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目を覚ますと、そこはよく見るような病室だった。
体が痛いんだか痛くないんだか、不思議な感覚だった。仰向けのまま首だけを横へ向けると、椅子に座ったまま眠りこける母の姿がある。外は明るく、何時頃とはわからないものの、気を失ってからしばらくは経っているようだった。
こういうときにどうするのが正解かわからず、俯いた母の皺一つない綺麗な横顔を眺めていた。
「あら、起きてたの」
病室のドアを引き開けて清詠が顔を覗かせる。ツインテールにした赤い髪が揺れるのを見ていると、途端にあの時の記憶が蘇る。
ちょっと人殺しちゃったんだけどさ──
「ああ! ごめん! ほんっと……ごめんね……」
「いや、別にアタシ何も謝られるような覚えないんだけど……あ、多分心配してるだろうから伝えとくけど、冬夏なら無事よ。ピンピンしてる。今朝には退院してもう店番してるから、安心して欲しいってさ」
謝られるような覚えがなくったって、もう一回謝らせて欲しいくらいには罪悪感を感じている。でもとりあえず冬夏さんは無事で良かったし、今朝ってことは今はもう朝とは言えない時間なんだろう。
「無事なのは何よりなんだけど、ヤ、違うんだ、昨日……? かな、そう。俺さ、人刺しちゃって……その子死んだと思って、死体処理手伝ってもらおうとお前に電話しようとして……」
そこまで言って、あれ、俺、本当に人刺したよな、と心配になる。ちゃんと刺さったことも確認したのに、ああやって起き上がって。もしかしたらどこからか、趣味の悪い夢だったんだろうかと。でも肉を切った感触ははっきり覚えている。じゃあやっぱり俺、もしかして本当に殺しちゃったのかな。
「ちょっと、顔色悪いわよ。後で一から説明してあげるから、とりあえず落ち着きなさい。まあ、昨日の電話の謎が解けて良かったわ……」
清詠はそれから、ポツポツと昨日のことについて語り始める。
風呂に入っている間に俺からの不在着信があって、かけ直しても返事がないことを心配して夜中に家の人に車を出してもらったこと。俺の家に着いたら着いたで、アパートの周りをパトカーと救急車が囲んでいたこと。翌朝──今日の朝早くに俺の母から連絡を貰い、面会時間を待って今会いにきたこと。そして肝心の俺自身は全く命に別状はなく、驚異的な回復力と生命力を発揮し、少し輸血をして数針腹を縫った程度で翌朝には元気に目を覚ました、といったことだそうだ。
「死体処理班として呼ばれそうになったのは複雑な気分だけど。ともかく無事で良かったわ。命に別状はないとは聞いていたけど、実際に起きて喋ってるところを見るのとはわけが違うものね。……それでね、話さなきゃいけないことがあるの」
と、眠っている母の横に清詠が椅子を引き出すと、その音で母が目を覚ましたようだった。しぱしぱと瞬きをしてから顔を上げる。
「ん、おはよう志異。小娘も。来てたんだね」
「その小娘って言い方はなんともならないわけね……」
ちょっとした言い争いはいつものことで、まるで大きな冒険でも終えた後のように日常に帰ってきたことを感じる。並んで座った2人を一通り眺めてから、清詠に続きを促した。
「んで、話って」
返事をしようとした清詠を母が手で遮った。不満そうな清詠を横目でチラッと見てから話を始める。
「私が代わりに。ね、志異。昨日の今日でお前にこういうことを聞くのは少し申し訳ないんだけど、お前を襲ったやつってのは、暗い青緑の髪をしたセーラー服の、小学生くらいの男の子でいいんだね?」
「ン、そうだね。あと目の色がピンクで、珍しいなって思った」
「そう、ありがとう……それで私はお前にいくらか謝らなきゃいけないことがあるね。昨日帰るのが遅くなったのは、無くなった家の鍵を探してたからなんだけどね、家の鍵がその男の子に盗まれてたみたいで……」
ごめんね、と続けてぎゅっと抱きしめられる。母の肩越しに清詠と目が合って、片眉を上げて微笑まれた。多分あれはアンタの友達には黙っといてあげる、とかそんな意味だろう。余計なお世話だ。
「母さんのせいじゃないよ。大丈夫、俺も全然元気だし、冬夏さんも無事みたいだし」
まるで子供にするように、母の背中をゆっくり叩いた。
「ありがとうね。……それで、簡単に説明すると、あの男の子……あれがね、妖異ってやつなんだ」
母はずれたカーディガンを直して椅子に腰かけた。
「え、じゃあ、もしかして俺狙われてた!?」
「まあそうなるわね」
「正確にはお前と冬夏が、だね。身体を変えようとしたのか、ただ単純に殺そうとしたのかはわからないけれど」
母がそう言って最後、二人して何やら考え込んでしまった。
しばらく病室の中に沈黙が漂い、いたたまれたくなったあたりでその空気をかき消すように声を出した。
「と、うかさんも御子ってやつだったってこと……? あ、じゃあ、ねえ、結局のところなんだか良くはわかんねえんだけど、俺が刺した子は逃げちゃったんでしょ? それ、俺も冬夏さんも危なくない? 自意識過剰じゃなければだけど」
「安心して、自意識過剰じゃないわ。いや、しちゃだめなのかこれ、ともかく、小野田さんと雲井さん、明日話聞きに来るってから。伝えることは伝えたし、それじゃあアタシ帰るわね。あとは家族水入らずでどうぞー。あ、そうだ。石田たちには連絡してあるから、そのうちお見舞い来るんじゃないかしら」
「ちょっと」
「お大事にね」
静止も聞かずに手を振って帰ってしまった。母はしばらく、清詠の出て行った病室の入り口を眺めてからこちらに向き直り、一通り俺の体を上から下まで眺めた。
「私は医者じゃないから詳しいことはわからないけど、入院自体は一週間くらいみたいだよ。新学期早々大変だねえ。でもクラス替えがなくって良かったというべきかな」
「あ、それがさ、言い忘れてたけど担任は変わっちゃったんだよ。前の先生は多分今年の新入生の担任。新しい先生は去年二組の副担だった人で……」
時折痛む腹を押さえることにはなったが、結局その日一日は面会の時間が終わるまで母としゃべって過ごした。途中で思い出した母からスマホを渡されて電源をつけてみると、どうやら清詠から話を聞いたらしい友人たちから着信とメッセージが大量に届いていた。
いやあ申し訳ねえ、だの全然元気だから、だのと三人分折り返して電話をかけてから、普段連絡を取らないような知り合いからも心配するメッセージが届いているのを確認する。ぽちぽちと返事を書いているうちになんだかありがたいような、照れくさいような不思議な気分になった。
*
土曜日の夕方、少女はチャイムの音でうたた寝から覚める。宅配なんか頼んだかしらと目を擦りながら玄関を開けると、見知った顔が立っていた。
「淡羽ちゃん」
「いらっしゃい、スミカ。どうしたんだ、こんな時間に」
彼──葦五位栖栖は少女の古い知り合いで、なんだかんだずるずると関係が続いている、いわゆる腐れ縁のようなものだ。
「休日だってのに呼び出し食らって仕事場まで行ってたんだわ。妖異の奴等、最近おとなしくしてたと思ったら人刺しやがってよお」
栖が部屋の入り口からほど近い来客用のソファに崩れ落ちるのを埃が立つと諫める。
「メールとかじゃダメだったの? その連絡」
少女はティーカップをテーブルに置いて栖の向かいに腰掛ける。
「分からん。けど俺が帰ったあと柴嵜さんが呼ばれてたから、エライ人にしか伝わらねえ何かがあるんだろうよ」
ほー、と気の抜けた返事か返ってくるのを聞き届けて、彼はさらに続けた。
「刺されたのは桜高の二年生、男子。一緒にいた二十代の女性は首を絞められて気絶してたから、そっちの身体が欲しかったんじゃねえかなとのことらしい。首絞めてるのを止めようとして刺されたってところかね。さっきの時点じゃまだ目覚ましてなかったので聴取は明日以降に持ち越しだとよ」
「桜高の男の子か……」
「あの子かも、ってか」
「うーん、そうなんだけどね。あそこの二年男子って言ってもきっと人数多いだろうし、心配しすぎてもな。私はあの子の名前も知らない。ちょっと喋ったくらいだ」
「明日聴取行くの小野田と雲井だから帰ってきたら聞いてきてやるよ、どんなやつだったか」
それはありがたい、と眉を下げてはにかむ少女を見つめて栖はため息を吐く。板挟みとはまさにこのことか、と。