何もないと云える口がある
何もない、そのことに失望したことはない。むしろ私は何かを失うことを極端に恐れ、何かを得ることを拒んだ。それでこそ私は幸せだったのだ。
何かを大事そうに抱いて歩く人を見ると恐怖のあまりに硬直し、手ぶらで歩く人を見ると、まるで母親に抱かれる赤子のように安心した。
ある日、人気のない丘にいた私の前に死神が現れ、云った。
「世界は矛盾でこそ存在し得る。さて、お前は唯一所有する命を誰が為に捨てるのか?その肉体を捨て、誰の感謝を得るのか?答えれば苦なくあの世に送ってやろう。」
私は悩んだ。私が持っているものなど何もないからだ。正直に告げると死神は全身の骨を鳴らして笑い、云った。
「お前には何もないと云える口があるではないか。」
絶句する私を指差し、死神は続ける。
「恐れるものから逃げる足がある、恐れるものを払いのける手がある、何かを恐れる脳がある。お前を殺す者は云うだろう、お前の命を"奪った"と。」
私は途端に恐ろしくなり、その場に崩れ落ちた。奥歯はガチガチと音を立て、体は石のように動かない。
「お前は所有する肉体を誰が為に捨てるのか?その肉体を捨て、誰の感謝を得るのか?答えれば苦なくあの世に送ってやろう。」
死神は淡々と繰り返し、私は悶絶した。
それから数日が経ち、ただでさえあまり食事をとらない私はみるみるやつれた。体も骨と皮と臓器だけになった。
朦朧とする意識の中、私は息も絶え絶えに苦悶した。視界は霞み、まだそこに死神がいるのかすら分からない。
何もない、と思っていたのに。私には口がある、足がある、手がある、脳がある、命がある。怖い、怖い、怖い。失ってしまう、怖い。この体を名も知らぬ誰かに与えれば、感謝を得る。得てしまう。怖い、怖い、怖い!私は、私は。
「わたしはあ゛ぁっ!!!!!!!!!」
数日前に崩れ落ちた男は、私の問いにその間悶絶した後、断末魔を上げ、苦悶の表情で事切れた。
「ここまで痩せこけてしまえば、人の役には立つまい。」
魂を抜いた死神は男の死体を放置し、その場を立ち去った。死臭を嗅いできたのか、わずかな食料を得に動物達が死体に群がる。食い散らかされた骨はもはや人か動物か見分けもつかず、ただただ雨風に晒され、偶然にその上を歩いた人や動物に砕かれ、土と同化した。
漸く、あの男が失うものはなくなった。