最終話.“Sister Cherry”
駅からバスで20分ばかり、郊外の山の手に、その施設はあった。遼太郎はいつもひとつ手前のバス停から、歩くことにしていた。盛夏のこと、たったそれだけの道のりでも、日差しとセミの声を浴びて汗だくになる。
最後の坂道の下で、遼太郎は花束を持ち換えて、額を拭った。
坂を上り始める。両側から森が迫る。視線の先に、むくむくと湧き上がる入道雲が、手を組んで祈っているように見える。遼太郎はどこまでも青い夏空に、昇っていくように錯覚する。
昇っていけるなら――……遼太郎はそう思った。
或いは、空に向かってさかさまに墜ちていけるなら。
館内に入ると、汗に濡れたシャツが冷えて、遼太郎は身震いした。受付を済ませて、勝手知ったる施設内で、行き会った職員が会釈を寄越すのに軽く頭を下げる。
ここの職員とはだいたい、お互い顔くらいは知っている。そう大きな施設ではなかったし、遼太郎がここへ週末ごとに通うようになってから、もうずいぶんと経つのだ。
二階の端の部屋、もう何度訪れたか知らないドアを、今日もノックする。ドアを開くと、一陣の風が吹き抜けて――……
「そろそろ来てくれると思ってたよ、お兄ちゃん……」
開け放った窓際に立って、夏空を背負って振り返った桜子の、髪と細かな花側のワンピースの裾を、ふわり、なびかせた。
両手の指を胸の前で祈るように組んで、桜子は小首を傾げ、あどけない少女のようににっこりと微笑んだ。
「お仕事大変なのに、いつも桜子のお見舞いに来てくれてありがとう……」
「何言ってんだよ」
一瞬、桜子が実際よりずっと幼く見えて、遼太郎は動揺を押し隠す。
「桜子と約束したんだから、お兄ちゃんは毎週花を持って会いに来るし、いつまでもずっと桜子の傍にいるさ……」
遼太郎はそう言うと、以前よりいくらか痩せた桜子に歩み寄り、その髪を梳かすようして撫でた。
「えへへ……嬉しいなあ……桜子は幸せ者だなあ……///」
そう呟くように言って、目を閉じると……
19歳の体に13歳の魂を閉じ込めた桜子は、遼太郎の胸に頭を預けた。
遼太郎が門を潜って訪れたこの施設は、〇〇会青少年サナトリウムという。郊外の自然の中にある小さな療養所だ。
桜子はもう6年の間、この場所で毎日を過ごしていた。
**********
6年前のあの日、階段を踏み外した桜子の手を、遼太郎はつかめなかった。
指先は触れた。しかし遼太郎は妹の恋心と同じく、その体も抱き寄せて受け止めることができなかった。桜子は階段を転がり落ちて、床に頭を打ち付けた。
その数センチを、遼太郎はこの6年間ずっと後悔し続けている。
遼太郎は今でも、桜子が絶望の眼差しで、ただどこかホッとしたように少し笑って、ゆっくり後ろ向きに落ちていく光景を夢に見る。
夢の中でも、遼太郎の手は桜子には届かない。夢の中の桜子は、何度も微笑みながら落ちていく。
何度も、何度も、何度も。
大きなケガはなかった。だが病院で目を覚ました桜子は、最初の記憶喪失の直後の桜子に戻ってしまっていた。完全に、“あの事故”の再現だった。
桜子は再び記憶を失くした。正確には“記憶が戻ってから先の時間”を失った。一度目に記憶を失くしてから、戻るまでのことは、多少錯綜しながらも覚えているらしかった。
遼太郎には、桜子が自分への恋に終止符を打つべく、無かったことにする為に、自分自身を壊してまでリセットをしたように思えた。
お兄ちゃんではなく、ただ自分だけが傷つけばいいのだと――……
遼太郎はそんな桜子の思いが、愛しくて、悲しくて、悔しくて……それ以上に心の底から怖かった。
**********
それからの6年を、遼太郎は桜子に寄り添うことに費やした。
体は大人の女性として、花が開くように成長していく桜子だったが、心の時間は止まってしまったかのように同じ場所で足踏みをしていた。
「お兄ちゃん……桜子、お兄ちゃんのことだーい好き///」
桜子は、あの、ゲームをしていて思わず遼太郎にキスしてしまい、泣き出した挙句に眠り込んで、ベッドまで抱いて運んだ“妹”と……
「遼君、今日もカッコいいねえ……///」
兄を忘れて本気の恋をした“女の子”の顔のままで……
「あ、ヒマワリだ。ちっちゃいヒマワリ、可愛いねえ」
遼太郎の抱えてきたミニヒマワリのアレンジメントを見て、桜子はぱあっと目を輝かせた。
「桜子は昔から、向日葵好きだからな。花瓶に活けよう」
療養院を訪ねる時、遼太郎は必ず花を持ってくる。それは桜子との約束だ。今は空っぽの花瓶が、ベッドサイドテーブルに所在無げにしている。
(今日の桜子は、“妹”の方らしいな)
世界とは主観的なものだ。桜子はふたつの自分の間で揺れながら、桜子だけの現実の中で生きている。
いや、違う。桜子と遼太郎、二人きりの世界で、だ。
遼太郎は大学を出て、働きながら、全ての時間を桜子とともに歩んできた。それは桜子が大切で、記憶のない妹を支える責任がある……からだけではなかった。
遼太郎もまた、桜子という檻の中で生きていたのだ。
あの日桜子に手が届かなかったのは、僅かな一瞬、自分の心にためらいがあったからだ。遼太郎はそう思っている。
高校生だった遼太郎はあの日、突然ぶつけられた妹の思いと、気づかされた自分の思いに混乱した。だから部屋を飛び出した桜子を、追うのが出遅れた。
階段から落ちる前に桜子を抱き締められなかった。そうすれば、もう兄と妹には戻れなくなる。その先にあるものとないものが、怖かった。
遼太郎の目にそれを見てしまったから、桜子は、恋する人へ伸ばした手を引っ込めて、胸に抱くように組んで、微笑みながら落ちていったのだ。
記憶を失くした時も、戻った時も、桜子は遼太郎の腕の中にいた。なのに一番肝心な時に、遼太郎は桜子を抱き寄せることができなかった。
そして、桜子は遼太郎を自分のものにした。
記憶が戻り、“妹”と“女の子”の二つがひとつに戻った“本当の桜子”は、遼太郎が再びバラバラにしたも同然だった。だから遼太郎は、もう桜子から離れられない。
それは桜子が望む形ではなかっただろう。幸せな結末ではないのだろう。それでも、桜子は誰も奪えない檻に閉じ込めて、遼太郎を手に入れた。
『ねえ、お兄ちゃん……ずっと、桜子と一緒にいよ……?』
あの夜に口にした願いは、こんな形であれ叶えられたのだ。
病室を去る時、“妹”の桜子が無邪気に、
「お兄ちゃん、バイバイのチューしてー///」
と言えば、遼太郎はいつだったかのように、頬っぺたにキスをした。
“女の子”の桜子が耳までに真っ赤にしながら、
「遼太郎さん、さよならのキスをしてください……///」
そうねだると、遼太郎は言われるがまま唇を重ねた。
つまるところ、それは贖罪だ。いくつ交わしたところで、幸せな結末に至ることはない。罪を償う為に罪を重ねる、遼太郎に科せられた罰だった。
(それでも俺は、これからも桜子と生きていく――……)
遼太郎は向日葵の花束を、ベッドサイドテーブルに置いた。買い求めた際、花屋の店員が何の気なしにその花言葉を教えてくれた。
向日葵の花言葉が「あなただけを見つめています」であると。
**********
遼太郎が花瓶に水を汲み、向日葵の花束の横に置くのを、桜子は窓辺からじっと見つめている。毎度花を持ってくる遼太郎は手慣れたもので、バッグから花鋏を取り出して、茎の先を少し落とした。
そのテーブルには、6年前の夏、兄妹とその友達とで行った海で撮った写真が飾られている。写真の中の遼太郎は17歳、桜子は13歳。
(そう言えば、これに写ってる桜子って、下着を……)
くだらないことを思い出し、遼太郎は思わず笑みを浮かべる。
写真立ての前には小さなトレイがあって、ひと組のお揃いの指輪が置いてある。二人の指にはもうサイズが合わない。着けたら最後、たぶん取れない。
ベッドの枕元には、どことなくスンッとした顔のクマのぬいぐるみが座らされている。かなり年季が入り、クタッとしたクマさんは、まだ桜子が小学生の頃に母さんに買ってもらったものだ。
クローゼットにはこれまた色の少々褪せた、リネンのキャスケット帽がしまわれている。病院の敷地内を散歩する時、桜子は必ずこの帽子を頭に乗せる。それは桜子が最初の記憶喪失だった時、兄妹でお出掛けして、遼太郎がプレゼントに買ってあげたものだ。
サナトリウムの個室は、桜子の思い入れのあるものを詰め込んだ、小さな小さな“桜子の世界”だった。その世界の住人はたった二人で……
遼太郎を見つめる桜子の指が、窓枠を行ったり来たり、撫でている。と、不意にその手がカーテンに伸びて、ぎゅっと握り締めた。
「あのね、りょーにぃ」
「どうしたー?」
テーブルで花の高さを揃え、遼太郎が振り向かずに応じる。その目が、大きく見開かれる。
「あたし……今朝目が覚めて、全部思い出したの」
ゆっくりと振り返ると、
「お前……」
桜子が、泣き笑いのような顔で手を胸の前に組んでいた。
「思い出したの。自分のこと……お兄ちゃんのこと……全部――……」
その表情は“妹”じゃなかった。“女の子”でもなかった。すっかり大人になってしまった、遼太郎がもう二度と会えないかもしれないと半ば諦めていた……
桜子、だった。
花束を投げ出すようにして、遼太郎は桜子へ向かって足を踏み出した。桜子の頬を涙が伝って、心の奥底からの笑みが湧き出していた。だが……
「来ないで、お兄ちゃん」
桜子が口にしたのは、6年前の夜と同じ拒絶の言葉だった。
**********
遼太郎は差し出しかけた両腕をそのままに、足を止めた。
「桜子?」
「来ちゃダメ……お兄ちゃん、来ないで……」
「なぜだ……!」
遼太郎は思わず声を荒げた。
「俺は6年……6年、お前のことを待ってたんだ。それが、やっと……」
「知ってるよ!」
桜子も今や、隠そうともせずぼろぼろ涙を零している。
「全部思い出したんだから……最初に記憶を失くしたことも、また失くすまでのことも。この6年、お兄ちゃんがずっとあたしの傍にいてくれたことも、全部覚えてるよ!」
「だったら!」
触れたくて、触れられないというのは、こういうことなのか。中学二年生だった桜子が抱いていたであろう思いを噛み締め、遼太郎は叫ぶ。桜子は泣きながら首を振る。
「だって……今お兄ちゃんに抱き締められたら、あたしは今度こそ、もう戻れなくなってしまう……」
「それでもかまわない。今なら言える、桜子、俺もお前が――……」
「ダメ……!」
桜子の叫びは、悲痛で、遼太郎も頭から水を浴びせられたようになる。
「桜子……」
「その先は、言わないで……」
桜子は涙でぐしゃぐしゃになった顔で言った。
「あたし達、もう子どもじゃないんだよ……? あたしは……あの頃のあたしの気持ちを、子どもだったから、なんて言わない。あたしの気持ちは、あの時の本気で本物だった」
「けど、今お兄ちゃんがあたしの気持ちを受け入れてくれてしまったら、あの時のような恋じゃ済まなくなる……」
桜子は心がちぎれるようにして、言葉を振り絞る。
「もう、思いを止められない。けど、今ならまだ戻れる……」
行けよ……遼太郎は自分に叫ぶ。6年を抱え続けた、桜子の思い、俺の思い。向かう先がより深い闇でも、それでもいいじゃないか……だが遼太郎は……
「お兄ちゃん……フツウの兄妹に、戻ろ?」
桜子の泣き笑いを見て、桜子を抱き寄せようとする自分の両腕が、想いの外に溶けて消えていくのを見た。
遼太郎は力なく腕を垂らして、桜子の目を見つめた。
「桜子は、それでいいんだな……?」
桜子は泣きながらにっこり笑って、そしてくしゃっと顔を歪めた。
「いいワケ……ないじゃないかあっ……」
大人になって、長い療養生活のせいで儚げで壊れそうな姿で、桜子は遼太郎の見覚えのある小さかったころと同じ顔をして、両手を握り締め、天井を向いて泣きじゃくった。
「いいワケなんて、ないじゃないかあ! 大好きなんだよ、お兄ちゃん……抱き締めて欲しいんだよお、キスして欲しいんだよお! 戻りたくなんか、ないんだよ! ああああああっ! うああああああっ! イヤだあっ! 桜子はお兄ちゃんの恋人になるんだっ! お兄ちゃんと結婚するんだあっ! 桜子は――……」
「だけど……だけど……ひぃぃぃん……」
桜子は我を失って号泣した。遼太郎の目からも涙が溢れていた。あの小さな体に、この痩せた体に、どれだけの気持ちを溜め込んで笑っていたんだ……
(桜子……!)
想いの丈をぶちまける桜子を、抱き締めてしまおうと思った。衝動は、もう抑えられそうになかった。
この世界を壊しても、桜子さえ壊してしまっても、俺は……
遼太郎は暗い場所から引きずり出した手を伸ばし――……
……――桜子の頭を、ぽんぽんと撫でた。二人がただただ仲良しの兄妹だった、あの頃のように。
「お兄ぢゃん……」
「お兄ちゃんも、今までも、これからもずっと、桜子が大好きだよ」
「でも……戻るか、フツウの兄妹に」
「うんっ……ざぐらごも、お兄ぢゃんのごど、だいずぎいぃぃぃ……」
窓からふわりと舞い込んだ風が、二人の髪と、向日葵の花びらを揺らした。柔らかな風はいち早く、やがて訪れる季節の終わりを告げたようだった。
あなただけを見つめています、これからも、ずっと――……
**********
遼太郎が差し出したタオルで顔を拭いて、桜子が照れ臭そうに笑う。遼太郎の微笑みも、もうお兄ちゃんのそれを取り戻している。
隣り合って窓辺に立ち、遼太郎が桜子の肩を抱き寄せた。けれどもそれは過ぎ去った激情をもはや呼び戻すことはない、優しい“お兄ちゃん”の手だった。
「あのね、お兄ちゃん」
桜子ははにかんで、遼太郎を上目遣いで見た。
(うわあ、愛おしい……)
何だか久しぶりに、遼太郎は桜子を妹として見た気がする。
「あたし、幸せだったよ。お兄ちゃんの妹だったことも、お兄ちゃんを好きになったことも。この6年、お兄ちゃんがずっと傍にいてくれたことも、大切な思い出として、ずっとここにあるよ」
桜子がそっと自分の胸に手を当てると、
「どこ?」
遼太郎がワキワキと手を伸ばして、
「戻れー! あの頃の純粋でカッコ良かったお兄ちゃんに戻れー!」
桜子は握り拳をぐりぐりと遼太郎の頬に押しつけた。
遼太郎はわざと大げさにのけ反り、
「失礼な。お兄ちゃんは今でもカッコイイよ」
中指でぐっと押し上げた眼鏡を光らせる。
桜子はクスッと笑って、
「でも、お兄ちゃんの人生を大きく狂わせちゃったことは、申し訳ないな」
そう言ったが、
「別に狂ってなんかないさ。可愛い妹の傍にいれて、俺も幸せだったよ」
桜子は目を見開き、口元を嬉しそうにもぐもぐさせて、遼太郎を肘で突いた。
「もうっ、そんなこと言うと桜子ちゃん、また惚れ直しちゃうぞっ?」
「お兄ちゃん、いつでもウェルカムだよ?」
遼太郎がニッと笑う。今はもう、そんな冗談が言い合える。長かった苛烈な夏が過ぎて、穏やかな秋を迎えるような……二人はお互いを見つめ、そんなふうに思うことができた。
少し黙った後、桜子が遼太郎の横顔を見上げた。
「ねえ、お兄ちゃん?」
「うん?」
「あたしがここに入院してから、あたしがお願いすると、お兄ちゃんいつもキスしてくれたよね……?」
桜子がそう言うと、遼太郎は人差し指で鼻と口の間を擦った。6年ぶりに見た懐かしいクセに、桜子の胸の奥が疼く。
「でもお兄ちゃん、いつも何だかツラそうな目してた……」
桜子がそう言うと、遼太郎は窓の外に目を向けた。森に囲まれ、向こうに山影を望む光景は、すっかり馴染みのあるものになっている。
「まあ、償いみたいなもんだったからな」
桜子が遼太郎から身を離して、正面から向き合った。
「お兄ちゃん、あたし達、今日からフツウの兄妹に戻るんだよね?」
「ああ、そうだな」
そう頷くと、桜子が真剣な眼差して見つめ返してくる。
「あたし、思い出の中のお兄ちゃんが、いつも悲しそうにキスしてくれたって覚えているの、自分も悲しくなるからイヤなんだ……」
桜子の必死に作る笑顔に、遼太郎の胸にも愛しさが込み上げる。
「お兄ちゃん、あたし達がフツウの兄妹に戻っちゃう前に……」
「最後にいっかいだけ、キスして……」
そして遼太郎と桜子は、一度きりの幸せなキスを交わして――……
(さようなら、あたしの恋心……)
(さようなら、あたしの“大好きだった人”……)
フツウの兄と妹に戻った。
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……――季節は廻り、また夏が来る。
とある郊外の森の中。セミのコーラスと入道雲、青空に吸い込まれそうな思いで坂道を上り詰めると、一軒の隠れ家風のカフェがある。
カントリー調の瀟洒な店を切り盛りしているのは、ひと組の兄妹だ。
マスターのお兄さんは落ち着いていて眼鏡でちょっとイケメンで、ウェイトレス兼軽食担当の妹さんは年齢より立ち振る舞いが可愛らしい。
妹さん自身と彼女の家庭風料理が店の二枚看板で、ことに“照り焼きチキンサンド”と“特製唐揚げ”はランチの人気メニューになっている。
兄妹揃って見た目が良くて、コーヒーより二人目当てのお客さんもあり、町外れにある割にはいつ行っても客足が絶えない。が、下心ありきで来店すると、とんだ肘鉄を食らうかもしれないな。
と言うのも、いい歳してるはずのここの店の兄妹、客がアテられるほど仲がいいんだなあ。
どちらも独身なものだから、常連客なんかは“夫婦”呼ばわりをしている。お兄さんの方は、
「コーヒーに、砂糖の代わりに塩はいかがです?」
冷たい笑顔を返してくれるが、妹さんはまんざらでもない様子で、
「きゃーん、やっぱりそう見えちゃいますぅ? お兄ちゃん、桜子、一人目は女の子がいいなあ……///」
「内側から営業妨害するのはヤメろ」
胸の前できゅっと指を組むポーズの妹さんに、お兄さんは動じることなくサイフォンの沸騰を見ている。
それでも妹さんはめげずに、ことあるごとにお兄さんにひっつき、手を握り、頬っぺたへのチューを狙う。
「遼君、隙ありっ///」
「はい、ブレンドとピザトースト、3番テーブルさん」
むちゅっ、と頬に唇を押し当てられてさえ、お兄さんは眉ひとつ動かさず、淡々と注文をカウンターに並べる。
ブラコン全開の妹と、闘牛士のようにヒラリヒラリとかわすクールお兄さん。妹さんの悪戯なキスは、照り焼きチキン同様、この店の名物だ。
まあ、さすがに、ここん家の“夫婦”が唇を合わせるところを、見たことのあるお客はいないが……
見てないとこではどうなんだ、と誰もが思ってる。
「ねえ、お兄ちゃん。フツウの兄妹ってどうやるんだろね?」
「さあ? やったことねーからわかんね」
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[1件の新しいメッセージがあります]
[よう、久しぶり。俺だよ、遼ちん。えっと……聞いたよ、妹ちゃんのこと。ホント良かったよなあ。俺も今度の休みには地元戻る予定だからさ、久しぶりに飲みながら“タローズ”で昔話でもしようぜ――……“ピー”]
ちりん、ドアチャイムが鳴る。
「あ、いらっしゃい……サナ、チー。それに、アズマ君も……」
「よー、相変わらずラブラブ兄妹かあ?」
「お陰様でね。ラブラブと言えば、チーとアズマ君、来月だよね」
「いやー、まさかここがあのままくっつくとはなー」
「まあ、ラブラブっつうか……居心地いんだよね、ヒロの隣は」
「フッ……それもこれも、あの頃の桜子殿のお陰にござるよ」
「出たし。久々に聞いたわ、アズマの忍者」
「懐かしいよねー」
「しかも、痩せたら結構イケてるとかな。アタシも選球眼甘かったかな」
「何と! 拙者、サナ殿ルートもあり申したか?」
「ちょ、人の婚約者にコナ掛けるのヤメてくんない……」
妹さんのとある事情で、しばらく途絶えていた旧交も、最近になって復活した。来月は友人の結婚式に、兄妹で出席するとの話だ。
また別の日、ドアチャイムが鳴る。
「遼君、桜子、来たわよー」
「あ、いらっしゃーい!」
「遼太郎、この店は何がお勧めだ?」
「ウチは全部おススメだよ。てか、桜子が出せば何でもいいんだろ?」
笑い声が店内に響く、だけど……こうして、また笑い合えるようになるまで、とても、とても長い時間が――……
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空はどこまでも青く、水平線はどこまでも遠い。子どものように堤防の上を歩く妹の手を、差し上げた兄の手が支える。
「やっと、ここに来れたね」
「ああ。6年掛かったな」
「でも……お兄ちゃんは約束を守ってくれた」
二人の胸元に、お揃いのネックレスが夏の日差しにキラリと光る。それぞれ高校生と中学生だった頃に、お揃いで着けていたウッドとパウワ貝殻の指輪。もうサイズの合わないリングに革紐を通した、世界に二つだけのペアアクセサリー。
妹の頭には、色褪せたリネンのキャスケット。もう6年もかぶり続けている。この世界に、この帽子の代わりになるものなんて存在しない。
並んで歩く二人は、あの日の写真の中の二人のままで。
「そう言えば、今日ははいてるの?」
「……相変わらずのお外系ヘンタイだよ、この男は」
春になったら、二人で桜を見に行こう。きっと二人で。
ずっと二人で――……
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あなたを忘れちゃったら 初対面?
その腕の中で 気づいたる禁忌
あなたは笑って「好き」と 言うけれど
あたしが欲しいのは その“好き”じゃない
キオクとキモチの 間でココロが揺れる
あなたと過ごした時と そのヘンなクセを
全部忘れていても たぶん知ってるよ
止められない この想い 止めたくないの
ホントにホンキになったら どうしよう? ねえ?
桜咲く あの場所で また会いましょう
何度忘れてもあなたを また 思い出すから
イノセントな思い 気づいてますか?
さあ、堕ちていくよ 禁断の恋へ――……
外れない指輪みたい この恋は
見知らぬ“あたし”が 鏡で笑う
キオクとキモチが 作ったココロの迷路
あたしが過ごした時と あなたへの“好き”は
全部思い出しても きっと消えないよ
逃げ出したい 裏表 飛び込んでみたい
ホントのホンキになったよ どうするの? ねえ?
向日葵の 花束を 持って会いにきてね
何度忘れてもあなたを あたし 待っているから
インセストな愛は 躊躇いますか?
ほら、捕まえたよ 幸せな檻に――……
この胸に ありったけの
Sis‘s love for you,bro――……
Really I get serious,
wtacha gonna do?
嬉しくて 残酷で 泣きながら笑って
ホントのホンキになったよ どうするの? ねえ?
向日葵の 咲く丘で いつかきっと二人は――……
悪戯なキスをあなたに ほら あげるから
イノセントな思い 気づいてますか?
ああ、堕ちていく 真っ青な空へ
あなたに向かって――……
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とある郊外の森の中、坂道を上り詰めると、一軒の隠れ家風のカフェがある。
この季節なら、妹さんの丹精したという、向日葵の花が店の周りを彩っている。ご来店に際には、花言葉でも調べてお越し頂くといい。
「桜子、お兄ちゃんのこと、だーい好き!」
「うわあ、可愛い」
今日も今日とて、事故った妹が元気に事故るのを見たければ、いつでもどうぞ。
カフェ“Sister Cherry”へ、ようこそ――……
【終】




