“Stand up”Comedyの夜【其の一】
「自分、千夏ちゃうんか? 何しとんね、傘も差さんと」
「……高井田のおっちゃん……」
時刻は夜の11時をだいぶ回った頃、小雨の降る駅前通りをビニル傘手に歩いていた四十絡みのくたびれたスーツ姿の男は、前から歩いてくる相手にふと目を留め、それが自分の知っている少女だと気づいた。
声を掛けると、少女はいつもように、男のことを苗字に“おっちゃん”を付けて呼んだ。
「おっちゃん、今帰り? 遅うまで仕事しとんねんな」
「いや、おっちゃんのことより。どないしてん、こんな時間に。自分、ナンボ夏や言うたかて、ビチャビチャやんけ。風邪ひいてまうわ」
男が問い掛けるも、千夏と呼ばれた少女はツイと目を逸らして答えない。その見覚えのある表情に、男は深々とため息をついた。
「……親とケンカしたんか?」
少女はダンマリを決め込んでいるが、それこそ明快な答えだった。
「遅いし心配しとるやろ。帰れや」
男はそう言ったが、濡れ髪の千夏は首を振り、小さく呟いた。
「……イヤや」
もういい加減子どもでもない歳のくせに、まるで小学生の頃のまんまのような拗ねた顔をしている。
「せやかて、全身水も滴るええオンナやんけ。風邪ひくて」
男がそう言うと、千夏は不意に嬉しそうな顔を上げた。
「高井田のおっちゃん、ウチのこと心配してくれよん?」
「まあ、そら知らん子やあらへんしな」
「ウチ、“水も滴るええオンナ”?」
「言葉のアヤとおっさんギャグちゅうやつやな」
イヤな予感がして男は釘を刺そうとするが、時既に遅く、
「ほな、おっちゃんの部屋連れてってーや」
千夏は無邪気な邪気に満ちた顔で、男に向けてそう言った。
男は少しギョッとするものの、この千夏の言い出しそうなことは、ある程度は予想していた。さりげなく千夏の頭上に傘を被せてやりながら、男は顔をしかめてみせる。
「アホなこと言いない。連れてけるワケないやろ」
「ええやん。ウチ知ってんで、おっちゃん、弘樹ママと離婚して、今一人で暮らしたはんねやろ? せやったら大丈夫やん。おっちゃんとこで、シャワー浴びさせてえな」
弘樹とは、男の息子の名前だった。だから弘樹ママとは、すなわち男の妻ということになる……まあ、千夏の言う通り“元”が付くのだが。
男は苦笑して、
「せやからアカンのやろがい。おっさんの一人暮らしにJK連れ込んでみい、このご時世、一発で後ろに手が回ってまうわ」
「一発する気なんか?」
「そういう意味ちゃうわ、アホ」
小学生に上がる前から知っている小娘に、そんなことを言われ、男は閉口する。千夏は不満げに口を尖らせて、
「せやったら、駅前のラブホにでも……」
「アカン度が増しとるやないかい」
男はジロリと、千夏のことを睨み、
「お前、もしかしておっちゃんハメて、檻にブチ込もうとしてへんか?」
そう言ったが、
「どっちかゆうたら、おっちゃんがブチ込んでハメる方やないんか?」
千夏にニヤニヤと返されて、脱力する。
あまりに不毛なやり取りに、男はさすがに、千夏の濡れた前髪の張りついた広い額を、手の腹でぺちんと音高く叩いた。
「ええ加減にせえ」
「あいたー」
いわゆる“ツッコミ”、関西では気心の知れた同士のスキンシップのようなものだ。千夏はちょっと赤くなったおでこをさすりながら、
「冗談やんかー。わかってるって」
「高井田のおっちゃんかて、ウチみたいツルペタで可愛ないのん相手に、その気になるワケないわなー」
そう言って笑った千夏の表情に、思うところがあって、男は顔を上げて通りを見回した。
「……帰りたないんか?」
男の問い掛けに、千夏はこくんと頷いた。男はため息をつくと、
「あこにファミレスあるやろ。自分、先行って店入っとけ。おっちゃん、コンビニで拭くもん買うてから追っ掛けるさかい」
少女の手にビニル傘を押しつけた。
「あ……ウチ、もう濡れてるよって」
「ええから早よ行け。おっちゃんも、ちょっと濡れて男前上げてくわ」
薄く笑って、小雨を振る中を足元の水をはね上げて駆けて行く中年男の後ろ姿を、少女は傘の柄を両手でぎゅっと握って見送った。
**********
夜中に近づく時刻のファミレスは、客の入りもまばらで、遅くまで騒がしい中高生の集団などの姿もさすがにもうなかった。
向かいに座り、手渡したタオルで髪を拭いている少女から、
「クーラー効いてるし、服濡れて寒いやろ。コンビニ、着るもんまでは売ってへんかったからな。この時間やと駅前もどっこも開いとらへんし」
男は目を逸らすように横を向いて言った。濡れた服は少女のほっそりした体にぴったりと張り付き、当然下着まで透けている。いかに相手がまだ子どもといっても直視するわけにはいかない。
「ええよ、そんな。おっちゃんに、服までよう買わさん」
「アホ。おっちゃん相手に遠慮せえでええわい」
「せやったら、部屋連れってってくれたら、濡れた服脱げんのに」
「そこは遠慮せえ」
男はそう言って、喫煙席をいいことに“子ども”の前で煙草に火をつけた。
「ま、温かいもんくらいやったら奢ったる。好きなもん頼み」
そう言った男と少女の関係は、男からすると“息子の友達”、少女から見れば“友達のお父さん”、ただそれだけのものだった。
子ども達が小学校に行く前から、いわゆる家族ぐるみに付き合いをしていた何組かの家庭。よく集まって飯を食い、夏には一緒にキャンプをしたこともある。男と千夏はそういうグループの一員同士というわけだ。
子ども達が大きくなるにつれ、そうした付き合いは次第に減っていったが、今でも親達は互いの子どもを見掛ければ声を掛けるし、大人に対してカッコをつけたがる年頃の子ども達の方も、さして嫌がらずに返事をする。
特に千夏は昔から男によく懐いていて、異性で学校も離れた息子とはあまり付き合いもないようだが、男を見掛けると、
「おっちゃん、おっちゃん」
と自分の方から近寄って来る。いわば血の繋がらない親戚、というような関係が続いていた。
(弘樹と同い歳やから、千夏ももう高一か……)
男は紫煙をくゆらせながら、別れて暮らす息子の歳を数えた。
なるほど、自分も齢を取るはずだ。
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軽食を注文し、待つ間にドリンクバーの熱い紅茶を口にして、千夏はようやく人心地ついたようだった。それを待って、
「ほんで……」
男は二本目の煙草を口にくわえる。
「今日はどっちとケンカしたんや。オカンか。オトンか。それとも姉妹ゲンカの方か」
千夏は男から目を逸らし、口を尖らせていたがやがて、
「……全員とや」
そうぽつりと呟いた。
男は「はあ」と深いため息を漏らして、
「さよか。そら、帰りたないんも、まあ、わからんでもあらへん。何ならここでしばらく頭冷やすんに、おっちゃん付き合うたる」
千夏に向かって手のひらを差し出した。
「けど、ご両親、やっぱり心配したはるわ。一本だけ、連絡入れさせえ」
千夏は男の手を見つめてためらっていたが……
「悪いようにはせえへん。おっちゃんに任しとき」
男にそう言われて、やがて観念したようにスマホを取り出した。




