最期の悪足掻き
熱い。両手に痺れるような痛みが広がっている。それは徐々に引いていくが、赤みはまだ残っているし汚れてもいる。
殴ったのだ。怒りに我を忘れ、衝動のままに。馬乗りになって何度も何度も。血が出てもお構いなしに。
だが今自分の下に寝っ転がっている人が誰なのか思い出せない。顔を見ても名前は出てこない。部屋に上げるくらいだからそれなりに親しい間柄のはず。それなのに激昂した理由が相手の見下したような顔だとだけははっきりと覚えている。
あの沸騰するような怒りも今は綺麗に磨りガラスの向こう側に置き去られている。怒りが冷めてしまうと今度は自分がしてしまったことに対する恐怖が湧いていく。慌てて立ち上がろうとしてよろけ尻餅をつくが何とか立ち上がり、微動だにしないその肢体を押入れの中に押し込んだ。
まだ熱は残っているが、それは徐々に失われていっているような気がした。ふと気になって指を手首に当てる。脈はない。死んでいるのだ。そして彼を殺したのは紛うことなく自分なのだ。
それから床に付いてしまった血を雑巾で拭う。いつもは気にも留めない壁と床の境目やテーブルの裏、フローリングの間に至る隅々まで注意深く目を凝らした。
一通り拭き終わってみると、押入れの中に入れたままの死体が気になった。夏は過ぎたがまだ残暑が抜けきっておらず、あのまま放置していたらいずれ腐臭がしてくるはずだ。そうすれば不審に思った誰かが警察に通報するだろう。そうなる前に処理しなければならない。
しかし、今は何も思い浮かばず、疲労が頂点に達していたせいか布団に倒れこむなり泥のように眠った。
息が切れ、腰や膝が痛い。腕も上がらないし、握力もなくなっている。しかしやめるわけにはいかない。穴はまだまだ浅く、小さい。日はまだ高いはずだが周りに生えている木は葉が鬱蒼と茂っていて光は届かず夕暮れ並に薄暗い。
腐葉土は柔らかく、シャベルで掘りやすくはあるが反面足元が崩れやすくもあり、効率はすこぶる悪い。それが更に焦りを倍増させる。早く埋めなければと気持ちだけが前のめりになる。
自分の背後に意識が向く。数歩先に置いたブルーシートに巻かれているもの。それは人間の、疾うに成人した男性の死体であるが、さて、それは誰だったか。
極度の緊張状態にあるためか脳がうまく働かず、細かに思い出せない。
背中に視線を感じる気がする。チリチリと痺れるような感覚。恐る恐る振り返るが誰もいない。必然的にブルーシートに包まれた塊が目に入り、一瞬目と目が合ったような錯覚を覚える。シート一枚隔てた向こう側を勝手に想像をする脳に先ほどの視線は獣だと言い聞かせ、それから数十分かけてようやく穴を掘り終える。
最初に投げ入れた凶器のナイフをはさして音も立てずに落ちる。念には念を、と血や指紋は拭った。続いて死体を引きずり、そのまま穴に入れようとしたが、逡巡した後結局ブルーシートを外して埋めることにした。直に土に触れていればバクテリアが死体を分解してくれるはずだ。
一呼吸。二呼吸。意を決してブルーシートを縛っていた紐を解く。顔を直視しないように目線を足の方へ逸らし、端を持って勢いよく上方向に引っ張る。ビニール質のシートが擦れる音と転がった死体が穴に落ちる音が重なる。運よく俯せになり、安堵する。
そして掘った土を被せていき、その上に適度に落ちていた葉を散らす。土が柔らかいだけあり、ちょっと見ただけではどこが掘り返されたのか分からない。しかし決して居心地が良いわけがなく、ブルーシートをたたむと逃げるようにその場を後にした。家に着くなり、シャベルとブルーシートを押入れにしまうと敷きっぱなだった布団に倒れこんでそのまま泥のように眠った。
日の出を過ぎてしばらく、頭痛と吐き気を伴って不快な起床を迎える。携帯を見るとあれから丸一日寝ていたらしい。
ふと自分の両手が目に入る。その手は黒く汚れている。ハッとして押入れを見る。それと同時に部屋の中にかすかに漂う臭いに気付く。何とも言い難い、出来れば出会いたくない臭い。どうやら長い時間晒されていたその臭いが頭痛と吐き気の原因のようだ。
そういえば、生ごみを捨て忘れていた、と思い出す。しかしこの臭いは本当に生ごみの臭いだろうか。それとも、と再び己の手を見る。やはり黒く汚れている。
押入れの中にあるのは―