男は甘える女に口が軽くなる
このところ妙に貴族様ことデヴィットの様子がおかしい。
というのも、どうもデヴィットと母の仲が冷え始めているようなのだ。
女公爵ことシャーロットが亡くなって程なくしてデヴィットは母を迎えに行った。これは二人が相思相愛だからである。デヴィットは女公爵からもう用済み扱いされていた節があり、母に女としての包容力を望んだのは想像に難くない。
屋敷に招かれた母は始めのうちはデヴィットと愛し愛されていた。ところが母が夜の女から成り上がった自分を磨き直そうと時間と労力を費やし、夜の世界への還元に金を費やし始めた辺りから、段々と熱意が失われていったような気がする。
「いいの?」
「男女の愛など同棲し始めたら数年で冷めるものよ。その後に尊重し合う関係になるのか惰性で付き合うだけになるか、はたまたは破綻するかは夫婦仲次第なのよ」
「じゃあ、あの人が母さんから距離を置こうとしてるのも受け入れるの?」
「男とは単純な生き物。私と愛し合ったのも正妻がいる状況で愛人を侍らす背徳行為に興奮したのもあるでしょうし、単に私が年を取って抱く気にならなくなったのもあるでしょうね。いずれにせよ、納得はしているわ」
「寵愛を失った愛人とその娘がいずれ公爵家から追い出される可能性は?」
「あの人を不快にしなければ放置されるでしょうね。慎ましく好き放題する、それを維持していれば問題無いわ」
母はそんな現状を受け入れているようだった。貴族様から再び愛されようと躍起にはならず、これまで通りの立ち振る舞いを崩そうとしない。夜の一時ももう数年間しておらず、寝る部屋も別々なんだとか。
そんな貴族様は夜な夜などこかに出かけている。貴族様は誰にも知らせず秘密裏に外出してるつもりだけれど、これまでの件もあって夜勤の門番と仲良くなったわたしには筒抜けだった。門番曰く、シャーロットが存命な頃と同じ生活模様に戻ったそうな。
わたしは思い切ってデヴィットの後を追いかけることにした。
質素な馬車から降りたデヴィットは大通りから見慣れた脇道へと消えていく。そしてわたしの予想通り、デヴィットは夜のお店へと胸踊らせながら足を踏み入れた。わたしもまた少し時間を置いて入店し、とある女性を指名しつつ監視を続ける。
「あらジュリーちゃん、いらっしゃい。未成年者は歓迎しないのだけれど」
「今回もお邪魔します。ちゃんとお金は払うから大丈夫です」
「言っておくけれどシャロンの娘だからって安くはしないわよ」
「前回貰った割引券は行使させてください」
クリスティンがわたしの隣に座り、果実や果実汁を手際よく並べていく。あいにくお酒が飲める年齢に到達するのはあと少し先。酔う、という感覚は貴族の嗜みとして一口喉を通すことがあって体感している。成程、酒に溺れる人も多発するわけだ、と妙に納得したのを覚えている。
デヴィットが美女を侍らせている姿が見える席に案内された辺りでわたしの来訪目的を察したようだ。クリスティンもまたデヴィットにすり寄る美女が誰なのかを説明する。いずれも母よりわたしの方が年が近い若手だった。
「あの貴族様、前よりお店に落としてくれるお金は増えたけれど、それでも大盤振る舞いってほどではないわねぇ。「俺は公爵だぞ!」とか偉そうに自称してるわりにまだ誰かに財布の紐を握られてるの?」
「予算管理はわたしとミッシェルがやっているので。彼は割り当てられる小遣いの中でやりくりするしかありません」
「ふぅん。個人的にはちょっと厄介な客なのよね。昔はシャロンが上手く付き合ってたから問題無かったけれど、今はより面倒くさくなった感じかしら。シャロンったら手綱を握っていないの?」
「手綱ならとっくに手放してますよ。もう彼との愛に夢を抱いていないようです」
クリスティンの話では、デヴィットは美女達に色々と暴露するらしい。自分はいかに優秀で凄くて偉いのか、ミッシェルがあの女にますます似てきて腸が煮えくり返るとか、真面目なわたしがつまらないとか、母が可愛げが無くなって生意気になった、と、満面の笑顔で迎えに来た過去からは想像もつかない愚痴を平然と宣った。
「貴族様、この店が今はシャロンが経営してるって知ってるのかしら?」
「知らないでしょう。母が何をしているか興味が無いでしょうし母も教えてませんし」
「うちの娘達も顔をひきつらせてるじゃないの。驚きを表に出さないよう再教育しなきゃ」
「彼にそれを察する目は無いみたいですし、問題無いのでは?」
父がまた夜の店に通い出したことは当然母の耳にも入っているはずだ。それでも何も文句は言わないあたり、母の愛は本当に冷めきったようだ。一応愛の結晶として生まれたわたしにとってはとても複雑だ。
しかし、そんな不誠実な父であっても夜の店は歓迎して持て成している。貴族様の不貞で公爵家の予算から捻出された金が店に落ちて、利益は不貞された母に還元される。何だか笑い話に出来てしまいそうだ。
貴族様がここに通う頻度を聞くと、概ね貴族様が公爵邸を抜け出す日と一致する。どうやら常連になっているらしい貴族様は美女を侍らせてお酒を堪能するのみならず、ほぼ毎回女を味わっていくそうだ。
「分からないですね。貴族って身分なら愛人だって作り放題なのに。人一人囲うぐらい簡単に出来そうじゃないですか」
「愛人を作るのは完全な黒、不貞行為よ。でも商売女を買うのは仕事の契約って扱い、つまり灰色なの。男の欲求を満たしたいのに妻は乗り気じゃない、けれど第二夫人を作るほどでもない。そんな隙間の欲求を解消する場がここよ。一晩だけの関係だから気楽だしね」
「不誠実ですね」
「そう考える時点でジュリーちゃんは夜の世界に向いてないわ。昼の世界で成功出来るよう頑張りなさいね」
成功、か。
わたしの場合は何をもって成功と言えるのだろうか?
ミッシェルが、母が、そしてポーラが目指す先は一体何なのだろうか?
わたしはどうすれば幸せを感じて生涯を生きていけるのだろうか……?
まあいい。将来については後で考えることにして、今は目先のことだ。
とにかくデヴィットの動向は分かったからもうここには用もない。
出されたものは一通り堪能したのでそろそろ勘定を……、
「待ちなさいジュリーちゃん」
「クリスティンさん?」
と思ったところでクリスティンに手を取られ、彼女に連れられて私は店の奥へと案内されていく。そして店同士を繋ぐ連絡通路をくぐって隣の店へと足を踏み入れた。薄暗い廊下を通ってわたしは奥の一室に入るよう促される。
クリスティンが壁の燭台に火を灯すと、そこは妙な雰囲気を出す寝室だった。わりとしっかりとした作りの寝具が部屋の中央にあり、一人用の机と椅子が壁際に配置されている。入り口近くの小部屋には簡易的な身体洗い場があるようだ。
これはもしかしなくても、と背筋を凍らせていたら、クリスティンが真面目な顔をして首を横に振った。
「別に取って食おうってわけじゃないから安心して頂戴。けれどそろそろだと思うから、ジュリーちゃんも聞いておいた方がいいかもね」
「何をですか?」
「この壁、少し薄いのよ。向こう側で大声出したりこっちが壁に耳を近づけると、色々と聞こえちゃうの」
「つまり、今から隣を盗み聞きする、と?」
他人の情事など全く興味も無いが、クリスティンの気迫に押されて大人しく従うことにした。彼女と一緒に椅子に座って耳をすませる。すると程なくして隣の部屋にも誰かが入ったようだった。そしてその声はわたしのよく知るものだった。
得意げになる貴族様と上客に媚びる美女、二人はやがて……とこの辺りで嫌悪感が増して耳を離してしまった。クリスティンが引き続き聞き耳をたて、暇な間彼女から菓子を貰った。貴族を相手してる店が用意するのもあって結構美味しかった。
そろそろだ、とクリスティンに促されて再び壁に耳を寄せる。とりあえず二回戦ほど終わらせた後らしく、貴族様達は語り合っているようだ。欲望を吐き出した貴族様は上機嫌な様子で、口調が明るい。
「ね~え公爵様。うちのお店をご贔屓してくれますけれど、綺麗な奥さんがいるんじゃないですか~?」
「好きな料理とて毎日食べていれば飽きるものだ。どうやらアイツも察しているようだが何も言ってこないし、問題は無い」
「じゃあこれからもアタシを沢山可愛がってくれますか~? 一生懸命奉仕しますよ」
「勿論だ。お前はいい女だからな」
壁を殴りたくなる衝動を何とか堪える。こんな奴から生まれたかと思うと手首を切って己の身体に流れる血を全部抜きたくなってくる。けれどそうしたら母から受け継いだ血肉まで失ってしまう。それは嫌だ。
「公爵様の綺麗な奥さんってアタシの先輩なんですけどぉ、今は公爵夫人なんですよね~凄いですよね~」
「そうだろう。アイツは良くやっている。やはり私の目に狂いはなかった」
「昔は先輩に前の奥さんの愚痴を結構言ってたそうですけどぉ、前の奥さんはどうしたんですかぁ?」
なんだか話題がきな臭くなってきた。
「くたばったさ。あの小賢しい女のせいで私は散々苦汁を舐めさせられてきたが、神は私に微笑んだというわけだ」
「え~、もしかして公爵様がひと思いに、こう、やっちゃったんですか?」
「はははっ! 突然死として処理されたからそれが真実だ! だが、そうだな。お前には特別に教えてやろう。皆には内緒だぞ」
「なになに、教えて教えて~」
そこから貴族様が語った内容は驚くべきものだった。
目の前にいるクリスティンはそれを事細かく手帳に記していく。
「娼婦が相手だからって口を軽くする間抜けは楽勝よね」と彼女は皮肉げに笑った。
「ジュリーちゃんはもう帰りなさい。もと来た通路を戻ればいいから」
「クリスティンさん、これは……」
「ジュリーちゃんは今日ここには来なかった。いい?」
「……はい」
そうしてわたしは逃げるように店を後にし、公爵邸に戻った。