“Stand up”Comedyの夜【其の三】
「千夏、ちょうこっち来い」
男に言われ、千夏は涙顔を上げた。
「え……?」
「ええから、こっち来い言うとんねん」
男の有無を言わせぬ口調に、少しビクリとして、千夏はおずおずとテーブルを回って来る。
「座れや」
男はきょどきょどと立ち尽くしている千夏に向かって、ソファの隣をぱんぱんと叩いて言った。
言われるがままに隣に腰を下ろした千夏の左手を取ると、男は、テーブルの下へと引っ張り込んだ。
千夏の顔が、怒るのとも泣くのとも違う理由で、これまでより真っ赤になった。
「ひああああああっ?!」
千夏は慌てふためいてテーブル下から左手を引き戻し、両手合わせてバンザイの姿勢になった。
「な、な、な……何でそんなんなってんねん?!」
頭から湯気が立たんばかりに、目をぐるぐる回している千夏に、
「お前が可愛いからに決まっとるやろ」
「うあっ?!」
男はこともなげにそう言った。
オトナの男の嘘偽りなき“反応”に、千夏は焦り、キョドり、自分の服が濡れてブラが透けているのを意識し、
「ふわあああ……?」
パニックの果てに、ゴンと額をテーブルにぶつけて突っ伏した。
「ま……参りました……」
「おっちゃん、まだまだ千夏には負けへんわ」
男はそう言って、頬に付いたゆで卵を拭い、笑った。
千夏はしばらくそうしていて、やがてころんと顔を横に向け、男を見上げた。
「おっちゃん……ウチにはやっぱり、まだ無理やわ……」
おしぼりで顔を拭き終わった男は、柔らかく笑った。
「そう思う間は、大事にしとったらええ」
「うん……そうする……」
千夏はクスっと笑い返して、
「おっちゃんは、ちょっと残念やろ?」
「アホ言え。俺かて、幼稚園の頃から知っとるような娘、言われたかてさすがによう抱かんわ」
男がそう言うと、千夏は焦り顔で更に赤くなった。
「だ、“抱く”とか言いないな……生々しいわ……」
そう言って口を尖らせた千夏は、男には、ちょっと背伸びしてみたけど変わっていない、昔からよく知っている千夏だった。
「そら、生々しいこっちゃからな。せやから、急がんでええんや。千夏は千夏のペースで、ゆっくり大人になったらええねん」
「……うん」
千夏は頷いて、またころりとテーブルに顔を伏せた。
「おっちゃん……それまで待っててくれるか……?」
「おっちゃんはヒマやからな。何も急ぐことないねん」
それを聞いて、千夏は小さな頃みんなで遊びに行くと、ぱあっと走って行ってしまう姉を父が追い掛け、ぐずぐずしている妹を母が迎えに行き、ふと気づけば一人取り残されたことを思い出す。
悲しくなって前と後ろを見回して、ふと気づくと、目の前に大きな手が差し出されていた。高井田のおっちゃんは千夏と手を繋いで、千夏の歩くペースに合わせて、どこまでもどこまで一緒に歩いてくれたのだ――……
「おっちゃん……ウチ、家に帰るわ……」
そう言うと、男の手が乱暴に千夏の頭を撫でた。それは昔からのおっちゃんの撫で方で、昔のまんま大きくてゴツゴツしたおっちゃんの手だった。
(おっちゃんの手、温かいな……)
嬉しくて、ちょっと悔しくて、千夏はされるがままそっと目を閉じた。
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ファミレスを出ると、深夜を回った町は、いつのまにか雨が上がっていた。澄み切った夜気の中、どこか晴れ晴れした様子でぐっと背伸びをする千夏に、
「ほな、行こか。てっさんらには、おっちゃんが上手いこと言うたるから」
男が声を掛けると、
「うん、おおきに……そや、おっちゃん。ライン交換しようや」
千夏はそう言ってスマホを差し出してきた。
連絡先を交換すると、千夏は嬉しそうにスマホを胸に抱く。
「へへへ……覚悟しとれよ、おっちゃん。毎晩、スタ爆仕掛けたるからな」
そしてちょっと悪戯っぽい顔になって、
「おっちゃん独りで寂しいやろーから、たまにエロい写メも送ったるわ」
さっき真っ赤になったくせに、凝りもせずそういうことを言う。
「楽しみにしとるわ」
男は動じるふうもなく、そう応じて……
「まあ、何か聞いて欲しいことあったら、いつでも掛けてき。何べんも言うようやけど、おっちゃんヒマやさかいな」
千夏はちょっと顔を赤くし、そっぽを向いて、呟くように言った。
「せやから、ウチ、おっちゃんのこと“好き”やねん」
男はあえてその言葉を聞き流したようでいて、
(だからあ、勇気出して言うとんのやぞ……)
千夏がちょっと不満げにしているのも、たぶん男は気づいている。
”好き“にもいろいろとある。
おっちゃんに言った“好き”にでさえ、幾つもの意味が同時に含まれていることを千夏自身もよくわかっている。
ちっちゃい頃に寂しい時に傍にいてくれたおっちゃんを、オトン的に“好き”な部分もある。いつの頃からか、オトナの男としてのおっちゃんを“好き”な部分だってある。
(オトナの男としての……部分……)
そう思って、千夏は思い出し、赤くなった顔を両手で隠した。ウ、ウチのアホ……そーゆー意味やあらへんわ……
「どないした、顔赤うして?」
「な、何でもあらへん……///」
千夏はわざと素っ気なく言ったが、たぶん、おっちゃんには全部お見通しや。はあ……オトナの男は、怖いなあ……
「千夏はアレか、もう夏休みか? ええなあ、学生は休み長うて」
「うん……そうそう、ウチ来週から従兄妹んとこ遊びに行くねん。ちゅうても、また春菜のお守りなんや」
「イトコいうたら齢近いんか……せやったら、行ったら行ったで楽しいやろ」
「まあ、それはそうなんやろうけど」
他愛もないおしゃべりをしながら二人歩く夜の街も、そろそろ時間切れだ。それでも千夏は、精一杯の笑顔を作って、男を振り向いた。
「おっちゃん、またこうやって、時々会うてな」
男は薄く笑って頷いた。
「いつでも言うてこい。お前は……半分我がの娘みたいなもんや」
男がやんわり張った予防線に、千夏は少々不満だったが、ニヤッとして言う。
「我がの娘にあんなんなったらアカンやろ。キンシンソーカンゆうやつやん」
「やっぱりおっちゃん、そろそろ千夏には負けるかもしれへんな」
さすがにこれには男も参って、苦笑しながら頭を掻いた。
そんな男に、自分の胸の中の“好き”を数えながら、千夏は言う。
「覚悟しときや、おっちゃん。今にウチの魅力で、おっちゃん振り向かしたるからな。もうちょっとウチが大っきなったら……」
「おっちゃん、爺さんやがな」
男がそう言うと、千夏は真面目な顔になって、
「ウチが大っきなったら、おっちゃん“大っきならん”ようになる……?」
「アホ抜かせ。俺はまだまだ現役や」
「せやったら安心や。もうちょっとだけ待っといてな、おっちゃん」
まったく、どこまでわかっていて言ってるのか、どこまで本気で言ってるのか。
千夏なりの本気でだ、とは男にもわかっている。
いわゆる“子どもなりに本気”というのは厄介なもので、大人の目にバカバカしく映っても、当人は真剣な思いだ。
ことに千夏の抱えている寂しさを知っている男からすれば、軽々しく扱えはしない。
受け入れても、拒んでも、千夏を傷つけることに変わりはない。
(ホンマ、難儀なこっちゃな……)
男としては、千夏の言う“もうちょっとだけ”ができる限り先であることを祈るより他はなかった。
と、そこで不意に千夏が声を潜めて言った。
「せや。おっちゃん、ちょっと耳貸して」
「何や?」
男が怪訝な顔で身を屈めると……
頬に、柔らかな少女の唇が押し当てられた。
驚いて見ると、千夏は顔を赤くしながら、ニッと笑っている。
「今のウチには、これが精いっぱいや」
そう言うと、千夏は身をひるがえして夜の街へ駆け出した。
(カナンなあ……)
大人になりつつある千夏に、身も心も背伸びをされてしまったら、男などすぐに追い抜かれてしまうかもしれない。男はそう思って、千夏の後姿を見つめる。
妻は男の下から去って行った。子どもの頃から知っている少女は、今はあんなことを言っているが、それもいずれは相応しい相手を見つけ、男の前から姿を消すだろう。“愛”などという柄ではないが、男にとってそれは悲劇でもあり、そして喜劇でもあった。
『俺の人生は悲劇だ……いや、喜劇だ』
少し前に独りで観た映画に、そんな台詞があった。スタンダップ・コメディアンを目指す主人公は、男と同じく、孤独の中で笑いの仮面をつけて生きていた。
だから、たまにはこんな夜があってもいいだろう。“立ち上がって”滑稽な、ドタバタの夜もたまには。
男はフッと笑うと、振り向いて手を振っている少女に向かって歩き出した。




