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翌朝、目を覚ますと清詠からのメッセージが二件来ていた。一つ目は俺の脚を案ずる内容、二つ目はどこかのマップが添付されており、そこへ行くようにとの指示だった。目的地の名前は「全日本神社協会」。家から歩いて三十分程度の場所だ。眠い目を擦りつつ用件を尋ねるための返事をし、布団を片付けた。
髪を軽く結びながら居間へ行くと、母の姿はすでになかった。今日は土曜日のはずだから、いつものように近所の神社の清掃に出ているに違いないと合点して、パンをトースターに入れる。
俺は決して規則正しいとは言えない生活を送っているので、目を覚ましたこの時間はすでに九時半を越していた。窓から漏れ出る日光に目を細める。パンを咥えながら携帯をいじっていると、清詠から着信が来た。
「もしもし」
「おはよう、その様子じゃさっき起きたのね。言わなきゃいけないこといくつも忘れてたから電話かけたんだけど。えっと、集合時間は午後一時よ、それと昨日渡した紙持ってきて。……書いてもらえたわよね?」
「うん。書いてはもらえたんだけど、ちょっと紙グチャってなっちまった」
「まあ、読めれば大丈夫ね、多分。詳しい説明はそっちへ行ってからにするから気にしないで、じゃあ、アタシ急いでるから」
「おー、気を付けろよ」
向こうが電話を切った音がした。結局欲しかった説明は一切くれなかったが、スパムではない確証が得られたことだけはよしとする。
それにしても、だ。「全日本神社協会」などと随分仰々しい名前だが、まるで心当たりがない。一瞬母の関係かとも思ったが、母が神社の清掃へ行くのはそこの神社の管理をしている杉山さんがよく野菜をくれるから、そのお返しのはずだ。ではと思いインターネットで検索をかけてみるも、的外れなものしかヒットしない。しばらく関連ワードも含めて検索してみるも、一向にヒットしないため諦める。
朝食に少し食い足らなさを感じて、何か買いにコンビニへ行こうとポイと携帯を投げ捨てて着替えを始めた。
*
財布だけ抱えて玄関を出てアパートの階段を下ると、丁度母が駐輪場に原付を止めているところだった。
「買い物?」
「うん、小腹空いたもんで」
鍵をかける母の手元に思わず目がいく。どこにでもありそうな原付は、五年くらい前に母が中古で買ってきたものだ。うちには車もなかったので、不便だろうと踏んだらしい。丁度先日バイクの免許を取ったばかりだったので、そのうち乗らせてもらうつもりだ。
「母さんは……俺、てっきり杉山さん家だと思ってたんだけど」
「ちょっと急用で、知り合いに呼び出されてね。ああ、気をつけていってらっしゃい」
ゆらゆらと手を振って俺を見送るその姿に不思議と微笑ましい気持ちになる。裕福な清詠の家を見ていると羨ましいと思わないこともないが、これはこれでいい暮らしなのだ。
*
時は変わって午後一時前。俺はマップ上に示された場所に来ている。ただ今までの道のりが、それはそれは壮絶であった。確かに家から東へずっと進んでいくと、もうそこは山であり森である。あとやけに道が暗くて怖い。俺は今そこを通って来たのだ。ここへくる途中に一軒だけ大きな家を見たが、夜になれば街灯もないようなこの場所に家を建てるなんて、相当の物好きもいたものだ。目の前にあるのは深い森の奥に佇む町役場のような建物。確かに地図上のマークはここを示している。
駐車場には見覚えのある車が一台止まっていて、誰の車だったかと考えているとドアが開いて中から清詠が出て来た。
「時間は守ったみたいね、紙は持ってきたかしら」
「ああ、大丈夫」
俺の手に握られたバッグの中身をチラっと見て、清詠はついてきなさい、と手招きをした。
自動ドアを潜るとすぐ受付があって、確かに役所のような雰囲気だ。受付にいたのは年若い女性で、清詠がカードのようなものを見せるとどこかへ電話をかけ始めた。
「その辺に座って待ってましょ、そのうち迎えが来るわ」
受付の前にある椅子に座ってぼんやり建物の中を眺める。いくつかカウンターのようなものも見受けられ、市役所か何かのような構造ではある。しかし看板に表記されているのは見覚えのない単語の羅列が殆どだし、職員は皆制服を着ていて不思議な印象だった。見覚えのない単語の意味について考えていると、椅子に座らずにふらふらとしていた清詠がどこからかパンフレットを持ってきた。
「暇ならこれ読んでた方がいいわよ、どうせアンタ、あの女狐からなにも聞いてないんだろうし」
差し出されたパンフレットの表紙には可愛らしいキャラクターが描かれている。女性のミニキャラクターと目が合って、暫く表紙をじっと見つめていた。
「やっほー清詠ちゃん、待ってたよ!」
響いた声に顔を上げると、制服を着た男が手を振りながらやってきた。受付の女性も頭を下げている。にしても、この人、とても目立つ。俺でも見上げるほどある背丈、部類は間違いなくイケメン。俗に言う甘いマスク、ってやつだと思う。それもさることながら、髪の色がピンクってどうなんだろうか。薄いピンクの髪に黒いメッシュが入ってる。この職場ってそういうの自由なのか。
男は清詠と二三言葉を交わすと、俺に声をかけてくる。
「キミが志異くんだね、早速で悪いんだけど契約書出せる? すぐ持ってかないといけなくて」
もぞもぞとバッグから紙を引っ張り出して渡す。彼はくしゃくしゃの紙に若干驚いているようではあったけど、暫く眺めてから大きく頷いた。
「じゃあ奥の会議室に案内するから、清詠ちゃんも一緒にどうぞ」
そのまま一階にある部屋に連れて行かれる。中には既に女性が二人いた。一人は制服だったが、もう一人はそうではない。やっぱりここって色々自由なのか。首を傾げていると、制服ではない女性から話しかけられた。
「やっと来たね。よろしく頼むよ、私は津々見。ここの職員で、こっちの紫のが雲井だ。一応雲井が御宅らの担当なんだけど、新人だからお手柔らかに頼むよ」
津々見さんはついでに隣の制服の方の女性の紹介もする。雲井と紹介された女性は若干青い顔をガチガチに固めて、紫の髪を揺らしながら勢いよく立ち上がった。
「あ、あの! よろしくお願いします! 雲井涼で、えっと、今日から担当になります!」
立った衝撃で丸い眼鏡はズレてるし、さっきより顔色が悪くなっている。初っ端から色々心配でしかないが、隣で津々見さんが憚らず笑っているのを見るに、多分仕事はしっかりするんだろう……と、信じたい。そもそも俺はこの人たちの仕事もなにもわかっていないからまだ何も言えないけど。
二人に倣って俺も自己紹介をする。簡単に名前を名乗った辺りで、ああ、と大きな声をあげた雲井さんがいそいそと書類ケースのようなところからアンケート用紙のようなものを出した。
「あの、問診票みたいなものなので、あんまり深く考えないで書いてください。あ、急がなくていいです! ああ! ごめんなさい、ボールペン! です!」
大慌てだ。一歩間違えれば泣き出しそうな様子に若干俺も焦る。いや、泣き出したとしても俺は悪くないんだろうけど女性を泣かせるのはちょっと……。
受け取ったペンを握って手元の紙を見ると、質問は身長体重年齢など一般的な病院で書くような問診票の内容から始まった。特に迷うこともなくつらつらと書いていくと、途中から様子がおかしくなる。スポーツ経験を聞かれたあたりから違和感を感じ始めて、最終的に戦闘経験、希望する武器の種類、といった質問に変わった。武器なんて扱ったことはないので、とりあえず特になしと書いておいた。
ペンを置いて室内をキョロキョロ見回していると、津々見さんが書類をいじくる手を止めて俺の手元を指差した。
「ん、書き終わったら受け取るよ。ところで御宅、志異って言ったかい。志異はどうしてこんなところに」
「えっと、昨日清詠に言われて。というか俺、こんなとこあんのも今日知って。母親には火の玉見っけたら逃げ帰れとしか教えてもらわなかったから」
おずおずと話すと、津々見さんの琥珀色の目がすうっと細められた。
「戦闘経験、清詠に付き合ったことになっているね。でも実際に戦ったことはないとも。それで、清詠。何故このタイミングなんだい? 御宅が志異を付き合わせてからもう半年は過ぎていると思うのだけど」
鋭い眼光が清詠を射抜く。なんのことやらさっぱりな俺は見守るしかなかったけれど、それ以上に場の空気に雲井さんが顔色を悪くしていた。彼女は一刻も早くこの部屋から退室したそうだが、残念なことに入り口から一番遠い席に座っている。俺はじっと心の中で手を合わせた。
「このタイミングになった原因はアタシじゃないわ、残念なことにね。これでも頑張った方なんだけど。それとも、保護者の許可も取らずにここへ連れてくるべきだったかしら」
どう考えても喧嘩だ。なんだかどんどんと清詠の赤い目に力が篭っていくのが気になる。気になるっていうかヤバい、のでは。これは。雲井さんなんてもう気を失いそうなレベルで顔が白い。なんか震えてるし。ただ、今俺が口を出しても状況は悪化するだけだろうと、喧嘩の音声をバックグラウンドに少し現実逃避をする。
顎に手を当てて考え事をしていると、部屋の外から聞こえる足音が頭に響いて意識が浮上する。思考の霧が晴れるのと同時に、周りの音が煩いくらいに入ってきた。
「アンタならよくわかるでしょ、アイツは志異に自分の──」
清詠が何かを言いかけると、ガチャっとドアノブが回ってさっきの背の高い男が部屋へ入ってきた。手には大きな工具箱のようなものが提げられている。
「……また喧嘩?」
彼の質問に二人は口をつぐんだが、代わりにガタガタと震えていた雲井さんがついに泣き出して、しゃくり上げながら入り口の方へ走り出した。
「ああ、あの! ごめんなさい、あたし止めようと、したんですけど!」
こちらからだと背中側しか見えないが、目を擦っているのかかちゃかちゃと眼鏡が音を立てている。彼は部屋を一周見回した後、ため息をついて雲井さんの紫の肩をポンポンと叩いた。
「いいよ、ありがとう。悪いのはそこ二人だから……。って言うか津々見さん! いい加減大人気ないって言ってるじゃないですか!」
「……すまなかったね、ただこの子が……」
「そう言うところが大人気ないって言ってるんですけど」
男は冷たい視線で津々見さんを見る。彼女が言い返されたのを見て、清詠は清詠で勝ち誇ったように鼻で笑うとどかっと音を立てて椅子に座った。いつもの優雅な振る舞いは何処へやら。
ズビズビと鼻をすすりながら雲井さんも椅子に座り直し、全員が元の位置に戻ったところでさて、と男が手を叩く。手袋越しのくぐもった音が響いた。
「今申請が通ったから、後で証明写真を撮ってライセンスを作ろうね。えっと、オレは小野田与壱です。こんなナリだけど、一応ここの結構偉い人だと思っててくれればいいや。今からするのは簡単な説明とか、武器の使い方とかだけど、キミ、どこまで知ってるの?」
「ゼロだね、全く」
質問に答えようと口を開くと、それより先に津々見さんから返事があった。
「そっか、じゃあ一から説明するね。キミ、あの緑の火の玉は見えるんだもんね」
「はい、見えます」
そりゃそっか、と苦笑いしながら手元の資料をペラペラとめくって、紙を一枚引っ張り出す。
「これね、古い言い方のままなんだけど、一応正式には『妖異』って呼ぶことになってるんだ。世界中どこにでもいるんだけど、結構人を襲うんだよね。襲うって言っても、触ろうとしたことがあればわかると思うんだけど人には触れないから、そうではなく別の形……いわゆる呪いってやつだね。人の妖力や生命力を食い潰そうとしたり、死体を乗っ取ったケースもある。そう言う通報を受けて、それに対抗するためにいるのがオレたち。ここ『全国妖異対策本部』の職員なんだ」
説明の書かれた紙にペンで図やら文字やらを逆から器用に書き足して、小野田さんは話を進める。
「……ん? でもここ地図じゃ神社協会? って……」
「まあ、隠れ蓑ってやつだね。安心してね、オレたち一応公務員だから! そうそう、それでオレたちの中にも勿論戦闘要員はいるんだけど、事務作業とか電話応対とかで忙しくてさあ。そして統計上、妖異が見える人間は全人口の零点一パーセント前後もいる。でも見てわかる通りこうやって働く人は一握りだし、さっきも言ったけどここって本部なの。日本で一番大きい規模の対策室がここ。支部は日本中探しても二十と少ししかないし……」
はぁ、と頭を抱えながら溜息をつく小野田さん。
「予算がね、下りなくて、全然。人雇えないし……。大っぴらに求人出せないし、何よりここで働く以上、家族も妖異が見えないと説明がつかなくなっちゃうからね。オレなんかもそうだけど、そう言う家系でもないとやってられないし」
対面に座る三人から重苦しい雰囲気が伝わってくる。予算と人員不足。悲しい話だ、なんとも。
「そう、そこで打ち出したのがこれ。キミたちみたく腕に覚えのある人を伝って募集かけて、お小遣い稼ぎで妖異を退治してもらおう大作戦! って訳。ここの三階に通報の電話がかかってくると、ライセンスを持ってる人に連絡が行くようになってる。その近辺に住んでる人だね。そこで承諾があると、契約が成立して、その人は妖異を倒す、そしてここからお金をもらう。実にwin-winだね! 副業程度の人が殆どだし、物とか壊さなきゃ逃しちゃっても他の人に再度連絡が行くだけだからリスクも殆どないし」
俺が腕に覚えがあるかどうかは別として、よく考えたものだと思う。民間の人が自転車で食事を配送してくれるようなシステムと似たようなものか。確かにアレ──妖異と言ったか。妖異はどうも人間を見ると逃げていくらしいし、触れられないのならばこちらにも被害は出ない。少し断末魔が心臓に悪いが、彼らの言う通りなら害虫駆除の感覚だろう。
「ええと、希望武器種は無しになってるね。特に触ったことはない感じ?」
「はい、全く何も」
「じゃあ、一番メジャーなもの持ってこようか。……まあまずはこれかな」
彼は何かぶつぶつと言いながら工具箱を開けると、黒い細めの筒のようなものを取り出した。太さは握り込めるくらいで、長さは二十センチくらいだろうか。底の方に赤い小さなボタンが見えた。
「これが妖異と戦うための武器。通称『陸器』だ。まずは使い方だけど、この赤いボタンを押すんだ」
そう言って彼がことのほか強めに、叩くようにボタンを押す。すると見覚えのある薄緑の光が刀のような形を模して筒から生えた。
「おぉ……」
「これはね、妖力だけを斬る妖力の刀だ。人間は妖力を体の外に出す機能がないから、この機械を使ってこう言った型にはめて外へ出す。ああでも、安心してね、こうして刃が当たっても、妖力の流れが一瞬遮断されるだけで何にもならない。何かの事故で妖力が無くなっても妖異が見えなくなるだけで命に別状はないし」
そう言いながらブンブンと刀を振って自分の腕やらを通り抜ける刃を見せてくる。ニコニコと笑いながらやられるが、なかなかにリアリティのある形だからか複雑な気持ちだ。左右に座る二人も引いている。
「消すときはもう一回ボタン押せばいいから。とりあえずこれ持って、誰かの依頼にでもついて行ってみて。清詠ちゃんでいいんじゃないかな」
受け取った陸器を手遊びに付けたり消したりしてみる。どうやら自分の中の妖力、とやらが出て行っているようだが特に何も感じない。妖力がなんなのかもよくわからないので当たり前かもしれないが。
さっきまでの話を思い返しつつ、いくつか疑問に思ったことを聞く。
「妖力ってのが遮断されても人間は大丈夫なんですよね? じゃああの、妖異、はどうなんですか」
「ああ、アレは──要はアレは、妖力でできた袋に妖力の詰まってる、妖力の塊みたいなものだからね。外の袋が破ければ、中身は弾けるでしょ」
確かに以前清詠が妖異を矢で射抜いたとき、暗かったために視認しづらかったが、あの火の玉と思われる叫び声の奥にべちゃっとした水音のようなものを感じた気がする。
「あと、人間の妖力とか生命力とか、吸うんでしたっけ彼ら。それに寄ってって危なくないんですか」
「そこはご心配なく。吸い切るのには月単位の時間がいるからね、何ヶ月も背中にくっつけたままとかにしなければ大丈夫」
その様子を想像して少し微笑ましい気にもなった。
「その陸器、使ってみて合わなければ言ってね。そう言うのの担当は津々見さんだけど、相談するなら誰でも構わないから。……証明写真、撮り行こうか。オレ今から仕事あるから、雲井ちゃん、お願いできる?」
「は、はい! 大丈夫です!」
さっきと同じようにガタガタと大きな音を立てて立ち上がる。ずれた眼鏡を直しながら体の前に書類ケースを抱き締めてこちらにペコペコと頭を下げた。それを見届けて、若干小走りで小野田さんが外へ出て行った。それほど急いでいたらしい。
大きく伸びをした津々見さんは、気怠げに立ち上がってこちらへ寄ってくる。俺に話しかけながら、雲井さんの頭の上に手を乗せた。
「こんなだけれど、雲井はやればできる子だからね。たくさん頼ってあげて欲しいな」
ひとしきり彼女の頭をくしゃくしゃと撫で回し尽くしたあと、津々見さんはウインクをしながら部屋を出て行った。ポニーテールにあげた髪が揺れるのがスローモーションで流れていく。白い頸が目に眩しかった。
「……惚れたんじゃないでしょうね」
「……そういうんじゃねえよ」
「あのっ! 喧嘩はもうご遠慮くださぁい!」
*
「お写真はここで撮ってくださいね」
一度外に出て、入り口と反対側まで行くと自動販売機の並ぶ横に街中でよく見る証明写真機があった。促されるままにカーテンを潜り、アナウンスに従ってボタンをポチポチと弄っていると外から話し声が聞こえてきた。
「お、嬢ちゃんじゃねぇか。何だ、ツレも一緒か?」
「そうよ、今はライセンスの写真を撮りにね」
ぼーっと話を聞き流しながら手順通りに進めていく。話の内容は他愛無い世間話のようだ。頭の位置を合わせながら、自分の姿を確認する。証明写真を撮るのであれば言ってくれればよかった、と随分ラフな服装できたことを思わず後悔した。
短くフラッシュが焚かれて撮影が終わる。あとは印刷待ち、のところでカーテンから顔を出す。
「あら、終わったのかしら」
「……」
二対の目がこちらを見る。雲井さんは空を飛ぶ鳥を眺めていて、こちらには気付いていない様子だった。
清詠の話し相手は壮年の男だった。年の頃は父親世代、だろうか。その男がじっとこちらを見ている。検分するような目つきだ。瞬きもせず、ひたすらに藤色の瞳がこちらを見つめている。男の手がこちらに伸びてくる。その動きに、清詠が反応する。俺はというと、藤色から目を逸らしたらいけない気がして、立ち尽くしたままだ。コンマ一秒と無いうちに、むんずと彼の大きな手が俺の顎を掴む。
「……お前……随分と可愛い顔してんじゃねぇか」
「俺……男ですけど」
視界の端でやれやれと大仰に溜息をつく清詠が見える。奥では雲井さんが顔を真っ赤にして手で覆っていた。その割に隙間から見ていた。
「……だろうな。しかもその様子じゃあ嬢ちゃんとくっついて長いと見たね。はぁ……おじさんは一人寂しく仕事に戻りますよ」
ここへ来たときに買ったらしい缶コーヒーをぶら下げて男は建物へ入って行った。
「俺、自分のこと女顔だとは思ってたけどここまでか……?」
「安心しなさい。そこら辺の女よりはるかに可愛いから」
安心できるかよ! と大きな声で突っ込みたくなるのを我慢する。印刷の出来た写真をぴらぴらと振りながら、未だ真っ赤になっている雲井さんに話しかけた。
「あの、写真できましたよ」
「あ! はい! そうですよね、あの、あたし、何も見てないですから!」
眼鏡がくもりそうなほど真っ赤になってるし、湯気まで幻視できるくらいには沸騰しそうな表情だ。これで真っ赤になるのに、さっき小野田さんに頭を撫でられていたときは平然としていたのだから不思議な人だと思う。あれが平然としていたのかはともかくとして。
「あ、今のは葦五位さんって言って、ただの知り合い、というかアタシの叔父さんの後輩なのよ。でもまあ、よっぽどのことがない限りは会うことはないだろうけど」
そのよっぽどのことが何なのかは知らないが、確かに少し怖かったのでもう会わなくていいのは正直ありがたい。
「……兄貴に次いで二人目ね、アンタも難儀だわ」
「何それ聞いてないんだけど!?」
目の前にいた雲井さんは、確かにその時湯気を発していた。