“Stand up”Comedyの夜【其の二】
千夏がスマホを操作して、男の手に預けると、ライン通話がコールする暇もあらばこそ、すぐに、
『千夏?! あんた、いったいどこにおんねん、こんな雨ん中!』
スマホから耳を近づけなくても聞こえるくらい大きな、中年女性の声が響いた。
その剣幕に千夏は首をすくめたが、男はスマホを手に持ったまま千夏のしばらく母親にしゃべらせておいて、相手の息の切れ間にようやく、
「此花さん? ご無沙汰してます、高井田ですう」
のんびりとした口調でそう名乗った。
スマホの向こうで、相手がぴたりと黙り込んだ。やがて、
『……高井田さん?』
疑わしげな口調で訊き返す千夏の母に、男はやんわりと、
「ご無沙汰してますう。いやね、さっき駅んところで傘も差さんと歩いてる千夏とばったり出くわして。聞いたら親とケンカして飛び出して来た言うやんか?」
男はそう話しながら、不安げな様子の千夏に、片目をつむってみせた。
「ほんでびしょ濡れやし、今、駅前のファミレスに僕が保護してますう。せやからとりあえずは心配せんといてください」
スマホの相手はしばし沈黙し、それから安堵のため息を漏らした。
「はあ……高井田さん、ほんまご迷惑お掛けして。高井田さんと一緒やったらひと安心やわあ。えーと、駅前のガストですか? 今からすぐ迎えに……」
母親の声を漏れ聞いて、顔色を変えて腰を浮かし掛けた千夏に、手で座るように合図して、男はスマホに向かって続けた。
「いや、あのね。千夏なあ、まだちょっと親に会いにくい言うてねやんか。今すぐ帰らしても、あんまええことない思うんよ。せやから、もうちょっとだけここで落ち着かせてから、僕が家まで送ったげるから」
「え、でも、それじゃあ……」
「ええて、ええて。千夏なんか、小さい時分から知ってて、半分我がの娘みたいなもんやわ。任しいて。そんで、今、“てっさん”おる?」
男はほっとした顔の千夏に目で頷き掛け、通話を父親に代わらせた。
『……シンちゃん?』
「おー。てっさん、久しぶりやね」
電話に出た野太いが気の弱げな声に、しばらく会ってない千夏の父親のずんぐりした姿が男には目に見えるようだった。
『はあ、その久しぶりや言うのに、エライすんまへんな、シンちゃん』
「ホンマ、昔からようケンカする親子やで。まあ、嫁はんと別れてもうた俺の言うこっちゃあらへんけどなあ」
男が自虐に走ると、笑っていいものか、相手は曖昧に唸ってお茶を濁した。
男は自分を見つめている千夏から、少し遠ざかるようにソファにもたれ、声のトーンを落として話す。
「また、いつもの感じかいな」
『恥ずかしい話ですわ。娘三人おるとね、どうしても比べてしもうて。言うたらアカンとは思てんねんけど、今日も千夏と上の子比べるような怒り方してしもてや』
スマホの向こうの、千夏の父親の眉がへの字になった顔が目に浮かぶ。
「まあ、三人もおるとそうかもなあ。けど、この子そういうん気にする子やで」
『頭ではわかっとんのやけどね。ほんで、シンちゃん、ええのんか? 迷惑やったらすぐ迎えに行くで?』
男はふっと鼻で笑う。
「僕とてっさんの仲やんか。それに千夏かて、親には言い難いようなことも、他人のおっさんには逆に話しやすかったりして、言うだけ言うたらちょっとは気ぃ済むんとちゃうか。僕、帰っても独りやからヒマやねん」
男がそう言うと、今度は相手もためらいがちに笑った。
「ま、年頃の娘さんやし、あんまり遅うならんようにきちんとお届けするわ」
千夏の父親は「ぬう」と唸るように息を吐いた。
「そう言うてくれるなら、お言葉に甘えますわ。いや、シンちゃんが千夏見つけてくれて、ホンマ助かったわ。おおきにな」
「今度、久しぶりに飲もうや」
「オネーチャンおるとこは堪忍やで。嫁さん怒るよって」
「わはは、ウチとこみたいになるか?」
男は笑って、通話を切ったスマホを千夏に差し出した。受け取った千夏は感謝と、それとは別の複雑な感情を込めた目で、男を見つめていた。
スマホを切り、夜食がテーブルに運ばれて来るまでどちらも口を開くことなく、千夏がハムトマトサンドを少しずつ齧り始めても、男は黙って煙草を吹かしながらその様子を眺めていた。
半分ほど食べたところで、千夏はサンドイッチを皿に戻した。
「おっちゃん、ウチが何でケンカしたか訊けへんの……?」
男はやや長めに煙草の先を焦がしてから、天井へ煙を吹き上げた。
「訊いて欲しいんか?」
千夏はぐっと言葉に詰まり、手を膝に下ろして俯いた。
「千夏が聞いて欲しかったら、おっちゃん何でも聞いたる。言いたなかったら、何も言わんでかまへん」
男がそう言うと……千夏は長い間黙っていたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「ウチが、可愛ないのがアカンんねん……」
その声のひび割れ、唇を噛む表情を、男はずっと昔から知っている。
**********
千夏は、三人姉妹の真ん中だった。
長女の美雪は、今年受験生のはずだ。末っ子の春菜は少し齢が離れて、確か小学校の四年か五年だったかと男は記憶している。
中間子の常として、家族の中での千夏の立ち位置は、ほんの少し不遇だった。
別に両親が千夏を可愛がらなかったことはない。ただ、初めての子どもである姉と、小さな妹に挟まれて、ちょっとだけ自分に注がれる目が少ない。千夏はずっとそんな気持ちを抱えて生きてきた。
おっとりとした長女と、甘え上手な妹の間で、次女は小さな頃から自ずとしっかり者に育った。すると手の掛からない子だと、両親はますます自分のことを見なくなった。
本当はそうじゃないことは千夏も頭ではわかっているつもりだが、それでも心に、いつだって寂しさを隠して笑っている。
男は昔から、千夏のそんな思いに気づいていた。
だから家族付き合いで一緒にいる時、男は時折寂しそうな表情を浮かべる少女が気に掛かり、何とはなしによくかまうようになった。
息子しかいない男にとって、単純に女の子が可愛かったのもある。歳の割に利発な千夏の性格が好ましくもあった。自然、千夏も男によく懐き、
「高井田のおっちゃん」
と呼んで、彼の前ではよく笑った。
「シンちゃんは千夏の扱いが上手いなあ」
とずんぐりした父親はよく呑気そうに言っていたものだ。
少しずつ大きくなると、千夏の男への態度は“懐く”から“慕う”に変わっていき、親には言わない悩みなどを、ぽつり、ぽつりと男に打ち明けるようになった。さっきスマホでも口にしたように、
「かえって他人のおっさんには言いやすい」
のだろうと、男は遊びや飲み食いの輪から少し外れて、黙って千夏の相談に耳を傾けてやっていた。
千夏はそんな時、家族の中でちょっとだけ寂しい思いをしていることも、男にだけはそれとなく打ち明けた。
子どもにとっては“それとなく”でも、男には千夏の言いたいことは全てわかっていた。しかしそれは所詮他人の家の事情で、育児放棄されているならともかく、些細な擦れ違いにまで口を出す筋合いはなかった。
それに、よそ様に意見できるほど、自身の家族と上手く関われていたか。その答えは、夜更けのファミレスの窓に映っている。
だが……久しぶりに会って、すっかり大人に近づいた千夏は今も、そんな寂しさの中にいるらしかった。
「ウチが、可愛ないのがアカンんねん……」
これまでも幾度となく男が、千夏の口から聞いた覚えのある言葉だった。
**********
「そんなことあらへん。千夏は可愛えがな」
そしてこれは、男が幾度となく、千夏にしてきた返事だった。子どもの頃は男がそう言うと、千夏は嬉しそうに笑ったものだった。だが……
「ウソや……」
大人未満になった千夏は、俯いたまま、強い口調でそう言った。
「ウチは、お姉みたいにキレイやないし、春菜ほど可愛いもあらへん。おっちゃんかて、そう思ってるクセに……」
男を責めるように、千夏は声を絞り出した。
姉妹に対して持っている、千夏のコンプレックス。それも、男はよく知っていることだった。
千夏は、可愛らしい少女だ。男がそう思っていることにウソはない。
だが、姉の美雪と妹の春菜と並んでしまうと、千夏には、言うなれば少し華に欠けるところが確かにあった。
千夏の愛らしさは、どちらかと言えば少年的な快活さであり、さばさばした性格も相まって、いかにも女の子女の子している姉と妹のようにはなれないと自分で思い込んでいる節がある。
だからだろう、千夏は姉妹とは逆のところへ自分を持って行こうとして、ますます女の子らしさとは遠ざかってしまう。
此花という苗字なのに華がないとは皮肉だが、千夏の持つ、枝を伸ばす若木のような印象にも男は好ましさを感じていた。
それに久しぶりに会ってみた男の目には、
(あの千夏が、ずいぶん女らしなったもんや)
そう驚かされる気持ちもどこかにあった。
**********
男はそれをそのまま口にしてみたが、千夏の態度は和らぐことなく、むしろキッと睨みつけてくる。
「そんなん、ウソばっかりや。さっきもウチが誘たかて、全然相手にせえへんかったクセに……」
これには男も閉口して、
「いや、お前、JKに誘われて、四十男がへえへえとその気になったらアカンやろ。そらお前が可愛いとかどうとかやあらへん。倫理観の問題っちゅうやつや」
男は穏やかにそう言って、また新しい煙草に火をつける。
「それにな、女の子が軽々しい、そういうこと言うたらアカンで……」
次の瞬間、男の顔にタマゴサンドが飛んできた。
頬に刻みゆで卵が垂れるまま、男は深く煙草を吸いつけた。
「何をすんねんな……」
すると千夏は真っ赤になって、男に向かって叫んだ。
「おっちゃんのアホっ! おっちゃんはウチが、軽々しいこういうこと言う子やと思てんのか! おっちゃん、そんなこともわかれへんのか!」
店内の少ない客や店員の注目が集まるのを感じて、男は少し声を張った。
「何や? 何ぞオモロイことでもあんのんか?」
いくつかの視線が、慌てて男と千夏からよそへと逸らされた。
千夏は両手を握り締めて、涙を擦りながら呻いた。
「そんなワケ、あらへんやん……おっちゃんやから、言うんやん……せやのに、おっちゃん、ヒドいわあ……」
「千夏……」
ああ、見覚えがある。千夏は小さい頃はよう笑て、よう泣いて、あの頃は嫁はんも弘樹もずっと俺の傍におるもんや思てたけど……
「わかってんねん……ウチなんか、いっこも可愛ないし、胸かて全然お姉みたいに大きらならへんし……おっちゃんからしたら、ウチなんか色気もなんもないガキやいうことくらい……」
「けどなあ、おっちゃん……あんな冗談みたいに言うたけどなあ、あんなんでもウチはめっちゃ勇気出して言うたんや。ウチのそんな気持ちまで、子ども扱いして笑うなやあ!」
男は泣きじゃくる千夏を、黙って見つめた。乾き切っていない髪、赤く染まった頬。濡れた服ではっきりわかる体のライン。女らしくないなどということは少しもなかった。
(いつまでも子どもと思ってたけど、せやないんやな)
結局、嫁はんも弘樹もおらんくなって、俺の傍に残っとんのは……
男は、灰皿に煙草を押しつけた。
「千夏、ちょうこっち来い」




