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「駅前?」
「そう。駅前」
「こんな朝早くから?」
「そう。早朝三時半から」
思わず大きなため息をつく。それはもう盛大に、できれば電話の向こうまで伝わるように。
今日は日曜日。本当だったら、今頃楽しい夢の中。そして起きるのは九時過ぎの予定だった。それがこの始末。電話がかかってきたと思って起きてみればまだ外は暗く、とてもじゃ無いが十六の男が目を覚ます時間として相応しいとは思えなかった。
「用件は」
「こんな時間だけど通報があってね。アンタの初陣にはちょうどいいのかもって思って」
「だからってこんな時間に呼ぶか……? 普通……」
「昼間は人の目があるから無理だしね、悪いけど今日はお昼寝でもしてちょうだい」
まだ肌寒い季節、布団から出ることさえ億劫だ。薄い襖の先に寝ている母を起こさないように、電気をつけないまま布団を畳んで着替える。
確かに昨日よくわからない場所に連れて行かれ、よくわからない武器を渡され、何もかもわからないままで不安な面もあった。そして曰く、習うより慣れろと言う。とはいえ、とはいえだ。ない。これはありえない。横暴というか、なんというか。キラッと光る清詠の眼鏡を想像しながら悲しみと眠気に打ち震える。
極力音を立てないよう歩き、メモを残してそっと家を出る。補導されないことを願いながら。
*
雨が降ってしまえばいいのにと思った。
本当に、本当に帰りたい。街灯の明かりを頼りにフラフラと高架をくぐり、蓋のない側溝に怯えながら駅へ向かう。
無駄に天気がいいのが悲しい。星がよく見えて、こんな時でなければ喜んだのに、とも思った。さっきから意味もなくため息が止まらない。眠気も相まって死にそうな顔で歩いていたら、途中ですれ違ったジャージ姿の兄ちゃんにすら心配そうに見つめられてしまった。
*
集合場所に着くと、そこには清詠とすごく眠そうな雲井さん、それから知らない人が一人。街灯の灯りしか頼りにならないが、スーツのような出で立ちだった。
彼は暫くこっちをじっと見つめて、無言で右手を差し出してきた。きっと握手を求められているのだろう。少し女性的な印象を受ける、細い指をしていた。
「よろしくお願いします。俺、狐島志異って言います」
「ああ、よろしく。俺は沙羅、石神沙羅」
握手の際、彼が体ごとこちらに寄せたことで顔が外灯に照らされる。肩くらいまであるストレートの髪はハーフアップに結い上げられて、釣り上がった目尻はまるで蛇のようだった。
「じゃあ、いいかしら。多分通報あったのはアタシと沙羅さんのところだけなんだけど……そうよね?」
「……えっ!? はい! おそらく……すみません……あ、あの、寝てはないです! ごめんなさい!」
あまり墓穴を掘るようなことはしない方がいいとは思うが。……仕方ない。俺だってうとうとしそうなのを堪えている。逆にピンピンしているそこ二人がおかしいだけだ。
妖異がいると通報があった先は、駅の北口から少し行った先にある駐輪場だった。そっち、と指をさす清詠に大人しくついて行く。全員無言だ。雲井さんに至っては動きが完全に幼児のそれである。眠そうな目を擦って、母親にするように沙羅さんの腕にしがみついていた。沙羅さんもどうにも気にしない様子で、何も言わずに引き連れている。
「なあ、あれっていつもああなの?」
「まあそんなものね。気にしないほうがいいわ」
ふーん、と返事をして前に向き直る。すると駐輪場に停まった自転車の裏から、見覚えのある薄緑の光が漏れ出ているのが見える。覗き込むように立っている清詠に手で呼ばれて、のそのそと近づいて行く。
「そんな近づいて、逃げねえの?」
「大丈夫よ、大体攻撃されるまで気づかないからこれ。はい、じゃあ陸器出して」
言われるがままに底のボタンを押して、拳大くらいの妖異に刀を向ける。
心を決めなければ。正直あの断末魔は心臓に悪い。彼らは不思議なことに人語を解すらしいから、悲鳴も人の悲鳴のように聞こえるのだ。ただ、これは仕事の一端だ。正統な報酬をもらうもの、契約書にサインだってしてしまった。ここで止めても構わないのだろうが、人手不足を嘆く小野田さんの顔が脳裏に浮かぶ。罪悪感、というやつだ。心臓に悪かろうと、きっとそれは蚊を叩いた時に出る血と同じだと自分を納得させる。
よし、と心の中で小さく呟いて刀を振り下ろした。
途端、ひょいと妖異が剣筋を避ける。
「うそ!?」
清詠のあげた声に驚いて一瞬目を離した隙に妖異は道路沿いに逃げていった。
「信じらんないわ、避けるなんて! ちょっと、もたもたしないで! どっちか車持ってないの!?」
「あ! あたし、今日車で来てます!」
雲井さんの悲鳴に限りなく近い返事を聞くや否や、清詠は彼女の肩を押して車に案内させる。
雲井さんの乗っていた車は黒い小型セダンで、椅子の後ろにはごちゃごちゃと荷物が乗っていた。勝手に後部座席のスライドドアを開けた清詠は俺の腕を掴んで車内に投げ飛ばすと、自分もそのまま乗り込む。
「ぎゃ!」
飛ばされた衝撃でドアの内側へ肘をぶつける。肘も痛いが人の車に傷をつけていないか慎重に検分する。硬い素材と睨めっこをしていると、運転席には沙羅さんが乗り込んできた。助手席では緊張した面持ちの雲井さんがシートベルトを握りしめている。なんだか納得だ、どうにも俺には、雲井さんが車を運転するビジョンが見えてこない。
「ほ、本当はこれ公用車なんで沙羅さんに運転してもらうのダメなんですけど、緊急事態なんで事故ったら始末書、書かなきゃってうわぁ!!?」
頬を引きつらせた雲井さんの話をミラー越しに聞いていると、沙羅さんが急にハンドルを切って発進する。喋っていた彼女は閉じ切らない口から大きな声をあげて右にのけぞった。
「ん、すまんな。先に言っとくべきだったか。舌噛まねえように気をつけてくれ!」
「え?」
そう言うや否や、呆けた雲井さんの顔もそのままに、沙羅さんは反対側にハンドルを回す。
「い、いやぁああ!!」
「うっわ!」
手すりに捕まることもできなかった俺は、左にいた清詠の方へと倒れ込む。
「ごめん、大丈夫か!?」
「大丈夫よ、それより、ちゃんと捕まってなさい! アタシにでいいから! いやほんと、死ぬわよ!」
流石の清詠も声が必死だ。この状態では前方を見ることはできないから、身構えることもできない。大人しく清詠の腰に腕を巻きつけて衝撃をやり過ごす。傍目から見たら情けないかもしれないが、そんなことより俺は自分の命が惜しい!
ぎゅっと腰に回した腕に力を込める。頼りない、女の腰にドキっとした。時が時なら素敵なシチュエーションだが、今はそんなこと言っている場合ではない。きっとこの細い腰から手を離した瞬間、振り回されて首を折って死ぬ、気がする。
目をぎゅっと瞑ったままぐるぐる考え事をしていると、突如訪れた浮遊感。いや、おかしい。車に乗っていて浮遊感が訪れる瞬間といえば、せいぜい峠を越えた瞬間くらいなものだろう。だが、駅の周辺にそんな地形の場所はないはずだ。と、言うことは。
「あ?」
「え?」
「うそ」
「着地、舌噛むんじゃねえぞ!」
若干楽しそうな沙羅さんの声と共に、腹の底から空気が抜けるような衝撃──高いところから落ちたときのそれだ──が俺を襲う。みっともなく、ぐふ、と口から音が漏れた。え、飛んだ……?
「ああああ! 何考えてるんですか! お車、壊れちゃったらあたし、あたし、うわあああああああああぁぁぁ……」
今まで蓄積された恐怖と、この車が廃車になったときの恐怖が一気に襲ってきたらしい雲井さんが、耐えかねて泣き始める。いや、俺も泣きたい。本当に今、ものすごく、恥も外聞もなく泣きじゃくって清詠に慰められたい。
「壊さねえように、気をつけるつもりだ、よっと」
完全に「よっと」の動きじゃないハンドルの切り方で道をすり抜けていく。坂ではさっきのように容赦なく車体が浮いてしまうし、後輪は完全に振り回されているし、なんかもうこのままでは本来の目的を忘れてしまいそうである。いけない。揺さぶられて中身が飛んでいきそうな脳味噌と戦っていると、不意にさっきより一層強くアクセルが踏み込まれる。
「捉えた! 清詠……俺の陸器貸すから狙えるか。こう言う時は飛び道具がいい」
「……行けるわ、勝手に借りるわよ」
「あ、悪いな志異、お前は……そうだな、適当に椅子とかに捕まっててくれ、もうちょっと寄るぞ!」
沙羅さんの言葉に大人しく腕を離し、なんとか自分の座っていたシートに縋り付く。いつのまにか開けた道に出ていたらしく、窓を開けた清詠が身を乗り出している。
左手は体を支えるのに使っているようで、右腕一本で拳銃を支えている。拳銃自体は普通のものとほとんど見分けがつかない、いつか見たことのあるエアガンと同じふうな見た目だった。しかしどうやら見たところ、拳銃というには少しばかりバレルが長いような、不思議な形をしていた。
体を捻りつつ陸器の観察をしていると、窓の外から叫び声が聞こえた。
「たすけて」
「え、」
たすけて、だって? そう、確かに聞こえる。いつもは悲鳴のような音が聞こえる程度だったものを、今回ははっきりと声として捉えてしまう。嫌がらせのように鮮明に聞こえた。子供のような声だった。暗がりで怯える子供の声。
あの声を聞き逃してはならない、と思った。誰だってそうだろう、目の前で転んだ子どもがいれば手を差し伸べるような、そんな自然な反応。あまりにも人そのものに近いその声は、確実に俺の心を削っていく。
待ってくれ、いまそいつを殺されたら、俺は──。
祈りもむなしく、消音器越しの銃声が響いた。
「ぁ……あぁ……ううぅ……」
暗がりで見えない──否、見ることも恐ろしいが、間違いない。ぴたりと声が止まったから、あれはもう死んでしまったのだろう。どうして急に音が鮮明になったのかはわからない。ただ、平然と速度を落としていく車と、進行方向を見つめたままの清詠に、おかしいのは俺なのかとも思った。もしかしたら、とんでもなく恐ろしいことに首を突っ込んだんじゃないかと、ひどく手が震える。この情けない声が、自分の口から出たものだと認識するのに時間がかかった。
きちんと姿を見ていないからだろう、脳裏には、清詠が幼い子どもを撃ち殺すビジョンがこびりついて離れない。カリ、と爪がシートを引っ掻く音が聞こえた。
「みんな大丈夫かしら……って、ちょっと志異! 大丈夫!? ちゃんと息して!」
ふっ、と意識が引き戻されて、ぼたぼたと垂れているのが涙でなく涎であることに気づいた。それがなぜであるかを考える間も無く、焦ったような清詠の声を最後にブツ、と意識が途切れる。
*
「……んぅ……?」
目を覚ますと、すでに外は明るくて、先ほどの車の後部座席に乗ったままだった。見覚えのない毛布がかかっている。
「お、起きたか。悪いな、残ったのが俺で。清詠は用事があるっつって帰ったわ。んで涼ちゃんは買い物」
「はぁ、あの、ありがとうございます」
車の助手席に後ろ向きに座って、沙羅さんが身を乗り出してくる。灰色の髪と琥珀色の瞳が、母によく似ている、と思った。ただ似ているのは色だけで、雰囲気はといえばまるで違うものだったが。
「外の空気でも吸いにいくか。どうせ暫く涼ちゃんは戻ってこねえし」
外に回って扉を開けて、歩けるか、と手を差し伸べられた。外に出てみると、車が止まっていたのは家からそう遠くない公園であったことに気づく。覚束ない足どりで近くのベンチに腰掛けると、沙羅さんも隣に腰を下ろした。
「お前……そうだなあ、ちょっとこっち向け」
指でも合図され、大人しく右側に顔を向ける。すると頬を両手で挟まれ、じっくりと顔を観察される。吊り上がった目尻や、縦に筋の通った瞳がよく見えた。
「あの……」
「んー、お前、母親は?」
「えっと、その、俺、拾われっ子らしいんですよ。だからちょっとわからないです」
そうか、と彼は顎に手を当てて考え事を始めたようだった。
「じゃあ今の親でいい。何か、お前のその目について聞いているか」
目? 目とは、いったいなんのことだろうか。目の色か、それとも──目の模様のことだろうか。
「それは、この模様のことですか」
俺の目は不思議な色をしている。というのも、目の色自体は何ら珍しいものでもない、ただの灰色だ。実際地毛は金髪だし、目の色だって明るいだろうとだけ思っていた。しかし、瞳孔の少し下あたりに、半円を描くように青いラインが入っている。よく観察しなければわからないようなものだからと放っておいたのだが。
「そうだ。それで、その模様が何なのかは聞いてるか?」
「はい。普通の人には見えないものだから、と聞きました」
「……じゃあ、お前の母親は、お前に何も言わなかったんだな。……話さねえとどうしようもないか。いいか、それは、『御子』と呼ばれるものの印だ」
と、指を立てて彼は話し出した。