96.Darn That Dream
ありきたりな物語には、ありきたりな結末が相応しいだろ?
カワイイ妹が、カッコイイお兄ちゃんに恋をして、イチャイチャラブラブな毎日を過ごすなんて夢物語には、さあ?
何にだって終わりがある。どんな物語にも結末はやって来る。この“世界”には魔法なんてないのさ。君だって知ってるだろ、ねえ?
どんなに幸せな夢だって、いつかは覚めるんだ。違うかい?
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その日桜子は、いつものように学校に行って、いつものように帰ってきて、ごはんを食べて、お風呂に入って、いつもと同じようにお兄ちゃんが大好きだった。
いつもと違ったのは、その日が桜子の夢に答えが出る日だったこと……
桜子の恋が、ひとつの結末を迎える日だったってことだ――……
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いつもと同じように、桜子はお風呂上りに遼太郎の部屋をノックした。手にはアイスとスプーンが二つずつ。
お風呂の順番によっては遼太郎の部屋だったり桜子の方だったり、他愛もないおしゃべりをして過ごすのは、だいぶ前から二人の日課になっている。桜子の毎日の何てことのない、幸せな時間だった。
「りょーにぃ、今日はハーゲンダッツがあったー」
「でかした、入れー」
ドーンと突入すると、遼太郎が机から椅子ごと振り返った。桜子はガラステーブルの前にぺたんとお尻を落とす。好きな人でもされど兄妹、お互い無防備なパジャマ姿であることは、桜子は別に気しない。
「お、今日はちょっと贅沢な時間」
「お兄ちゃん、クッキー&クリームと季節限定、どっち?」
「俺は甘過ぎるのはパス。季節限定、何味?」
「えっとねえ……」
そんなことを言いながら、桜子は知っている。結局お兄ちゃんは桜子が食べたい方を譲ってくれるし、どうせ食べさせ合いっこして半分ずつになるんだ。
お兄ちゃんは嫌々なフリをしても、いつだって桜子の言うことを聞いてくれる。だから桜子はお兄ちゃんが大好きなんだ///
今夜は桜子がクッキー&クリームを、遼太郎が限定フレーバーを取った。デスクで食べているお兄ちゃんを、見上げて食うアイスのオツなことよ。
「ねー、りょーにぃ」
「んー?」
「映画館行った時さー、スタバであたしの鼻についたクリーム、指で取って舐めたこと覚えてる?」
「あー……あったっけな、そんなこと」
「その時さー、あたしの胸に溶けたアイスとか垂れたら、お兄ちゃん舐めちゃうんじゃないのとか言ったけど……」
桜子はニッと笑って、襟元を指で引き下げ、鎖骨の辺りまでチラ見せした。
「折角お高いアイスだし、してみるぅ?」
「お前はまたそういうことを……」
遼太郎は肩をすくめたが、ふとアイスを置くと椅子を立つ。
遼太郎は前屈みでテーブルに手をつき、桜子の頬から耳の後ろにすっと片手を沿わせた。
「もし俺がしようって言ったら、どうする?」
「はえっ?!」
自分から仕掛けた桜子だったが、眼鏡の奥から切れ長の目に見つめられると、
「え、えーと、あたしは、その……」
両手の指をモジモジと合わせながら、真っ赤になって目を逸らす。
「お、お兄ちゃんだったら、別に、そんなにイヤじゃない……かも……?」
「OK、今日も桜子の勝ちだ」
遼太郎が椅子に戻って、笑って降参のポーズをした。それを見た桜子の気分は複雑だ。チェッ……冗談だけど、本気で言ってんのにさ、バカ。
桜子はひと匙はむっとくわえた。この頃カウンター食らうことの方が多いな。
ドキドキの照れ隠しに、桜子は立ち上がって遼太郎のデスクを覗き込んだ。
「て言うかさ、りょーにぃ、すっごい勉強してない? 高校生ってもうテストの期間なの?」
「いや、そうじゃないけど」
そう言った遼太郎の机には、参考書や問題集がまあまあ積んである。
「つっても来年は受験生だからな。ま、それなりに」
桜子はスプーン片手に、「ほえー」という顔をした。それを言うなら、あたしだってそーなのだ。今のところ、実感全くないけど。
(まあ、一回“自分史”失くした桜子ちゃんには、世界史くらい余裕でしょ)
自分のことはその程度にしか思わないけど、お兄ちゃんは大学入試かあ。そりゃあ高校受験とはまた重みが違うよなあ。
桜子がそんなふうに感心してると、遼太郎は何か考えている様子でしばらく黙っていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「なあ、桜子」
「お兄ちゃんな、大学は東京の学校を受けようと思ってるんだ」
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桜子はきょとんとして、またひと口アイスを食べたが、そこでようやく遼太郎の言葉が脳に達し、にわかに慌てふためいた。
「えっ、な、何で東京っ? 近くの学校じゃダメなの?」
「うん、まあ、実はお兄ちゃん、これでも将来やりたいことがあってさ。いろいろ調べたら、その学校に入るのが目標への一番の近道なんだよな」
お兄ちゃんの、“やりたいこと”? 何それ、あたし知らない。
そう言えば、この前お兄ちゃん宛てに学校名の入った封書が届いていた。デスクで問題集の下敷きになっている学校案内が、それだと思う。
こんなに一緒にいて、恋心以外は何でも話せて、仲良し兄妹なのに、自分は遼太郎の夢のことなんて聞いたことがない。桜子にとってそれはショックだった。
(あれ? もしかして、あたしお兄ちゃんのこと、全然知らない……?)
記憶を失くしてひと目惚れして、いつも事故って、それでもお兄ちゃんは桜子のことを大切にしてくれて。
記憶が戻って、前よりもずっと好きになって、一緒の時間を過ごして、距離もどんどん縮まって……だけど、桜子は遼太郎と将来とかそういう話をしたことはなかった。
でも、お兄ちゃんがそういうつもりでいるなら、
「あたしも、東京の高校調べないと……」
「何でだよ」
桜子は、またきょとんと首を傾げた。
「え? だって、引っ越したらあたしも東京の学校に通うんだし」
「いや、通わないぞ?」
「落ち着け。東京に行くのは俺だけだ」
ガツンッ……と殴られたような衝撃を、桜子は受けた。
考えてみれば、そりゃそうだ。息子が大学に通うのに、揃って引っ越す家庭がどこにある? 当然、遼太郎が家を出て一人暮らしするのだ。
「ま、それも合格してからつーか、まだ受験も始まってねーんだから、どんだけ気が早いんだよって話だけど……」
遼太郎が笑いながら鼻と口の間を擦ると、
「ダ、ダメだよ!」
桜子が真っ赤な顔で叫んで、遼太郎を驚かせた。
目を丸くした遼太郎に、桜子は大慌てになって言う。
「だって、家族が離れ離れに暮らすなんて、そんなの良くないって」
「うーん、そうは言っても。俺もお前もいつかは家を出るんだしな。それに東京っつっても新幹線なら1時間ってとこだし」
「じゃあ、お兄ちゃん家にいて新幹線で通学しよう」
「無茶言うな」
と言ったが遼太郎、それはそれで面白そうな気もする。
だが苦笑で紛らわせようとした遼太郎を、桜子は口をへの字に睨んでくる。
「第一、おとーさんとおかーさんは知ってるの?」
「ああ。まあ、そういう考えがあるって話した程度だけど……」
その途端――……
「何であたしには言ってくれなかったのっ!」
遼太郎は桜子の手から、握り潰す前にアイスのカップを取ってやり、ガラステーブルに置いた。
「だから、今言ってるじゃないか」
「何でおかーさんとおとーさんの後なの?!」
「そりゃお前、進路の相談とか、普通まず親に話さない?」
桜子はぐっと言葉に詰まる。
それも、考えてみれば当たり前だろう。進学ってのの実際問題は、スポンサーに伺いを立てないことには二進も三進もいかない。
わかるよ、それはわかる……
けれど桜子には、遼太郎がまず考えたのが“桜子の気持ち”でなかったことが、どうしようもなく悔しかった。
わかるよ、わかる。けど、遠くの大学に行くってことは、あたしと離れ離れになるってことなんだよ?
お兄ちゃんにとって、あたしといることは、一番大切なことではないんだね……
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頭の中で、混乱した思いがぐるぐる回っている。けれど桜子は組んだ指を口元に当て、平気なふうを装った。遼太郎の顔は、まともに見れないけど。
「で、でもさ。独り暮らしとか、だらしないお兄ちゃんにできるかなあ? あたしがお世話したげなくちゃ、1週間くらいで死んじゃうんじゃない?」
「金魚か何かか俺は。まー、そこはどうとでもなるだろ」
苦笑する遼太郎に、
「近くの学校じゃダメなの? 勉強なんて、別にやろうと思えばどこでだってできるし、桜子と一緒にいる方がお兄ちゃんだって楽しいでしょ? それにほら、大学生になったら服とか、またあたしが見てあげなきゃだし」
桜子が言いつのったが、遼太郎は笑いながら首を振った。
「さっきも言ったけど、俺にはやりたいことがあって、まずはこの学校を目指すとこから始めようと思ってる。だから……」
そこで冷静でいようとした桜子の頭に、カッと血が昇った。
「あたしといることより、そのやりたいことの方が大事なのかよっ!」
ぎょっとした遼太郎の前で、桜子は“幼い妹”の部分が久しぶりに顔を出したように、顔を赤くして涙ぐんだ。
「ヤだよ、お兄ちゃん……桜子は、お兄ちゃんがいなくなっちゃヤだあ。お兄ちゃんが大好きだから、いなくなったら寂しいよお……」
「いや、お前、だからまだ先の話で……」
「先の話でもヤなの! 桜子はずっとお兄ちゃんと一緒にいたいの!」
「ねえ、お兄ちゃん……ずっと、桜子と一緒にいよ……?」
そう、お兄ちゃんはいつだって、最後には桜子の言うことを聞いてくれる。お兄ちゃんは桜子を悲しませることは絶対にしない。だから、今度だって……
けれど、遼太郎は今度は、桜子の“お願い”に首を縦に振ってくれなかった。
「桜子。俺達はずっと一緒にはいられないよ」
その言葉は、桜子の心の深いところに突き刺さった。
……――知っていた。
それは、心の奥では最初からわかっていたこと。心の奥底に押し込めて、知らないふりをして。
あたしは“妹”で、あなたは“お兄ちゃん”、二人がずっと一緒にはいられないのは、そんなのわかり切っていることなんだ。
それでも、あたしはお兄ちゃんのことが――……
遼太郎はふうと息をついて、膝の上で手を組んだ。その眼鏡が光るのは、遼太郎が兄として妹を説き落そうとする時のお決まりだ。
「桜子、俺達は仲のいい兄妹だよ。たぶん、フツウよりもな」
「俺だって桜子と一緒にいると楽しい。お前が俺のこと好きだって言ってくれるのも嬉しい。俺も桜子が大好きだよ。けどさ……」
(言わないで!)
桜子の心が悲鳴を上げ、両手で耳を塞ぎたくなる。遼太郎はあくまでも優しく、“お兄ちゃん”として“妹”をなだめる。
「ずっと一緒にはいられないだろ? いつか、それぞれ大人になって、別々の道を歩んでいくもんだろう」
「兄妹ってのは、そういうもんなんじゃないか?」
遼太郎の優しい言葉のひとつひとつは、しかし桜子を傷つけた。
これまでどんなケガをしても、ツラいことがあっても、記憶を失くしたことでさえ、今ほど痛くはなかった。
りょーにぃの言うことは、正しい。けど、そんな当たり前の理屈で、どっかから借りてきたような言葉で、あたしの、ずっと大切にしてきた気持ちを語るなっ!
「ヤだよ……」
悔しいっ……悔しい悔しいっ! あたしの“思い”は、そんな正論で片づくようなものじゃないんだ!
桜子は気づく。自分の中で“お兄ちゃんが大好きな妹”を、“遼太郎に恋をする女の子”がぐっと押しのけたことに。
「ヤだ……あたしは、ずっとお兄ちゃんと一緒にいる……」
「桜子、ちょっと落ち着けよ。何で、そんな――……」
「“何で”っ?!」
桜子の足が、叫びながら遼太郎に詰め寄らされた。ヤバい……桜子は、桜子の中の“妹”や旧桜子も、慌てて“女の子”を抱き締め、捕まえようとした。
けれど“女の子”は、“桜子達”の腕をするりとすり抜けた。
「あたしは、お兄ちゃんのことが好きなのっ!」
胸の奥から溢れた言葉を、桜子は止められなかった。その瞬間、桜子の周りで世界が空気を変えたような気がした。
お兄ちゃんが好き。今までも、何度も口にした台詞だった。それはいつも冗談に紛らせて、或いは“妹”として、ホントの気持ちを包み隠しながら、何度も遼太郎に言ったことのある言葉だった。
ホントの本気で、告白したのは初めてだった。
……――桜子がいて、お兄ちゃんがいて、笑って、時々困らせて。
そんな居心地のいい世界が、いつまでも続くと思っていた。ずっと変わることがないと信じていた。その世界は、幸せで心地よいけれど、その先に進むことは許されない場所、だから……なのに……
あたしは“妹”で、あなたは“お兄ちゃん”で、だから――……
けれど、桜子の“女の子”の気持ちが、桜子を振り切って、その世界の一歩外へ踏み出してしまった。守り続けた均衡を、桜子は今、その手で突き崩した。もう、あの優しい場所へ戻ることはできない。
ガラステーブルのアイスクリームは、とっくに溶けてしまっていた。




