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恋人が俺の自転車の荷台の上に立っている。
いや、正確に言えば立とうとしている。恐らくそろそろ金具を掴んでいた指が離れて、支えが足二本だけになる頃だろう。率直に言ってやめてほしい。何しろ今俺の自転車、多分並のバイクよりスピードが出ている。
「危ない危ない危ない! お前正気か? ふざけんなマジで!」
「アタシは大丈夫だから文句言わない! それより前見て運転しなさい!」
大丈夫なものか、絶対に。しかしこの状況、事故は起こせないことは確かだ。第一にそんなことしたら俺が殺される。こいつの親父に。
それからもう一つは、俺たちが今死に物狂いで追いかけているそれ。
半透明に光る火の玉のような生き物なのだが、どうにもこれは普通の人間には見えないものらしい。だから人に見つかる前に、できれば迅速に処分しなきゃいけないらしいのだが。
「そこ! 左に入って!」
「馬鹿! 森だぜこっち、流石に無理!」
迅速ってこんなに急がなきゃいけないのだろうか。
結局俺は素直に、いけるいける、だの無責任に言い放ってそのまま本当に立ち上がった後ろの女に呆れつつハンドルを左に切る。
こうなったらもうどうにでもなれだ。車輪の下で潰れて形の変わる土の感触をペダル越しに感じて、俺は彼女の父親の姿に想いを馳せた。
*
「死んだかと思ったわ。社会的に」
「安心しなさいよ、お父さんはそんなことじゃアンタを殺したりはしないわ」
何が安心だよ、そんなの言外に俺が殺されるお父上の琴線のラインがあると言っているようなものだ。いや、世の父親は大抵そうか。
街灯に照らされるばかりの暗い道の端に横たわり、脚を揉む。筋肉痛から逃れられなくなった俺を心配したのか、清詠はこちらを覗き込んできた。ふわ、と二つに結んだ彼女の赤い髪が揺れるのをぼんやり眺めた。
「ごめんなさいね、付き合わせて。と言うか主に、足に使って」
「自覚あんならいいわ……というかいいんだよ、別に俺を足にするのはさ。ただその……荷台の上に立ち上がんのはやめてくんない?」
壊れて落っこちでもしたら、それこそ怪我どころでは済まないかもしれない。自分の運転する自転車から落っこちたヤツが死ぬなんて、一生悪夢を見ること間違いない。大体、なぜ無事だったのかも不思議なくらいだ。
清詠はあの後、立ち上がって前方に矢をぶっ放し、見事火の玉に命中させた。火の玉と同じ色──薄緑に発光する矢が自分の頭上を駆け抜けていったあの瞬間、若干死の恐怖を感じた。あの薄緑の発光体は人間には当たらないらしいので、例え俺に命中したところで痛くも痒くもないのだけれど。
「でもああしないと殺せないじゃない」
「殺すって……なんか他に言い方ねえのかよ、倒すとかさあ」
「もー、うるさいわねえ。さ、もういい時間だし帰りましょう。車出させるから」
時間を確認しようとして、街灯が彼女の時計に反射する光に目を細める。よくわからないけど送ってくれるらしい。ラッキーだ。ここから家までは三キロくらいあるはずだ。この足で歩いて行くのはさすがに現役高校生でも辛いものがある。
「ありがと、にしてもお前すげえよな、あんな小ちゃい的に当てるんだからさ」
清詠が狙って当てた火の玉は、握り拳代の大きさしかない。弓を射たことはないからわからないが、すごいことだけは伝わってくる。
「当たり前じゃない。アンタと違って小ちゃい頃からやってるんだから」
そう言うと彼女は俺の手を掴んで起き上がらせ、自転車を引いてくれる。ここから数分ののところにある、彼女の家まで向かうつもりらしい。暫く進むと、あ、と声を上げて清詠が勢いよく振り返った。
「家着いたら書類渡すから、サインと保護者のハンコもらってね」
「は?」
「? アンタだってあれが見えるんだから、戦う手段があった方がいいでしょう。って事で、その認可を下ろしてもらうための書類よ」
なんでそんなに急なのか、とか、そんな雑でいいのか、とか色々聞きたいことがありすぎて頭がこんがらがる。餌を前にした鯉みたいに口をぱくぱくさせてから、諦めてため息をつく。確かにこいつはこういうやつだから今更何言ったってしょうがないものだ。こうして振り回されるのも、これはこれで悪くない気分だし。
*
「ただいまー。ごめん母さん、ちょっと遅くなった」
ボロいアパートの玄関をくぐると、居間からひょこっと母が顔を出した。
「あれ、お帰り。ご飯ラップしてあるからあっためて食べてね」
ご飯、と聞くと途端にお腹が空いてきた。テレビに表示されてる時計を見るともう八時半を超えていて、余計にたまらなくなってとっととご飯を食べることにする。どうやら今日の夕飯は炒飯らしい。
テレビから侍の斬りかかる掛け声と、倒されて呻く男の声が聞こえた。
「母さん、時代劇好きだったっけ?」
「いや、別に好きとかいうわけじゃないんだけどね。殺陣が……かっこいいなって思って」
レンジの音を待ちながら、テレビの画面をぼーっと見つめる。俺はどちらかと言えば、殺陣をする方よりも斬られる役の方が凄いと思う。わざと倒れるのって、結構痛いものだ。
ぴー、と、間の抜けた電子音が響く。レンジを開けて皿を取り出して、ラップを剥がす。ラップについた水滴がびちゃっと炒飯に零れていくのを微妙な気分で見つめた。できれば作りたてが食べたいものだ。今度からは早めに帰ってこようと思いながら手をつけた。
手を止めずに食べ進めていって、しばらく。ついさっき車の中で清詠にもらった一枚の紙について思い出した。
「そうだ、母さん、なんかさっき清詠がこれにハンコもらってこいとか言って渡してきた紙があってさ。バッグん中入ってるから食べ終わったら出すから」
そう、と短く呟いた母の琥珀色の瞳が、俺の手元とバッグをチラチラと行き来した。
続きを食べながら、テレビを見つ直した母の横顔を見る。この人は昔から変わらない。憂いを帯びたようなな目元も、長く伸びた白い髪の毛束も、たいして美味しくない料理の味も。絶対に適当に調味料をかけたはずだ。やけに醤油の味が濃かった。
食器を片付け終えた俺は、テーブルの上に紙を雑に投げ飛ばして風呂に直行した。
シャワーを浴びて髪を濡らしながら手櫛を通す。地面の上に寝っ転がったからだろうか、砂埃を浴びたからだろうか。肩口まで伸ばした髪がキシキシと傷んでいるのを指先で感じた。
*
彼女は風呂に消えていった志異の背中をじっと眺める。
早いものだ、と感心してもみる。あっという間だった。育て始めて十余年、いつの間にか背丈も抜かれていた。頼もしくなったものだ。あっという間だ、本当に。この分では彼が旅立つまでも早いのだろう、と渡された書類に目を落とす。
ここまでか。
本当なら一生、彼女はここに自分の名前を書くつもりはなかった。手塩にかけて育てた我が子を危ない目に遭わせてたまるか。戦う手段がないのも考えものだ。などとうまく丸め込まれてしまった。ただ、ただ一つ言いたい。あれは説得などではない。限りなく脅迫に近い何かだった。今思い返すだけでも腹の立つあの赤い髪を思い出してため息をつく。
「何が目的なんだ……」
静まりかえった部屋にテレビの音だけが響いている。無意識に握り締めていたらしく、書類がぐしゃぐしゃになっていた。誰が受け取るのかはわからないが、心の中で謝罪をしておく。ついでに呑気に風呂へと向かった彼にも謝って、ボールペンを手に取った。
*
風呂から上がると、書き込まれた書類がテーブルの上に置いてあって、後は俺がサインするだけの状態だった。ただその紙が、一回丸めてから開き直したかのようにシワだらけになっている。
「なんでこんなに紙がぐしゃぐしゃになってんのさ」
「……気にしないで、ちょっと思わず握りしめちゃっただけだから」
なんだか怪しいが、まあだからと言って何というわけでもない。大人しく書類に目を通す。
「……漢字多い……なにこれ……難しいな……」
「……まあ、ちゃんとしたとこから出てるやつだし大丈夫だと思うよ」
母の言葉に従って目を滑らせる。保護者氏名の下にある契約者氏名、の欄にペンを走らせた。
「狐島、志異、と」
このサインが、運命の分かれ道。
いつからか俺は、この幸せだったはずの日常を取り戻さなくてはいけなくなるのだったが、そのことに気づくのはもう少しだけ、先の話。