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俺の住んでいる街──典鳥羽という街は、ちょっとした田舎だ。どのくらいちょっとしてるかといえば、電車が三十分に一本出るくらいの、そういう感じ。住み心地は良い。車がないと移動が不便なくらいで、あとはとても丁度いいところだ。
通っている学校は山の方にあって、電車はそこへ直角に走っているので、通学は結構大変だ。最寄駅から歩いて四十分程、自転車でもずっと登り坂で辛いし、通ううちに結局バスや親の車での通学になる生徒も多い。俺はといえば、残念なことにうちには車がないから、結局今の今まで自転車で通っている。
月曜日、学校に向かった俺は窓際の席で固まって喋っている三人組に声をかけた。その窓際の席というのが自分の席なのだ。いつものようにおはよう、と声をかけると、三対の瞳がこちらに向いた。
一番左のやつが図々しくも俺の席に座り、残りの二人が向かい合わせで立っていた。三人組は左から友野、落、石田と言って、俺を含め四人でいつも一緒にいる奴らだ。
「お前ら今日来んの早くねえ?」
「んんー? そうかな。しーちゃんが遅いだけじゃない?」
言いながら顎を手で撫でてふやふやと笑っているのが落誠楚。この中では一番俺との付き合いが長い。
「そーだよ、いつもお前来るの八時前でしょ? やけに遅いなって今言ってたとこだし」
明るく染めた髪とか、目立つピアスから軽薄そうな印象が伝わってくるのが友野洋成。高校入学時に席が隣だったことでよく喋るようになった。こいつが俺の席に座って頬杖をついている。
「寝坊は感心しないけど……そういう訳でもなさそうだね。遅刻じゃないし」
眼鏡を掛けていて、片手に本を持ってるのが石田縡。真面目そう、というか実際真面目ではあるのだが、いかんせん時折考えがぶっ飛んでいる、ヤバいと言って差し支えない男だ。
一見どこにも共通点が無い、そのうえ出身中学もバラバラなこいつらがなぜ集まるようになったかといえば、全ての原因は俺にあるらしい。こいつらは全員、初対面の時に俺を女と見間違えたのだそうだ。誠楚はわかる。初めて会ったのは小学校の時で、私服だったし何より当時の俺は完全に美少女だったから。ただ残りの二人は、初めて会ったのは高校の入学式だ。もうとっくに体だって大きかったのに、いまだにどうやったら見間違えるのかを小一時間問いただしたい。
「そーそー、遅刻じゃ無いんだからいいの。それよりヒロ、そこ俺の席」
声をかけると、ごめんごめん、だのと手を挙げて謝ったヒロをひと睨みして、空いた席に腰掛ける。バス通組め、俺の苦しみを知りやがれ。
少しだけ入れ替わった立ち位置のまましばらく話していると、教室の入り口の方が若干ざわつく。なんだろうと覗こうと顔を向けた時、クラスの女子に呼ばれた。
「清詠ちゃんが狐島くんのこと呼んでるよ!」
ちょいちょい、と手で指図されて立ち上がると、ドアの前には不機嫌そうな顔をした清詠が立っていた。
いや、これは不機嫌と言うよりかはどちらかと言うと……。
心配、されていたのだろうか。申し訳ないことをしてしまったなと顔色を伺う。
「昨日は大丈夫だったかしら。アタシ、お父さんに呼ばれちゃって、アンタが気失ってる間に帰っちゃったし。連絡は貰ったけど顔見るまでは気が気がなくって」
「うん、なんともなかったよ。母さんも遊びに出かけてたし、俺も元気だし」
しかし、こうも心配してもらえると若干嬉しい。照れから頬を掻いてしばらく喋っていると、すぐにチャイムが鳴って俺たちは揃って自分の教室へと戻った。
*
学校も終わり、俺はのんびり帰路についていた。
この時期道端の桜には散り始めるものもあって、並木のあるところではあたり一帯が桜の絨毯になる。ぼーっと地面を眺めながら歩いていると、一際強く風が吹いて、桜吹雪に襲われた。
「あれ、しーちゃんじゃん。これから帰るの?」
目の前から声がして目を開けると、見覚えのある白い髪がぼんやりと映った。
「俺はそうだけど。冬夏さんこそ、何してんのこんなとこで。今日お店の手伝いはいいの?」
「いいんだ、今日は。しーちゃんがこのままお店行くんだったらついてくけどね」
「いや、今日は家帰るよ。来る? 飯出すよ」
じゃあお言葉に甘える。と俺の隣を歩き始めたのは卯月冬夏さん。背の高い女性だ。百八十センチ近くあるらしい。学生時代バレーか何かでもやっていたのかと尋ねたことがあったが、帰宅部をしていたというのだからなかなか面白い。絶賛成長期中の俺のささやかな目標でもあった。
冬夏さんの言うお店というのは、駅前を少し外れた、入り組んだあたりにある小さな喫茶店のことだ。店長さんが母の知り合いで、幼い頃母の帰りが遅い時に預けられていたことがある。いまだにデートなどでお世話になることが多い素敵な店だ。一番客の入りが良さそうな日曜日が定休日で、それ以外の日も夜六時には店が閉まってしまう不思議な店ではあったが。
キョロキョロと桜の木を眺めながら二人で他愛もない話をして歩く。家に着く頃には、傘でも持って来ればよかったと思うほどに桜まみれになっていた。
「ただいまー」
ボロアパートの玄関を開けて声をかける。母からの返事は返ってこない。帰っていないのか、と思いながら冬夏さんを家に上げた。
はて、と思った。今日は家にいると聞いていたのに。固定電話横のメモ帳にも何も残っていない。冷蔵庫にも何も貼っていない。スマホにメッセージも来ていない。一通り家を見渡した後、帰ったよ、とだけメッセージを送ってテレビをつけた。冬夏さんは勝手知ったるとでもいうように座布団を出してくつろいでいた。
「この時間、テレビ面白いのないね」
「ニュースあるよ。まあ俺はアニメ以外であんまりテレビ見ないけど」
「録画したのないの、何か、面白いやつ。僕も知ってるやつ」
「冬夏さんが知ってるようなやつは……」
レコーダーのリモコンを手に取って、言いながら動きを止めた。ニュースの一場面、エンタメニュースのVTRが映っているのを見つめる。
「この人、めっちゃ綺麗だよね。俺も自分の顔には自信あったけどこれ見ちゃうとなあ」
VTRではフランス生まれの女優が紹介されていた。日本育ちでフランス語はちょっぴりも話せないんです。とはにかんで笑う姿に思わず見惚れる。
「……僕はしーちゃんが自覚あったことに驚きだよ。どっちかって言うとそういうの気にしてないのかとばかり」
冬夏さんは頬杖をついてまじまじと俺を見つめていた。しばらくしてテレビに向き直る。俺は画面に釘付けで、彼女が画面の中の女優を口を尖らせて見つめていたことには気づかなかった。
*
同じころ、駅から少し離れた公園のベンチに一人の少女が座っていた。歳の頃は十代半ば、中学生くらいに見える少女だ。手元には一冊の文庫本があるが、頻繁に入口をちらちら見遣っていた。
今日は遅い、来ないのかな。心で思ったつもりが思わず口に出かかった呟きを飲み込む。
彼女は人を待っていた。
もちろん待ち人は誰でもいいわけではなく、ある人を待っていた。しかし彼女は待ち人の名前も知らない。どうにかして探し出す方法はいくらか思い当たったが、ストーカーになりたいわけではないので、大人しく初めて会ったこの公園でいつも待っていた。
待ち人は学生だった。近くの高校の制服を着ていた。しかしどうやら毎日同じ道を通って帰るわけではないようで、半年間毎日ここに座っていても会えたのは両手の指で数えられるくらいの回数でしかなかった。
あれ、またあったね。いつもここにいるの? 本、好きなんだね。待ち人は自分のことをあまり話さなかったが、同時に彼女のこともあまり聞かなかった。簡単に声をかけて、世間話をして、しばらくしたら帰っていく。それを見届けるのが好きだった。
「淡羽ちゃん」
後ろから見知った声が聞こえて振り向く。
「スミカか。迎えにしては早い時間だけど、どうしたの」
淡羽と呼ばれた少女は短く揃えた金の髪を靡かせて立ち上がった。
「いや、俺今日お仕事終わんの早かったから、迎えに来てやろうって」
男のほうは仕事着のまま公園に来ていた。それがあまりにも場違いに見えて、彼女は思わず目を細める。
「どうした、まだいるか? そしたらそん時迎えに来るけど……」
男の問いかけに彼女は少し考える。
「……いや、いい。帰るよ、今日は」
そう、じゃあおいで。と先を歩く男に彼女は大人しくついていく。のどかな公園にスーツを模したような制服が、やはりミスマッチに思えた。駐車場でヘルメットを受け取り、何も言わずにバイクの後ろに跨った。
*
「ところでしーちゃん、和良さん遅くない? 日も暮れたよ」
「ううん……普段こんなに帰ってこないことってあんまないんだけど……なんかあったかなあ。ま、いい大人なんだしそのうち帰ってくるとは思うけど」
ニュースを眺めながら、ダラダラとジュースを飲んで喋る。途中冬夏さんが酒が飲みたいとごねたものの、必死の説得で母の缶ビールは無事に守られた。
「って言うか和良さん缶ビールしか飲まないの? もっとあるでしょ、日本酒とか、そう言うのあってもいいと思う」
「ないよ、良い酒は知り合いのトコ行けば飲めるからいいとかなんとか、そう言うことらしい」
彼女は濁点のついた、腑抜けた声をあげてコップをつつく。
そうこうしていると、玄関の鍵が開く音がした。
「あ、帰ってきた……みたいだけど……」
「……なんでドア開けねえんだろ。手でも塞がってんのかな」
そう言って立ち上がり、玄関へ向かう。
出ていたサンダルをつっかけてドアノブを捻ると、後ろから叫び声がかかった。
「しーちゃん! 待って!」
手を止める間もなく、ドアが開く。そこにいたのは母ではない。暗い色の髪をしたセーラー服の少年だった。蛍光灯が頼りなさげに点滅するのに合わせて、少年のピンク色の瞳がキラキラ光る。
「……いや、なに。出て行くタイミングを伺おうと思っていたんだけど。マ、有難う。手間が省けたよ」
だれ、と聞く間も無く、後ろから手を引かれて勢いよく尻餅をつく。
「……しーちゃんは下がって……できるなら窓からでもなんでもとりあえず逃げて」
彼女のその声の後、誰も動かなかった。もちろん俺も、何が何だか分からないままだった。ニュースの音声だけが流れるその場の空気を破るように少年が口を開く。
「よくわかってるじゃないか。そうだな、おまえはまだ早い」
少年はじっとこちらを見ていた。よく見ると彼は右手に包丁を握っている。
「そうじゃなくておまえだ、そっちの白い方。安心してくれ、悪いようにはしないから」
彼はそう言って冬夏さんに近づく。緑色の細い糸のようなもの──よく見る火の玉と同じ色だ──を手から出して彼女を拘束して床へ引き倒すと、そのまま馬乗りになって首に手をかけた。持っていた包丁はどうしてか床に置いてある。
チャンスだ、と思った。少年はこちらに背を向けている。あの包丁を奪って、少年に刺したら……そうしたら、俺の命も冬夏さんの命も救える。
そっと後ろから這い寄って、包丁を手に取る。チラ、と彼女の赤い瞳と目があった。
彼女は大きな瞳を見開いて何かを言っているが、喉が締まってマトモな声が出ていなかった。なんにせよ早く助けなければ、彼女の命が危ない。少年は少年で何やらぶつぶつ呟いていたが、俺自身の息も上がっていたせいもあって何も聞き取れなかった。
震えを落ち着かせるように唇を噛んで、獣のように歯の隙間から息を漏らしながら右腕を持ち上げる。肩甲骨のあるあたりより少し右側、背骨との間。多分ここなら刺さるはず。極限状態なのに脳みその一部分だけ冷静で、このあたりかな、と目星をつけたところがスポットライトに照らされているように見えた。
無防備な少年の背中に向けて包丁を振り下ろす。
ぐさ、とか案外軽い、でも肉が切れて血に触れたような水っぽい音がした。
少年はそのまま彼女の上へと倒れ伏す。ヒューヒューと誰のとも知れないか細い息の音が部屋に響いていた。
「と、うかさん、冬夏さん、大丈夫!?」
我に返って彼女の肩を揺さぶる。気を失ってはいたが、息はしていたからひとまず安心した。彼女を縛っていた糸のようなものはいつの間にか消えていて、とりあえずこの少年をどかさないことには、と思って少年の体に手をかけてはたと気づく。
あれ、案外──案外、あっけないもんだな。
人を一人、殺してしまった。人の命を一つ、奪ってしまった、のに。
数秒前までは一世一代の大舞台のつもりで、目の前の彼女を救い出すために決死の覚悟で、腕を持ち上げたその瞬間までは、少なくともそうだったはずだ。なのに。
もしかしたら、脳が勝手に俺の精神を守ろうとしているのかも知れない。そんなくらいにはどうでも良かった。血に汚れた自分達を見て、畳張り替えなきゃとか、服汚れるだとか、それから、この死体ってどこで処理するべきなんだろうかとか、そういうことを考えるくらいには。
「凶器って、残ってるとまずいのかな……でもゴミに捨ててもバレるよな。清詠に頼んだらなんとかしてくんねえかな」
ちょっと一歩引いて、それこそ映画館のスクリーンを眺めている気分。脳のどっかだけ冷めてて、すっげえ冷静な俺と焦ってる俺が同時に存在しているような感覚だった。
出来上がった死体からそっと包丁を引き抜きながら、恋人に電話をかける。これから俺は、可愛いあの子に「ちょっと人殺しちゃったんだけどさ」と告げなければならない。
多分今の俺はすごくおかしい。だってちょっとドキドキさえしている。一緒に穴掘って山中に死体を埋めて、初めての共同作業。秘密を共有して、共犯になって……思わず頬が引き攣って口角が上がる。恐ろしかった。やっぱり今の俺はすごくおかしい。そんなのとっくに自覚している。死体遺棄だとかいう犯罪行為を、初めてするセックスかなんかと勘違いしているんだ。
プツ、と呼び出しのコール音が消える。それに急に思考を引き戻されて、スマホの画面を見つめた。出ない。
一回りして脳みそが全部冷めて、血に塗れた包丁を持っていることが恐ろしくて取り落とした。
拾わなきゃとしゃがもうとすると、横から小さな手が伸びてきて思わず声が出る。
「え、」
「……おまえ、さァ。せっかくぼくがまだ早いって言ってやったのに、こういうことするなよな。結局この女は殺せなかったし。じきにおまえの母親は帰ってくるだろうし」
時間がもったいない。包丁を拾った少年はそれを持ったままこちらに歩いてきた。部屋の電気が少年の瞳に反射して、でらでらと光っているのが目につく。
目の前で立ち止まった少年はしゃがみ込んで、俺と目を合わせた。
「ホント、忌々しい半輪だな……。安心しろ。この程度じゃおまえは死なない。マァ何度でも殺してやるから、あんまり関係ないか」
じゃあ、また。
短くそう言って少年は薄く笑った。腹に何かが埋まる感覚。ちがう! これ、さっきの包丁で俺──刺されたんだ、と考えるより先に包丁が引き抜かれる。
動いたらまずいと直感的に思い、声も出さずに血まみれの背中が玄関から出て行くのを眺めていた。貧血なのか、だんだんと意識も薄れてくる。考えることも億劫で床に倒れ込んだ。
でもなんとなく、気を失う前に、乱雑に玄関を開けて家に飛び込んでくる母の姿が見えたような──