91.裸足で波を蹴って
さて、全員が水着に着替えたら、もう夏の海への突撃を阻むものはない……と、その前に。
「浮き輪、浮き輪」
それぞれチューブを口に、しばし無言の行。
「りょーにぃ、これ」
「え、それ?」
桜子が四次元トートから引っ張り出し、遼太郎に突きつけたのは、人一人が横になれるサイズのたたまれたフロートマットだ。
「それを、俺が、口で? 足で踏む黄色いヤツは?」
「かさばるから持って来なかった。りょーにぃがいるし」
「鬼か、お前は」
ミチミチとひっ剥がしながら広げると、まあまあの容積だ。
「今日一日分の呼吸、これで使い切るぞ……」
「全集中、全集中」
するとチーがこれもデッカイ浮き輪から口を離して、
「そうだ。アズマが仰向けでチューブくわえて、それを上から踏めば良くね?」
「名案にござるな」
「いっそ、アズマ浮かべて乗れば早くね?」
「悪魔的発想……」
遼太郎は黙々粛々と、
「コォォォオオ……」
「フロートが水弾いて浮きそうだな」
無間地獄へ息を吹き込んでいたが、ふと顔を上げて、
「ところでケンタロー、“現地調達”はいいのか?」
周りを見回すと、同年代のグループが結構いる。中には女の子だけで遊びに来てるらしい子達も、ちらほらと。
ケンタローは一瞬女の子達に視線を取られたものの、
「ああ、今日はいいや」
そう言って、屈んで遼太郎の肩をトンと拳で突いた。
「今日は妹ちゃん達と遊びに来たんだから。そういう約束っしょ、遼ちん」
「……そうか。サンキューな、ケンタロー」
桜子達がこれに「へえ」という顔をしたが、続く言葉が、
「な? 俺みたいなのがちょっといいこと言って、遼ちんがイイ感じで返してくれっと、すっげえイイ奴に見えねえ?」
「あー……言わなきゃいいのに、ケン兄さん……」
たぶん、江坂健太郎はこれで照れ屋なのだ。遼太郎の見る限り、ケンタローが彼女いないのはモテないと言うより、真剣な場面ですぐ“逃げを打つ”ことに概ね起因する。
そんなケンタロー、残念がる中学生組に、
「それに桜子ちゃん達がこんだけ可愛けりゃ、よそに目移りはしねえよ。ほら、アズマッチ。これ見ろよ」
向けたスマホで動画を再生する。
「こ、これは……!」
「これがスク水桜子ちゃんだろー。そんで、これが恥ずかしがってしゃがみ込んでるサナちゃんの……」
「ちょっ?! 撮ってたの?!」
「消せえっ! この馬鹿あっ!」
ケンタローが砂を蹴ってダッシュする、サナの全力疾走が追い掛ける。
それを見送って、桜子は遼太郎とフロートに目を落とした。
「えー? まだ3分の1くらいしか膨らんでないじゃん。だらしないなあ」
「いや、お前。これキツいぞ。つうか代われ」
間接キスになるじゃん、と思いつつ桜子は、
「りょーにぃ。さっき海の家の横、通ったじゃん?」
「うん?」
「空気入れあったよ」
「……てめえ……」
波打ち際の寸前、陸上部の脚にケンタローがとっ捕まった。
チーはと言うと、我関せずと荷物の中から日焼け止めを取り出し、
「アー・ズー・マっ♪」
「またそれを塗れなどと、拙者をからかうおつもりにござるな?」
「バーカ、違えよ」
動揺こそあれ、慣れで幾らか余裕もある東小橋君に、肉食系小動物はニイッと笑って……胸元にツーッとUVローションを垂らした。
「こーして塗ってやろうか、ってんだよ」
「ぬあっ?!」
東小橋君撃沈、まだまだ力関係は歴然。
桜子はペタペタと持参のを腕に塗りつつ、
「りょーにぃも使う?」
「や、俺は別にいいかな」
「男はむしろ焼きに来てるとこあるからなー」
ひと足先に砂浜を満喫したケンタローが戻ってきた。その後から、奪取したスマホを削除操作しつつサナがついて来る。
「けど首筋だけは塗っときな。そこ焼けやすいし、後でめっちゃ疲れるから」
そう言って、サナは桜子から受け取った日焼け止めを手に出し、男三人の首の後ろにベチャベチャとなすりつけた。
「ほら、伸ばす伸ばす」
「これは、かたじけない」
言われるがまま首筋を擦る東小橋君、
「さっすが。やっぱ日焼けと言えばサナちん」
「ホンットいい加減にしろよ、エロ兄」
余計なことしか言わないケンタロー。ちょっと男子が苦手なとこのあるサナが、アホさに却って身構えることを忘れている。
身構えることを忘れると言えば、サナから返された日焼け止めを、桜子はそのまま遼太郎に手渡し、
「りょーにぃ、背中」
「へいへい」
遼太郎が言われるがまま、桜子の素肌の背中にペタペタ……
それを見ていたケンタロー達が、
「ふうん、やっぱ兄妹だとそーゆーのフツーなんだな」
「まあ、御兄妹でござるし、別にそこは」
そう言い合うのに、桜子と遼太郎は表情を変えないまま、僅かに肩を震わせた。
(う……うええ……油断した……)
(完全無意識でやってた……)
(フツーなワケねーだろ、此花兄妹……)
(これこそ動画で撮っときたいヤツだった)
出ました、“距離感ナチュラルにバカ”。桜子と遼太郎、サナとチーはそれぞれの思いを押し殺しつつ、ペタペタ……
「こんな感じ?」
「おっけえ。さんきゅー、りょーにー」
この場とウォータージェルはサラッと感とがベスト。
夏の海の解放感、気が抜けねえ――……
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「つうワケで、行くぞ、テメエらあっ!」
「おおーっ!」
何だかんだを経て、ようやく全員が海へ向かって走る。手に手に浮き輪やビーチボールを持った桜子達を、なぜか既に砂まみれのケンタローが追い抜いて行き、先陣切ってかなり浅いところで飛び込みの水しぶきを上げた。
「……アホだ。逆立ちしとる」
「体張るなあ……」
フロートの前後で掲げて走る遼太郎と東小橋君、
「荷物、置きっぱで大丈夫でござるかな?」
「財布も置いてないしね、貴重品っつっても……」
こういうところ気のつく遼太郎、軍資金としてみんなから千円ずつ集め(ケンタローと自分は二千円で)、防水パックに入れて身に着け、財布はまとめて駅のコインロッカーに突っ込ませてある。
「……女子の着替えの下着くらい?」
「……“ありったけの夢”ではござらぬか」
遼太郎と東小橋君が、肩越しにちらっと後ろを振り返る。こんなところに“ひとつなぎの大秘宝”が……同時に二人、砂に足を取られてつまづいた。
「ひゃあっ、意外と冷たあっ」
「お、見ろ見ろ!」
桜子達は波打ち際で足を止めたが、遼太郎と東小橋君は申し合わせたようにフロートを投げ出し、ケンタローも立ち上がって、50メートルほど先にある浮き台目指して泳ぎ出した。
「ってアズマ、バタフライ?!」
「すげえ、めっちゃ速え!」
「負けるな、お兄ちゃーん!」
その大柄さもあり、ダイナミックな泳ぎを見せた東小橋君が一番に、クロールで追い掛けたタローズがほぼ同時に浮き台を叩いた。
「あー……りょーにぃ負けたあ」
「アズマの意外性の引き出しは中身尽きねえな」
手を振る遼太郎達に、足の着く辺りで桜子達も振り返す。
「ところでさ、アタシらアズマのことデブデブ言ってるけど、ああして見るとあんまりデブって感じでもないな」
「かなー? 確かに服着てる時よりは、太って見えねえな」
「桜子兄とケンタロー兄は、細マッチョだな」
「あの二人と並ぶと、まあ、ポッチャリだなー」
「てかお二人とも、意外としっかり“視”てますな?」
桜子がイヒッと笑って小声で言って、論じ合ってたサナと、さすがにチーも顔を赤くする。
少年達よ、お前が長く女の子の水着を見つめるなら、女の子も等しくお前を見返すのだ――フリードニヒ・ニーチェ。
のっけからフルを出し切った3バカが、息を上げて戻って来た。桜子とサナはヘソの線まで海の上、チーは大きめの浮き輪に仰向けにスッポリはまって迎える。
「お疲れー」
「見事なアホっぷりだったぜー」
「はっはっは、如何でござったかな、拙者の泳ぎは?」
東小橋君がザブザブ波をかき分けながら笑うと……
「トド感が足りねえ」
「泳ぎ上手くて、しぶき全然立ってねーんだよ」
「アズマ君は、もっとザッパンザッパンして欲しいよね」
泳ぎ上手かったのに、評価が芳しくない。そこで東小橋君、
「なるほど……こうでござるかな?」
「きゃあっ! あははは、すごっ、ひゃあっ///」
「ちょっ……ははは、すげえな! うわっ!」
「私逃げられねえ! こっち来んな、アズマ、てめえっ!」
本気を出すと、辺り一面水柱、まさに水遁の術。狙われたチーがとうとう転覆させられる。
「てめー! アズマあーっ!」
これに「それっ」と遼太郎とケンタローが参加し、男女入り混じって、ひとしきり水の掛け合いっこになる。
“リア充爆発しろ”な場面が続いております、しばし舌打ちしながらお待ちください――……
「そう言えば、妹ちゃん達は泳ぎどーなの?」
「あたしは小学生の頃、スイミング行ってましたー」
「走るほどじゃねーけど、まあまあ自身あるぜ」
「私は……泳げなくはないけど、25メートル?」
「…………」
「チカさあ……」
「そんな立派な“浮き”が二つも……」
「あー、はいはい! 言うと思ったよっ」




