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「お前、大方アレの声聞いちまって、それでダメになったんだろう。……寝不足もあるだろうが。アレの声が聞こえるのはな、見える奴の中でもほんの一握り。それが『御子』なんて呼ばれる奴らだ」
お前もそうなんだろうよ、と彼は続けた。
曰く、御子は目に不思議な模様が入って見えたり、瞳が不思議な形に見えたりするらしい。
「遺伝だからな、ほとんど。血の繋がった母親がそうだったんだじゃねえかな」
「母親、なんですか? 父でもなくて」
「うーん、多分な。御子だけじゃなくて、そもそも妖異が見える奴自体女の方が多いんだ」
今まで出会ったことのある、妖異の見える人を指折り数えても、確かにほとんどが女の人だったことに気づく。
「清詠は違うんですか?」
「ん……清詠は違うだろ。まあ確かに目の色は不思議かもしれねえけど、模様があるわけじゃないだろうし」
ぱちぱちと瞬く、清詠の大きくて赤い目を思い出す。確かに綺麗な赤色をしているが、自分の目のように不思議な模様があるふうでもなかった。
「へぇ……うちの母さんは多分見える人ですけど、なにも聞いてないですね、教えてくれませんでした」
「そこなんだよな、不思議なのが。実際いるんだ、御子の家系の自覚がないとかで、自分が御子だと知らない奴らって。だけどそれはつまり、『聞いてない』んじゃなくて『知らない』だろ、それは仕方ないことなんだ。だから見える奴らが目の模様で見分けて、ちゃんと道を示してやらなきゃいけねえ。御子ってのはそれだけで危険な存在なんだ」
それだけで危険、とはどういうことだろうか。御子と言う体質そのものが命に危険を及ぼしかねないとか、それだけで何かに命を狙われるとかいうことか。しかしこれといって危険な目にあった覚えはない。
「危険っていうのはどういう……」
「んーとなあ、陸器持ってたってことは協会へは行ったんだろ? だったらそこで聞かなかったか? 妖異は死体を乗っ取るって話。アレはな、ただの人間の死体は取らねえんだ。あいつらが持っていくのは、妖力の多い御子の体がほとんどってわけ。身体持ちが新しい身体探しにきて殺されるってことも結構あった話なんだが……。お前の母親はなんだって教えなかったんだ」
なんだそんな話は。一度たりとも聞いた覚えがない。
と、いうか。母親の話で思い出したが、母が起きていたらいろいろとまずいことになる。彼女が目を覚ます前に帰れるだろうとたかを括って書き置きに留めておいてしまった。向こうから連絡がないのはまだ寝ているからだろうか。バレたときが恐ろしいので、今のうちに連絡をしておくべきか。そもそも、今は何時なのだろうか。
せかせかとポケットを漁りスマホの電源をつける。現在時刻はおよそ八時半。普通の日曜日であればとっくに目を覚ましてふらふらと買い物に出ている頃合いだ。
「んぁ? どうした、急にケータイなんて」
「いや、母に連絡しないと、心配してるかもしれないから」
「そうか。……まあとりあえず連絡しとけ、これで俺が捕まったらシャレになんねえからな」
けらけらと笑いながら言うが、実際笑い事ではない。この人がいくつかは知らないが、二十とそこらに見えるのでたしかに犯罪とも言えるかもしれない。略取誘拐、と言ったところだろうか。
ともかく彼の言うのに従って、母親に電話をかける。呼び出し音が大分長く響いて、一度切ろうかと耳からスマホを離した。すると途端に電話がつながる。しかしその先で電話口から聞こえてきたのは、意外にも母の声ではなかった。
「あれ、志異? あー、ごめんなァ。今彼奴ちょォっと席外してて」
「え……あ、父さん?」
電話口から聞こえた声は、母の旧友で俺の父親代わりの唐草という女性の声だった。いかにもな胡散臭い喋り方とか、やけに露出の多い服だとか、そう言うことでとても目立つ人ではあったけど、小さい頃から面倒を見てもらってるおかげで慣れたものだった。
「そうだよ、多分トイレだからすぐ戻ってくるだろうけどどうする? 繋いどくか?」
「あ、じゃあちょっとこのままでいい?」
いいよ、と呑気な返事が返ってきて、苦笑いする。電話の向こうでは、もう何人かの女の人の声がしていた。
「みんなそんな朝早くからなにしてるの? 掃除ってわけじゃなさそうだけど」
後ろから聞こえてくる声は何やら騒がしく、時折呻き声や悲鳴まで聞こえてくる始末だ。
「いやァ、これはそのォ……あ、これは私が言ったって言わないでくれよ? 今丁度集まって花札をな」
「……賭け事?」
「……うん……」
騒がしい原因はそれか。というか朝っぱらから賭け事ってのはどうなんだろうか。そもそもいいのか? 法律的に。まあ詳しいことはよくわからないが、夜中に家を抜け出したことに関してはうやむやになっていただけるとありがたい。
「あ、帰ってきやがったわ、じゃ、電話変わるから。なんでもいいからさっきのことは黙っとけよ」
そう言って父の声が遠のく。ゴソゴソと音がしたあと、母親の声が聞こえた。心なしか懐かしい気さえしてくるから、身内の声というのは疲れた身には染みるものだ。
「もしもし、志異? 無事?」
「え、うん、全然無事。それよりごめん、急な呼び出しだったもんで何も言わずに出てきちゃった」
「そんなところだろうと。私も本当は買い物だけして帰る予定だったんだけどね、聞いての通り唐草に捕まっちゃって」
彼女はそう言うふうに言うが、俺は知っている。彼女は案外そういったことが好きで、酒の誘いやこう言う遊びの誘いにも乗り気で参加するのだと。実際のところは、俺への心配と楽しみが半々ってところだろうか。それとも、俺を呼び出したのが清詠だとわかっていたのだろうか。
そのあとは、しばらく他愛のない話を続けた。その間は、沙羅さんがどうにも身振り手振りや口の動きで「俺のことは話すな」と伝えてくるものだから、ぶんぶん首を縦に振って、黙っておいた。
いつまで経っても後ろは騒がしいままだったし、母も遊びに戻りたそうな雰囲気を醸し出していたので大人しく電話を切る。途中からこちらの様子をチラチラと伺っていた沙羅さんとばっちり目が合った。
「……そういえば、うちの母さんと沙羅さんって似てるんですよ。髪の色とか目の色とか。実は親戚とか?」
冗談めかしてそう言うと、沙羅さんは目をまん丸にして固まった。
「親戚ではねえよ。小さい頃世話になった覚えはあるけど」
「え、母のこと知ってるんですか」
「覚えてないか? 俺お前がチビの頃一回会ったことあんだよ。まあ気付いたのはさっきの電話の時だけど」
「それにしてもなんか、沙羅さんの小さい頃って想像できませんね」
悪い意味ではなく、と加えると、彼はよく言われる、と笑った。
「ちゃんと俺にも小さい頃はあったさ。小さい頃は可愛かったんだぜ? まあ、酷い人見知りで、ずっと妹と一緒にいたんだけどな」
ふふ、と懐かしそうに目を細める姿は、はじめに感じた蛇のような雰囲気が少し薄れて、よく見れば見るほど母から印象は離れていく。母より大分彫りの深い顔立ちだった。ベンチに座り、組んだ脚に肘を乗せて頬杖をついて、公園の入り口を見つめている。母より少しだけ暗い灰色の髪が揺れる。すっと整った印象を受ける鼻筋は鷲鼻で、唇は薄かった。
「あのー! ただいま戻りました!」
公園の入り口から、大きく手を振って雲井さんが走ってくる。それを見ていた沙羅さんは、格好はそのままに手だけ振り返した。低いヒールとは言え、トタトタとおぼつかない足取りで、両手にコンビニ袋を持っていれば転ばないかと心配になる。思わず駆け寄ると、彼女はズレた眼鏡を手の甲で直して、満面の笑みでこちらを見た。
「目、覚めたんですね、よかったぁ……一応起きてなかったらと思って、いろいろ買ってきたんです。なのでよかったら、ゼリーとか食べてくださいね。今回のは、沙羅さんの奢りだそうです!」
両手に抱えるほどだ。いくらゼリー類とは言え結構な金額なのでは? と思わずばっと彼の方を振り返ると、いい笑顔で親指を立てられた。食え! って事なのだろうか。
「あの、じゃあ、お言葉に甘えて……」
「沙羅さん沙羅さん、あたし、この白桃ゼリーがいいです!」
「わかったわかった、好きなの食べていいから。でも、志異に先に選ばせてやれよ」
はい! と元気の良い返事をしてコンビニ袋を差し出される。そんなことされたらたとえ食べたかったとしても白桃ゼリーは選べないじゃない。ただ、別に何か思い入れがあるわけでもないので大人しくみかんゼリーーを選ぶ。その時の雲井さんの笑顔の輝きようと言ったらなかった。そして、それを親のような優しい笑みで見つめてる沙羅さん。いっそのこと、白桃ゼリーを惜しむ素振りでも見せたらよかったか。
「あー、ありがとうございます。いただきますね」
「んー? 良いんだよこういうのは、学生なんだし奢られとけ」
と、言う沙羅さんの目の前で美味しそうにゼリーを頬張る雲井さん。この人本当に年上か、と苦笑が漏れる。双方幸せそうなので良しとしよう。他人に飯を食わせて満足するあたりは、清詠に似た嗜好かもしれない。
「ところで沙羅さんはなんのお仕事を? 妖異退治だけじゃ生活は厳しそうですけど……」
これくらいは生活に余裕はあるのだろうが、どうにも彼と普通の会社と言うものが繋がらない。勝手なイメージだが、もっとアウトローというか、例えばフリーターとかそう言う生き方をしてそうな印象を受けたのだ。
「……お前さ、アニメとかって見るか?」
「ああ、結構見ますけど……それがどうか……」
「ああいうのってフィギュアとか売るだろ。そういうのの原型とか作ってる……所謂原型師ってやつだ」
「え、すっげぇじゃねぇですか……」
思わず感心して肺から空気が漏れる。長い友人の一人にアニメが好きな落というやつがいて、確かそいつが何かのアニメのフィギュアを死んだ目で購入していたのを覚えている。
物思いにふけって──いや、落のことを思い出していると、頬を膨らませてまでゼリーを頬張っていた雲井さんが急に立ち上がった。
「そうなんです! 沙羅さんってばすごいんですよ! この前だってちょっとやらかしちゃって死にかけたあたしを助けてくれたり、それにとってもお仕事できるし、粗雑に見えても捨て犬の前でどうして良いか分からずにうろうろしちゃったり、あ、だから、すっごくかっこよくて、可愛いんです!」
突然のことに驚き目を白黒させていると、沙羅さんは沙羅さんで、あ、おい、などと言いながら行き場のない手を右往左往させている
捲し立てるように喋る雲井さんと、話が進むにつれ顔が赤くなっていく沙羅さんは見ていて面白かった。途中から沙羅さんが小さい声で「もうやめてくれ」だのと言っていたような気もする。
「いい、涼ちゃん、もういいから、あの、ちょっと黙って貰えねえ?」
「いえ、ダメです! ここはあなたの魅力を伝えるチャンスです!」
え、俺に? と思わず声が出た。彼は彼で、え、こいつに? っていう顔をしていた。
結局はそのあとずっと雲井さんによる沙羅さんの魅力語りが続き、顔を真っ赤にした沙羅さんが最終的に地面をのたうち回るまで終わらなかった。朝の公園には、雲井さんの興奮したふうな声と沙羅さんの濁った悲鳴がこだましていた。
自分の思っていたよりも数倍も数万倍も相性の良さそうな二人に安堵する。予想外の事態に気を失ってしまったこともさっきまで忘れてしまっていたくらいに、この先への安心感を二人から感じた。