95.三つの約束
一人別れ、二人別れ……走って来た足を緩める夕暮れの帰り道。伸びる影がひとつずつ減っても、この二つだけは家まで離れることはない。
「はあ……はあ……あはは、しんどっ///」
「マジ疲れてんのに……」
笑い交わしながら、いつでも最後は兄妹二人。
遼太郎が横目に窺うと、隣を歩く桜子はサナがいた時より明らか一歩近い。
(桜子の“フツウ”、か)
二人になったからいいのか、お外だからまだダメなんじゃねーのか。時々腕の触れ合う、桜子の“いつもの”距離は、
「……確かに近えな」
「んっ? 何がさ?」
見上げた桜子の目は悪戯っぽく、とんっと跳ねては肩をぶつけてくる。
「ご機嫌だな」
僅かずつ道の右側に押しやられつつ遼太郎が言うと、
「えへへ、今日はすっごく楽しかったんだもんっ」
桜子のニッと笑った表情と言い方の幼さに、仕方ないなと遼太郎も笑う。
「そっか、良かったな」
「うん、まさかさぁ」
「お兄ちゃんが、ちょっと素っ気なくしたら、あんなんなっちゃうくらい妹離れできてないとはね」
「くう……」
真顔に戻った遼太郎の腕が、桜子にぐいぐい引かれる。悪い笑顔だ、無邪気さのカケラもねえ。
「ねーねー、桜子のこと好きー? 桜子のこと好きー? ねー、お兄ちゃーん、桜子好きー?」
「っ、ウゼェ……」
「好きって言えよぉ///」
「言わねーよ、バーカ」
桜子が調子と図に乗る。しかし忘れてはならない。桜子が普段通りに振舞えば、遼太郎もまた普段通りに返すのが道理なのだ。
腕を振りほどくと、それでも少しは加減しつつ、桜子のお尻がぱしっとはたかれる、と――……
「……ん?」
「きゃあああっ?!」
桜子が三歩遼太郎から飛び退いて、真っ赤な顔で、両手でスカートの後ろを押えた。遼太郎も、ぽかんとして自分の手を見下ろし、桜子を見る。
その、感触が……妹の尻の感触を覚えてる時点でオカシイのだが、その感触が……
「お前……」
「おお、おおお、お兄ちゃんのエッチ……」
桜子は後ろ向きに更に遼太郎から離れる、と、そう思って見ると “いつも”より心持ち“ふよふよ”しているような……
「もしかして、上も?」
「こ、こっち見ないでぇ……」
桜子が慌てて、胸元できゅうと指を組んだ。
「どういうこと……?」
「その……今日、下に水着着て行ったでしょ……」
「ああ。全て理解した」
このバカ、海からここまでぱんつレスなのかよ。
『“忘れ物”と心残りはもうねーな?』
帰り掛けにケンタローが注意喚起したのも、最初から既に手遅れだったのだ。
呆れた遼太郎が鼻の下を擦ろうとする、と、
「ちょっ、お兄ちゃん! その手で顔とか触らないで!」
「え、えっ?」
剣幕に慌てた遼太郎に、桜子が叫ぶ。
「この薄手のワンピの上から触ったんだよ! もう9割、直じゃん! その手で顔とか触ったら、そんなの間接生ケツだよ!」
「間接生ケツ……」
遼太郎は改めて、己の手を見た。9割、直かあ……
前屈みで胸元とスカートを気にする桜子に、遼太郎は大きなため息をつく。
「それならそうと、もっと早く言ってくれれば」
耳まで真っ赤の桜子、上目遣いに遼太郎を見て、
「な、何とかしてくれた?」
「いや、もっと帰り道が楽しめた」
「このケダモノ……」
真顔で言ってのけた遼太郎を、桜子は涙目で睨む。
「やっぱりお兄ちゃんはドSのお外系ヘンタイだよ」
「今のお前ほどではないけどな」
「うええ……」
そうじゃない、そうじゃないんだけど、この有り様じゃ反論の余地もない。
遼太郎は今度こそ鼻の下を擦り、
「まあ、冗談言ってる場合じゃないな。そこまで薄着の妹を連れ歩くのは、さすがにどうかと思うし。さっさと帰ろう」
「う、うん……」
薄着の概念を更新しつつ、先に立って歩き出した、たぶん桜子を視界から外してくれるように、だ。イジワルは言うけど、やっぱりお兄ちゃん優しい……
「お前が妹じゃなかったら、そのままご町内もう一周行くとこだけどな」
「やっぱりサイテーだよ、お兄ちゃん」
お前が妹じゃなかったら、なんてキュン台詞、こんな不本意な形で……
桜子は歩き出した遼太郎の後を追うが、
(んああ……さっきまでは平気だったのに……)
NOぱんつを認識共有して、今になって恥ずかしさが襲ってきた。遼太郎を意識して、歩き方が不自然になる。
そうか。ぱんつをはいてないのが恥ずかしいんじゃないんだ。ぱんつをはいてなと思うのが恥ずかしいんだ。“我思う、故に我恥ずかしい”、人間とはぱんつをはいたサルだ。
人の尊厳とはたかが1枚の布きれに守られているだけの、危うく儚いものだ。
そんな儚くも“はかない”状態で、お兄ちゃんと一緒にお外を歩いているなんて……何か感情が混乱してきた。
「お兄ちゃん、あたし、理解ってきたかもしれない……」
「いや、理解るな」
そこの歩み寄りはいらない。しかし桜子さんは考える。
(何だか、“恥ずかしい”がだんだん“気持ちい……いや、待てよ?)
そもそも、あたしは本当にぱんつをはいていないのか?
量子力学では事象は観測しない限り確定しない。このスカートの下には“ぱんつをはいている”可能性と“はいていない”可能性が同時に存在するはずだ。
(まさにシュレディンガーのぱんつ……!)
お兄ちゃんはスカートの下を観測したわけではない。観測しない限り、因果律の波動は収束しない……!
「お兄ちゃん、あたしぱんつはいてるかもしんない!」
「え? でも触った感じじゃ……」
収束した。
人を人たらしめるのは恥の感情だ。これを“無恥の恥”と云う。
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やがて我が家の灯りが見え、玄関前で遼太郎と桜子は無事を祝した。
「良かった。何事もなくて」
「この場合の“何事か”は、あたし社会的に死ぬやつだからね」
「その時は俺も一緒に死んでたな」
スカートの下に爆弾を抱えている。今日も事故る、で済む話ではない。
「二度とゴメンだな」
「だね。クセになったら困るし」
「困る……」
しかしこの事故の申し子、また玄関でひょいと踵を上げて、サンダルのスナップを外したりする。スカートの後ろを、ひらっとさせて。
「おい、気をつけろよ?」
「あ、ホッとして油断した」
「頭ぶつけて尻隠さず」
「隠してるよ、辛うじて!」
「お帰りー。楽しかったー?」
おそらくキッチンから、おかーさんの声がした。
「ああ、ただいまー」
「すっごい楽しかったー」
返事を返しつつ、遼太郎は桜子に向かって、
「とりあえずお前は、部屋ではいてこい」
「畏まりっ」
桜子も一刻も早く、このダメな解放感から解放されたい。
桜子が階段を上がり掛けると、またおかーさんの声が掛かった。
「遼君ー、下駄箱の上に郵便来てたわよー」
「へーい」
桜子が目をやると、A4の厚みのある封筒。学校案内のパンフらしい。
「あ……」
「どした?」
封筒を手に取った遼太郎が、桜子の表情がふっと翳ったのに気づいた。
桜子は階段途中から遼太郎を見下ろして、
「うん……海でもちょっと言ってたけど、来年って、お兄ちゃんもあたしも受験生なんだな、って」
「まあ、そうだな」
「来年もまた、一緒に海に行けたらなって思ってたんだけど……へへ、さすがに遊んでる場合じゃないよね」
頭を掻いて少し残念そうに笑った。
遼太郎は手にした封筒に目をやり、それから桜子に笑い返した。
「約束がまた増えたな」
「え?」
「春になったらあの桜を見に行って、花火も見て、それから海、だろ?」
桜子の笑顔が、桜の花びらのように、夜空の花火のように大きくなった。
「一日くらい海行ってもいいように、お互い頑張ろうな」
「……うんっ!」
「桜子、お兄ちゃんだーい好きっ///」
「知ってる」
「けど、さっさとあっち行って欲しい。そこにいると、見える」
言われてみると、遼太郎の目線の高さはいい位置にある。
遼太郎は封筒を払うように振って、
「気にせず上がってくれていいぞ」
「お兄ちゃんはエッチだ……ていうか、風起こすのヤメて」
桜子がスカートの後ろで、お尻を包むようにする。
まあ、本当に見えてもアレなので、遼太郎は振り返ってリビングへ退散する。そこでふと立ち止まり、
「なあ、桜子」
「ん?」
「濡らしてないスク水、あったよな」
「……あ」
忘れてた……それを中に着れば、兄とお外プレイを嗜まんでも……
ともあれ、いい一日だった。部屋に戻った桜子さんはそう思った。
楽しい思い出がいっぱいできたし、お兄ちゃんと昨日よりもっと仲良くなった。お兄ちゃんもあたしのことが好きだって、確かめられた。
しかも……玄関を入った時の匂いからすると、今夜の晩ごはんは唐揚げだ。
(大好物……最高さに隙がない……)
それに、ぱんつもはいた。桜子完全体。
(もはやあたしに弱点はない……)
そして……
大切な約束が、またひとつ増えた。
「来年も、また海に行こうな」
「うん! 絶対だよ、お兄ちゃん!」
その約束は――……
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次の夏、桜子と遼太郎は一緒に海へは行かなかった。
春の桜、夏の花火、そして海。三つの約束が果たされるのは、二人が思ったよりも、少し先のことだったのだ――……




