97.It‘s Only a Paper Moon
97.It‘s Only a Paper Moon.
(言っちゃた……とうとう言っちゃった……)
ずっと胸に秘めていた思いを、ついに実の“お兄ちゃん”、“遼太郎さん”、“りょーにぃ”にぶつけてしまった。
(いや、我ながら、ダダ洩れであったとは思うけど)
直接はっきり、お兄ちゃんに言葉にするのは初めてで、桜子は早くも後悔と押し殺せない微かな希望に、腰が砕けそうになっている。
(ダメだよ、ムリに決まってる……だって、あたし達兄妹なんだから……)
けれど、一度口にしてしまった言葉は、もう取り消せはしない――……
遼太郎は困惑する。桜子は両手を胸に押し付け、真っ青な顔で涙を浮かべ、捨てられた仔犬のように膝をがくがくさせている。
遼太郎は鼻の下を擦り、
「うん……お兄ちゃんも桜子は好きだよ?」
「違う、そうじゃないよ! あたしが言ってるのは、そういう意味の“好き”じゃないっ!」
「うえ? どういうこと……?」
妹の“好き”、お兄ちゃんの“好き”……桜子の必死な様子に、遼太郎はますます面食らう。桜子は、振り絞るようにして、遼太郎に思いを訴える。
「そんなの、あたしが女の子として、男の子のお兄ちゃんを好きって意味に決まってるじゃない……!」
「え? ……ああ……ええ?」
「お前、またそういう……」
「え、冗談、だよな……?」
遼太郎がそう言っても、妹は黙って睨み返してくる。
さっきからの桜子の態度、今の泣き出しそうな顔。
遼太郎の頭の中で、呆けている自分とは違う誰かが、感情の外で何かを理解した。
**********
これまで――……記憶を失くしてからの桜子は、ことあるごとにこの手の際どい態度を仕掛けては、兄である遼太郎をドギマギさせてきた。
それでも遼太郎は、結局のところ、冴えない兄を小悪魔な妹がからかっているのだと、桜子のタチの悪い冗談だと受け止め、そんな関係を楽しんでもいた。時には……
(コイツ、本当に俺のことが“好き”なんじゃねーかって……)
思うことがなかったではないが、それも含めて、妹に弄ばれているか、お兄ちゃん大好きっ子なんだって、そう自分にツッコんでいた。
まさか、それが、まさか……
遼太郎はぎしっと椅子に背中を預けた。
「本気……で言ってんのか?」
「冗談でこんなこと言えるかあっ、バカあ……」
桜子が顔を真っ赤にして叫んだ。
桜子の瞳から零れた涙が、ぽたり、ぽたりと床に落ちた。
「記憶が失くなって、病院で“初めて”出会って、あたしはお兄ちゃんのことが好きになっちゃったんだ……“お兄ちゃん”だって、覚えてなかったから……」
「でも、“お兄ちゃん”だって知っても、知らないから、一緒にいるとどんどんお兄ちゃんが好きな気持ちが大きくなって、でも言えない、言っちゃいけないって思ってて……」
桜子は涙を拭こうともしなかった。
「だから、お兄ちゃんと一緒にいると、嬉しくて、楽しくて、でもそれと同じくらいツラくて、怖くて……ずっと我慢してたのに……なのに……」
最後の方は、もう言葉になっていなかった。
(本気、か……)
遼太郎は泣きじゃくる妹を前に、言葉がなかった。本気、それも“切実な本気”だ。だったらこそ、
(言って欲しく、なかったな……)
俺のことを忘れて、兄と知らずに好きになった。記憶喪失という、そもそもフツウではない状態で、そういうこともあるのかもしれない。どうしようもないことなのだろうと思う。だけど……
桜子が自分でもどうすればいいのかわからないのと同様、遼太郎もどう受け止めていいのかわからない話だ。
遼太郎は前屈みになり、涙にぐしゃぐしゃの桜子を見上げた。
「けど、桜子。お前、俺がお兄ちゃんだと知らなかったから好きになったんだろ? 記憶が戻ってもそうなのか?」
桜子がぎゅっと目をつむって頷いた。
「あたしも……お兄ちゃんのこと思い出したら、この気持ちは消えると思ってたんだ……でも、記憶が戻っても、忘れてた時にお兄ちゃんを好きになった気持ちは元の自分に上書きされて、残っちゃったんだよ……」
「上書きしちゃったかあ……」
とんだ桜子バックアップシステムだ。
桜子は上目遣いで、壊れそうな自分を繋ぎ留めるように胸を押さえる。
「妹なのに、あたし、気持ち悪いよね……? お兄ちゃん、桜子のこと、キライになるよね……」
そう言うと桜子は下を向いて、歯を食いしばって、「ひぃぃぃん……」とちぎれるような嗚咽を漏らす。
桜子の痛々しい泣き顔に、遼太郎の胸もズキッと痛んだ。
「そんなことはない」
遼太郎はそう口にしながら、
「俺は何があっても。桜子のことを嫌いにはならないよ」
自分自身の心の内側を覗き込んでみる。
実の妹が自分に向ける思いへの、嫌悪は、心のどこにも無かった。
桜子は顔を上げて、ごしごしと目元を擦った。
「本当……?」
「ああ。そりゃあビックリはしてるけど、それで桜子のことを気持ち悪いなんて思ったりはしないよ」
そう言うと、桜子は心の底から安堵の表情になった。
「良かったあ……言ったら、絶対ダメになるって思ってたから、すごく怖かったんだ。じゃあ、お兄ちゃん……」
と、ほわあっと胸の前で指を組んだ桜子から、今までに見たことのない真剣な眼差しを向けられ、遼太郎はギクリとした。
そこからどんな矢が放たれるか、桜子が口を開く前に遼太郎にはわかった。
「お兄ちゃん、あたしの気持ち、受け入れてくれる? お兄ちゃんも、桜子のこと好き……?」
**********
それは、“無理”だ。
今この状況で言えないが、答えは決まっている。桜子の自分への恋心を、驚きつつも気持ち悪く思いはしないが、それとこれとは話が別で、受け入れられるかと言われれば”無理”だった。
桜子のことは“好き”だが、それは妹への“好き”であり、家族としての”好き”でしかない。
(本当に、そうか?)
不意に、自分の内側から声が問い掛け、遼太郎はまたギクリとした。
(何を言ってる……? 俺は……)
桜子が記憶を失くしてからの日々が、遼太郎の脳裏に次々再生される……
遼太郎のことを忘れた桜子に、部屋で“お兄ちゃん”と呼んでいいかと訊かれた時の、真っ赤な顔。泣き疲れて眠ってしまったのを、お姫様抱っこで運んだこともあった。
桜子に“改造”されて、“恋人ごっこ”でデートとか、
(……“ごっこ”、じゃなかったんだな、桜子は)
記憶が戻って、父さんと母さんが法事で出掛けて、二人だけで過ごした三日間。
夏祭りのこと。従姉妹達が遊びに来た時のこと。この前の海のこと。そして、兄妹で持っている同じデザインの指輪。
遼太郎は思い出す。桜子の言葉、笑顔や仕草。日常の何気ない会話や、他愛もない出来事……そのひとつひとつが遼太郎の中でバラバラになって、新しい形を組み上げていく。その中から……
ひらひらと、遼太郎の手のひらに落ちてきた、ひとつのパーツ。
ふざけ掛かる――本当は“本気”の思いで――桜子が、時々“知らない女の子”のようで何度となくドキッとさせられたこと。
その子は、遼太郎を“知らない”で、恋をした“女の子”。
その子は、桜子の中の、遼太郎が”知らない“桜子。
(いつからか……)
その子が気になっていた。仲のいい兄妹の間で、まごまごうろうろしているその子を目で追っていた。
桜子に記憶が戻るその瞬間に、この腕の中で、「消えたくない」と泣き叫んだその子と――……
**********
「大丈夫だ、桜子。記憶が戻って、また俺から離れていってしまうとしても、俺は“この桜子”をちゃんと覚えているよ……」
だから、もしこのまま“消えて”しまうとしても。
腕の中でバラバラになって、消えていく“この桜子”を、俺が最後まで抱き締めているから――……
「えへへ……嬉しいなあ……桜子は幸せ者だなあ……」
**********
約束したんだ。その子は俺の腕の中で、微笑んで、消えたんだ。
けれど記憶の戻った桜子に、ふとその子の面影が、垣間見える時があって。戸惑うような、ホッとしたような、そんな桜子との毎日が心地よくて。
(……垣間見えるはずだよ)
あの子は、お前だったのか――……いや、お前なんだろうけど。
(じゃあ、俺が“気になってた”のは……)
お前だったのか――……いや、お前なんだろうけどさ。
「はぁ~~~……」
うつむいた遼太郎が漏らした長い長いため息に、桜子がビクッとした。
「え……それ、どういう感情……?」
「はあ……自分でもわかんね……」
ぎしっ、椅子をきしませて立ち上がると、桜子が身を固くする。
大きな瞳がうるみ、僅かに開いた唇から吐息が激しい。自分自身を抱き締める桜子は、遼太郎の言葉への期待と不安に、立っているのがやっとのようだ。そのひとつひとつが、
(うわあ、可愛い……)
今の遼太郎の目に、初めて出会う“女の子”を映した。
(……そっか)
あの日の病院、遼太郎を忘れて出会った桜子、自分を知らない桜子を抱き留めた遼太郎。ある意味お互い、「初めまして」だったのかもしれない。
遼太郎が桜子の震える肩に手を置くと、桜子の体がぴくんと跳ねた。遼太郎はそのまま身を屈めると――……
**********
桜子は唇を離れる柔らかな感触に、頭が真っ白になっていた。
(……“42”……っ!)
生命、宇宙、全ての答え。
(これはイケません……いや、逝ってしまいます……)
どっくどっくどっく……え、人間の心臓ってこんなに激しく打っていいものなの? これ、あたし死んじゃわない?
お兄ちゃんの頬っぺにキスしたことも、頬やおでこにキスされたこともある。お兄ちゃんは覚えてないだろうけど(注:覚えている)、口にしたことだって、えーと……はい、実はありますよ///
けど、今のは、ほんの一瞬、軽く重ねただけだったけど、
(これまでのどのキスより……ヤバい……)
桜子、溶けて床に液状化しそう。て言うか、ちょっと粗相しそう。
だって、“今の”は、偶然当たったのでも桜子からしたのでもない、初めてお兄ちゃんの方からしてくれたキスだ。と、いうことは……
「お兄ちゃん……!」
「はぁ~~~……」
「だから、どういう感情なの、それっ?!」
至近距離で見上げる遼太郎は、目を逸らして、深々とため息をつきながら後ろ頭をわしわしと掻いている。
「えっと……その、お兄ちゃんも、あたしのこと……?」
「うん?」
「ちょ、この期に及んでトボけないで」
「んー……まあ、何つうか、そうだなあ……」
遼太郎は歯切れ悪く、しかし、作りきれないポーカーフェイスが赤い。
(て……照れとる、この男)
こんなお兄ちゃん、桜子も初めて見る。
「うん……俺にもお前と同じ気持ちが、何か、あるっぽい……」
遼太郎はわざと素っ気ない口ぶりで、鼻と口の間を指で擦った。
ずっと――……
ずっと、その言葉を、この瞬間を、あたしは夢見て……!
「お兄ちゃんっ!」
声にならない叫びを上げて、遼太郎の胸に――……
飛び込もうとした桜子は、両手を広げたまま、立ちすくんだ。
**********
その時、遼太郎の目に浮かんでいた色が、桜子を押し止めた。
遼太郎の目の色から、考えていることが……何年妹やってると思ってんだ……桜子には手に取るようにわかった……そうだ、そうだよね。
兄と妹で、お互いを好きになる。そこまでは別に……良くはないけど……とりあえず良しとしよう。兄妹で付き合っちゃう? いーじゃん、スゴイじゃん! キスなんかは? もー、好きなだけやっちゃえっ///
けど、その先は……?
例えば、この先ずっとお互いに好きでいられたとして、もちろん結婚することはできない。おとーさんとおかーさんに何て言う? 言える?
それに、お兄ちゃんはあたしのことを好きになってくれても、あたしを“そういう意味”で恋人として扱うことは絶対にない。お兄ちゃんはあたしを“女の子”として好きになっても、それ以上に“妹”として大切に思っているのだから。
ラブストーリーの、最高のラストシーン。恋が実って、両想いになって、幸せなキスをして、めでたしめでたし……そこで幕が降りる。
(そうなんだ……あたし達の恋には、その先がないんだ……)
お兄ちゃんはわかっているんだ。踏み出した最後の一歩、そこが行き止まりであることを。だから、あんな顔で笑っている。
ここが終点、これが結末――……
あたしだって、最初からわかっていたのに……
桜子がそれを見て見ないふりができたのは、この恋が、ただの幸せな幻想だったからだ。いつか、お兄ちゃんの恋人になれたらいいな、お兄ちゃんがあたしのこと好きになってくれたらいいな。
中学生の女の子が夜空に浮かべた、ただの夢物語でしかなかったからだ。
手を伸ばしても届かないと知っていたから、何てことにない出来事に、無邪気に一喜一憂していられたのだ。そして……
お互いの気持ちを口にしてしまった以上、もう元にも戻れなかった。
兄と妹という関係に留まっていたから、ちょっとヘンなくらい仲良過ぎでも、笑っていられたんだ。それで良かったのに。
妹としてで良かった、お兄ちゃんの隣で笑っていられればそれで幸せだったのに……あたしはこの手で、あの居心地のいい場所を壊してしまった……
届かない夢に、不意に手が届いてしまった。夜空に浮かぶお月様は、触れてしまえば冷たく鋭く、桜子の指を切り裂いた。
桜子の表情が凍りついたことに、遼太郎も気づいた。
「桜子……?」
「やっぱり……言っちゃいけなかった……」
ついに叶ったはずの夢は、残酷な現実になった。いつかのお祭りの夜のように、真っ暗な森に、独りで迷子になったような気持ちだった。
いや、独りじゃない。お兄ちゃんの手を引いて……道連れにして。
この世界には、お菓子の家なんてないのに……
桜子は振り返ると、ドアを開いて部屋を飛び出した。
「桜子!」
椅子を倒して、遼太郎が後を追った。
**********
「桜子っ!」
遼太郎に呼ばれ、桜子は階段の手前で振り向いた。
「あたし……やっぱりバカだ……」
涙が止まらなかった。もう二度と止まることはないように思えた。
「今のままで、じゅうぶん幸せだったのに……お兄ちゃんと一緒にいるだけでじゅうぶんだったのに……あたしはバカだから、全部台なしにしちゃった……」
遼太郎が一歩近づくと、桜子は怯えたように後ずさった。
「桜子、落ち着け」
「来ないで、お兄ちゃん」
桜子は両手で顔を覆った。もう、何も見えない。
「ゴメンね、あたしが余計なことを言っちゃったから、お兄ちゃんにまでこんな思いをさせて……お兄ちゃん……大好きなのに……」
「お兄ちゃん……桜子、お兄ちゃんが大好き……」
「ゴメンなさい、遼太郎さん……ホントにゴメンなさい……」
「りょーにぃ……あたし……あたしは……」
桜子の口から、遼太郎の知る何人もの“桜子”の声が震える。遼太郎は妹であり一人の女の子でもある桜子に、ただ湧き起こる思いを言葉にする。
「俺だって、お前のことが好きだから! 桜子……おい、待て!」
次の瞬間、じりじり下がった桜子の足が階段の縁を踏み外した。
真っ暗な世界へと体が倒れ込む感覚に、恐怖と、どこかホッとするような気持ちがあって、桜子は必死に駆け寄る遼太郎に向かって手を差し出した――……




