祐筆のケイナ嬢です」
お初にお目にかかります、
と全力の猫を被って礼を取るが、
ええよろしくね、とこちらに目をやることもなく流された。
これだよこれ、貴族と平民の距離感ったらこうでなくちゃ。
ようやく本来の職務である、物言わぬ筆状態になれたケイナはむしろほっとする。
レイフォード君が歓待の茶をふたりの女性から用意されている間、
ケイナはレイフォード君の侍従と並び壁際で待機する。
立場上凝視はできないが、壁の調度品を見る視界に入れる貴族女性ふたりは大変華やかだ。
さすがは大貴族の夫人と令嬢、よく手入れされた肌と髪に上質なドレス。
ケイナと違ってペンだこなんて無縁そうな白い指先。
レイフォード君の奥方となる方もこんな感じなのかなあ、
なんて思いが頭によぎったが、見なかったことにした。
「ところで、あなたは何をしているのです」
ソファからレイフォード君がこちらを振り返る。
「何を、とは」
「そんな場所で何をしているのかと聞いています。
あなたはこちらでしょう」
こちら、と顎でしゃくって示したのは自分の隣。ソファ席であった。
いやいや違うじゃん。
歓待されてるのレイフォード君だけじゃん。
見て、紅茶のカップの用意もひとつだけじゃん。
「いえ、私は…」
「レイフォード様、なぜそちらの女性も同席を?」
ティアンナと名乗った娘さんのほうが聞く。
だよね。疑問だよね。
「彼女は私と同じく正式に遣わされた、王城の職員ですから。
私の使用人ではないのです」
「でも、平民なのでしょう?」
だよね。私もそう思う。
「身分には関係ありません。
歓迎してくださると仰るのならば、彼女もいっしょに」
令嬢は反論する気はないようで、
ええ、それでは…
と渋々ケイナの分のカップが供される。
ええー、嫌だよそんなとこ座るの…
ほら、お嬢さんすっごい見てるじゃん…
とは言え席を造られてしまったならば仕方がない。
なるべく気配を消し、わきまえた平民の姿勢を崩さないよう立ち振る舞うことに死力を尽くそう。
「あなた、蜂蜜を気に入っていましたよね。
紅茶にも入れますか?」
「い、いえ、お気遣いなく…」
レイフォード君が蜂蜜匙を持ち、ケイナの紅茶カップに落としてくれる。
空気読もうよレイフォード君…
もう構わないでくれよ…
ほら奥様とお嬢様の視線が痛いよ…
「そちらの女性、あなた、もとは異界人であったとか」
唐突に夫人が口を開く。
「はい、仰る通りです」
「もの珍しいのは確かですけれど、所詮は平民でしょう?
エルスワース侯爵令息ほどの方と並ぶと不自由も多いでしょうに…大変なお職ね」
キターーー貴族女性の牽制キター!
ケイナは間違えない。
これは、
「異界人だか何だか知らないが、エルスワース侯爵令息と並べる立場と思うなよ。釣り合ってないぞ仕事だけの関係にしとけよ」
の意である。
「重々承知しております。
本来は相応しい方が務められるべきとも思っておりますので」
「そうでしょうとも、異界にはない話もおありでしょうから、
この世界のことをよく分かっている者が務めたほうが円滑なのではなくて?
要らぬ苦労をさせられて可哀そうだこと」
「お心遣い、痛み入ります」
夫人の口撃は止まらない。
もう嫌だよー解放してよー、と
心の中のケイナが半泣きになったその頃、あの、とティアンナ嬢が切り出した。
「レイフォード様がいらっしゃると聞いて、わたくし心を込めてしたためましたの」
差し出したのはスミレの押し花が封じられた美しいカードである。
大変に優美な手記で、何事かが書いてあった。
それを凝視できるほどタフなメンタルをしていないケイナは、目を伏せて存在感を可能な限り消した。
「よろしければ、晩餐の後にお時間を頂戴できますか」
ティアンナ嬢は弱弱しく、健気にレイフォード君に乞う。
「ええ、承知しました。では後ほど」
レイフォード君はカップの紅茶を飲み干すとさっと立ち上がり、
使用人に指示して侯爵の執務室へ案内するよう求めた。
ケイナも改めて退出の礼を取り、書類鞄を携えレイフォード君に続く。
後ろを振り返る勇気はない。
すたこらさっさ、である。
―――――
「で、どうだったかね?当家の娘は」
取引については特段大きな意見の相違もなく、事前の打診と同じ内容でよかろう、とのことであった。契約内容について改めて確認し合い、ケイナが清書する契約書の具体的要綱を決めて行った。ではこの内容で契約書を頼む、と場が整うまで非常にスムーズな流れであった。
書類をまとめて鞄に入れているなかでの侯爵の爆弾発言である。
「どう、とは」
「何を言う、エルスワース侯爵令息よ。
貴殿が令嬢たちの熱い視線を集めているのは知っているよ。
我が娘も君が来ると聞いて浮足立ってしまって、何日も前から服選びをしていた」
「それはお気遣いを」
「特に君の祐筆が平民の女性だと聞いてからは、
自分も手記には覚えありだと熱を上げてね。
カードをもらっただろう?
どうだろう、気に入ったなら、娘を連れて行ってやってはくれないか」
「それは王城職員に推薦せよとの意味でしょうか?」
「いや、君の傍に、という意味だよ」
君の傍。
レイフォード君の秘書という立場か、それとも恋人という立場か。
「なに、婚約を打診している訳ではない。
娘の手記を気に入ってくれたなら、祐筆として傍においてやってくれないか、
という意味だよ」
そちらの娘よりは役に立つだろう、
とケイナに牽制するのも忘れない。
「あいにくですが、私の祐筆は私が選ぶ訳ではありません。
今回も王城筆頭事務官の指示で彼女が付いています。
それにご息女を私がお連れするのは余計な憶測が生まれるでしょう」
「憶測大歓迎、ということだよ」
「……なるほど」
レイフォード君は無表情に手元を見つめている。
大貴族の娘が祐筆として隣にいたら、それはそれは交渉の際強かろう。
平民のケイナとは圧が違う。
公然の恋人として扱われてしまうのが避けられない、のはどうかと思うが。
「この後は晩餐会だ。
そちらの女性は契約書を作るのだろう?
良ければ食事は片手でつまめるものを部屋に用意させるが」
「お心遣い感謝いたします。ぜひお願いいたします」
「よい契約書を頼む」
「心得ました」
レイフォード君が気づかわしげにこちらを見ているのが分かる。
「ではエルスワース侯爵令息、晩餐会前に下書きをお持ち致します。
その後私は部屋で清書に入りますので」
「ええ…」
「では、御前失礼致します」
案内人に従い自室へ戻ったケイナは、
ちょっと気分を害しながら契約書の下書きを行った。
あれだけあからさまに蔑まれ、
「ちょっとお前そこ替われ」と言われて気分がいい訳がない。
貴族同士の関係性に平民の自分を巻き込まないでもらいたい。
…これだから、一度体温を分け合った相手と慣れあうのは嫌なのだ。
レイフォード君も、自分がワンナイトした相手だから無意識に気持ちが近くなっているのだろう。
でも実際はそうではない。
お互い確認しなければならない、お互いの適切な距離感を。
レイフォード君の客室のドアをノックする。
侍従が出てきたので、「契約書の下書きをお持ちしました」と言づける。
「入ってください」
と奥から声がかかる。
入室を許されると、中ではちょうど晩餐用の正装に着替え中のレイフォード君がいた。
下ろしていた髪を上げ、まろい額が晒されている。
身体の厚みがよくわかるタイトなシャツに、皴一つないトラウザーズ。
完璧な美しさの、高貴な令息だ。
「こちらを」
契約書の下書きを渡し、レイフォード君の確認を待つ。
その間部屋を眺めると、ケイナに用意された部屋とは全くランクが違うことを思い知らされた。
大きなベッドにクローゼット、ソファセットもあるスイートルーム仕様である。
ぼーっと眺めていると、クローゼットの隣に女性もののドレス生地のショールが掛けられているのを見つけた。誰のものだろうか。侍女のものにしては上等な、軽やかな品である。
「結構です」
「ありがとうございます、ではこちらで清書致します」
契約書のOKが出た。
ケイナはこれから、部屋でひとり寂しく清書作業に入る。
ちくしょう晩餐会楽しんできやがれ、と不貞腐れて退室しようとすると、
「あの」
とレイフォード君に呼び止められた。
「あなたは……」
「何でしょう?」
「あなたは、良かったんですか」
「何がでしょう?」
「あのように言われて、晩餐だってひとりなのでしょう」
「ええ、問題ありません」
「しかし」
「エルスワース侯爵令息」
レイフォード君が黙る。
「私は、平民です。
そして、この旅は、仕事の旅です」
何の問題がありましょうか、と言外に問う。
「あなたは、何も思わないのですか」
「何に対してでしょうか」
「僕に…あなた以外の女性が近づくことに」
ティアンナ嬢のことだろうか。
「ええ、…何も」
自分は、上手く笑えていただろうか。
―――――
夜半、契約書は完成した。
万年筆は使い勝手抜群だった。
想定したよりもずいぶん早く仕上げられ、ケイナは良い仕事ができたとうんうん頷いた。
身支度も終え、さて寝ようという時になって、
自室のドアが静かにノックされた。
ええーやめてよこんな夜にー。
とはいえ無視するわけにもいかないので、そっと薄くドアを開ける。
そこにいたのは、
「お仕事中だったかしら?少しよろしい?」
昼間よりちょっとドスのきいたティアンナ嬢だった。
ティアンナ嬢はぐいぐい部屋に入ってきて、
手に持っていたバスケットからグラスをふたつ取り出す。
同じくバスケットからチーズとワインを取り出すと、
トトトっと勢いよく注ぎ、こっちにひとつ、ずい、と渡してきた。
「まずはやってちょうだい」
と言い、自身もぐいっとグラスをあおる。
なんだなんだ。何が起きてるんだ。
「はあ、頂きます…」
ケイナも恐る恐る口をつける。こわい。なにこれ。
「…ったく、やってらんないわ」
「一体…なにごとでしょうか…」
「ねえあなた、レイフォード様とは親しくていらっしゃる?」
「いえ、同じ職場ではありますが、決して親しいという間柄ではございません」
「そう。
じゃあ知ってる?彼の恋人のこと」
「はい?」
レイフォード君の恋人?いや聞いたことがない。
モテモテだとは知っているが。
「いえ、そのような話は一度も」
「何よ役立たずねー!」
ティアンナ嬢はさらにグラスを煽る。
「…彼ね、令嬢たちの憧れの的なのよ」
「はあ」
知ってる。
「私だって憧れてた!
だって彼、あんなに素敵なのに婚約者候補の噂すら聞かないんだもの」
「はあ」
「さっき、思い切ってアプローチしたの。
『お父様が何を言ったか知らないけれど、私を婚約者の候補に入れてはくださいませんか』ってね」
「直球ですね」
「ふたりきりで彼に会えるチャンスなんて滅多にないのよ!
積極的にいかないでどうするのよ!」
おお、結構体育会系だった。
「そしたら、『私には恋焦がれる人がおりますので』って断られた」
グラスを更に煽る。大丈夫かこの人。
「はあ」
「どんな女かもう気になっちゃって!!あなた何か知らない?!」
「知りませんねぇ…残念ながら」
そうか。
レイフォード君には心に決めた人がいるのか。
『僕は、あなたと寝たくはなかった』
出発直後に言われた言葉がリフレインする。
そうか、そのような人がいるならば、ケイナのような存在は邪魔で仕方がないだろう。
若気の至り。過去の過ち。黒歴史。
そのような人間が職場にまで現れて、さぞかし目障りだっただろうに。
それでも邪険にすることなく接してくれた彼だ。
きっと良き恋人、良き夫、良き父になるのだろう。
「少し前までは、お見合いだの婚約の打診だの、浮いた話が彼の周りを飛び回ってたのよ。
彼も当たり障りなく、話の上がった女性に会ったりしてたみたい」
「はあ」
もはやケイナは生返事である。
「それが半年前くらいから、ピタッと止んだの。
彼が全部そういう話を蹴ってるって聞いたわ。
きっとその頃なのよ、その女に出会ったのは」
ん?
ケイナは何か引っかかったが、違和感を味のしないワインで流し込んだ。