夕焼け小焼け
景色は等しく夕日色に染まっていた。
目の前の遊具、その左向こうの社宅であるアパート群、その更に向こうに広がる山々。
僕は公園のベンチに座り、ぼんやりとそれらを眺めている。どうしてここにいるのだったか。
それにしても、誰もいない。公園の近くにはそれなりに大きな道路が走っているはずだが、車の音もない。
公園に建つ時計は九時半を指している。九時半?なら何故空は夕日なのだ。
おかしいと思いながら、どこかでこれが正しいのだと確信している。
「それはここが夢だから」
話しかけられ、そちらを見ると僕の隣に中学生くらいの少女がさも当然のように座っていた。
「だから、あなたが見慣れていると思っているこの風景も微妙に違うのよ」
言われて目の前の景色に視線を戻す。確かにどこかが違うような気がする。しかしどこが違うのか明確には分からない。
「さあ、早く帰らなければ」
不意に立ち上がった少女は僕の前に立ち、手を引く。夕日色に染まった少女の顔はどこか見覚えがあった。
僕はまだここにいたかったが同時に早く帰らなければとも思い、そのまま少女についていく。
少女の手は冷たかった。
僕たちは公園を出ると、大きな道路を横断し、住宅街に入る。その間、僕たちは無言だった。
住宅街は一様に平屋で、全く同じに見えた。やはり誰もいない。これだけ家があったら一人くらいすれ違ってもいいようなものだが。
無限に続くような住宅街をどのくらい歩いただろうか。一瞬、わずかに靴が道路に張り付くような感覚があった。
ガムを踏んでしまったらしい。そう自己解決して歩き続けたのだが、先ほどより張り付くような感覚が強くなったような気がした。
不思議に思って靴の裏を確かめるが歩きながらではよく見えない。
「どうしたの」
僕の異変に気付いた少女が歩みを止めずに振り向く。
「いや・・・ちょっとガムを踏んだみたいだ」
僕の答えに少女はサッと顔色を変える。
「まだ歩ける?」
「うん?少し疲れてきたけどまだ大丈夫だよ」
「そうじゃなくて」
焦っているのだろうか、わずかに語気が強くなる。しかしそれ以上少女は何も言わず、また前を向くと歩く速度を速めた。
「あなたー、今日はあなたの好きなカレーよー。ポテトサラダもあるわよー」
どこかの家から妻の声が聞こえる。僕を呼んでいる。
「ねえ、君。聞こえるだろう?あの声は僕の妻だ。どこかの家にいる。妻も連れていかないと」
「私たちは進んでいるのよ。声が小さくならないのはおかしいでしょ」
怒気を含む声で少女は言い放つ。言われて僕は通り過ぎる家々から妻の声が聞こえていることに気づく。
そうだ、これは夢なのだ。ならあれは妻ではないのか。
今や靴の張り付きは接着剤でもつけられたのではと思うほどに強く、歩くのも一苦労だった。
まるでここから行かせるまいとするように。
「ねえ、諦めないで。諦めないでね?歩くのよ。あなたは歩くの。そして帰るのよ」
少女は泣きそうな声で僕の腕に縋り付く。
「そして早くここのことを忘れてちょうだい。お願いだから。どんなに共通点を見つけても思い出そうとしないでちょうだい。ねえ、お願いだから」
少女は一件の平屋の前に来ると粗末な門を開け、僕に敷地内に入るように促す。
敷地内に一歩足を踏み入れた瞬間、あの張り付くような感覚が跡形もなく消えた。
そのまま進んで玄関を開ける。玄関は綺麗に整頓されていて、家の中も夕日色だった。隣に少女がいないことに気づき後ろを振り返る。
門の前に少女は立っていた。
「さあ、そのまま中に入って。そうすれば帰れるわ」
「君は?」
「私はいいの」
「よくないよ。君も帰らなくちゃ」
「いいのよ。私はここの一部になってしまったから」
「一部?一部ってなんだい?」
「言ったでしょ、ここは夢なの」
「それでも帰る場所くらいあるだろう?」
「ええ、あるわ。でもここに誰も来なくなってからじゃないと帰れないの。ほら、早く。ドアが閉まり始めているわ」
少女の言う通り開けた玄関の扉はひとりでに閉まっていく。僕は慌てて隙間に身をもぐりこませる。
「ねえ!君の名前は?!」
声を張り上げる。目と鼻の先なのだからそこまで声を荒げる必要はないのだが、声の限り叫んだ。
「・・・――――!」
一瞬間が空いた後、少女も何やら叫んだ気がした。しかし扉が閉まる音が嫌に大きく、長く響き、ついに少女がなんと言ったのか聞き取れなかった。
扉が閉まると先ほどまでとは打って変わって真っ暗だった。
目を開けると見慣れた天井が見える。
枕もとの時計を見ると針が九時半を指している。気怠い体を無理やり起こして伸びをする。
視界にカレンダーが入る。写真は鮮やかな夕焼けだ。その夕焼けに既視感を覚える。鮮やかな夕日色。
ああ、思い出した。あの家は実家だ。そこから今の会社に就職し、この社宅に越してきたのだ。近くには公園もあり、交通の便も悪くない。
そして、あの子は。中学の頃に行方不明になった女の子がいた。よく覚えている。初恋の子だった。最後に見た君は夕日の中で友達と笑いあっていた。
あれからもう十数年経ったのか。未だにその子も犯人も見つかっていない。
名前は、なんといったか。確か―――