85.台風過ぎ去って
駅の改札を前に桜子と遼太郎は、ボストンを肩に掛けた千夏、リュックを背負った春菜と、今一度別れを惜しんでいた。
「しゃくらこちゃーん、ハル、帰りとうないー」
「あはは、やっぱりウチの子になる?」
がばあっとしがみついてくる春菜を、桜子が笑ってからかうと、
「ならへん!」
春菜はぱっと桜子から身を離し、千夏にひっついた。
「ハルのお姉ちゃんは、ちいねえとおおねえだけや!」
「調子のええ奴っちゃ」
千夏は苦笑し、遼太郎に全開の笑顔を向けた。
「いろいろあったけど、楽しかったわ」
確かに、いろいろあった。
特に遼太郎は二つの、いや三つの台風に振り回されるだけ振り回された三日間だったが、さよならが近づくとそれさえも楽しく思われ、名残惜しい。
「また、時々は会おうな」
遼太郎がそう言うと、
「今度は遼ちゃんらが大阪に来いや。いろいろ面白いとこ案内したるし、こっちは食べるとこも美味しいん多いでー」
「♪大阪にはうーまいモン、いっぱいあるんやでー」
春菜が謎の歌を歌い出すと、春菜がすかさず唱和し、二人で膨らませた頬っぺに指を輪っかにして押しつけ、人差し指で耳たぶを二つ折にする。
「♪たーこー焼きー、ギョーザー……」
「「♪えびふりゃあっ!」」
「名古屋じゃねえか」
揃って両手を上げ、片足を後ろにビシッと身を反らした千夏と春奈に、遼太郎は呆れた。すると千夏が桜子に向かって、
「桜子、豚まん! 551!」
「ぶ、ぶたまん?」
「こうやって、オッパイを……」
「ヤメろっての」
両手でぐっと寄せて上げた千夏の額に、遼太郎のチョップが入った。
「……でけへん」
「しなくていいから」
持ち上げるものが無くて、しょぼんと顔を向ける春菜に、遼太郎は脱力する。本当に、こいつらは最後の最後まで……
そんなことをしているうちに、電車の時間が近づいてきた。
改めて最後の別れの言葉を交わすと、千夏は遼太郎にちょいちょいと手招きをする。
「何だ?」
「もちろん“さよならのチュー”や。イヤやとは言わせへんで」
「あ、ハルもハルもー!」
遼太郎はため息をついて身を屈める。女の子からキスをされるのが、日常のこととは思わないが、何かこの三日で慣れてしまった。千夏はそこへ……
「んっ?!」
「うあ?!」
「わ! ちいねえ、大胆……」
ニヤリと笑うと、遼太郎の唇に唇を押し当てた。
びっくりしたのは、遼太郎以上に桜子だった。
「ちょ! チナちゃん、何して?!」
慌てて桜子が二人に詰め寄ると、千夏はぱっと振り向いて、
「何や、桜子、そない慌てんかて……」
今度は、桜子の唇を奪った。
「んむうー?!」
目を白黒させる桜子にだけ聞こえる声で、千夏が囁く。
「ウチからの置き土産、遼ちゃんの間接チューやでえ」
桜子は思った。千夏の唇分が強過ぎる、と。
「な……何しとん……?」
姉の奇行に正直ドン引きの春菜に、千夏がゆっくり振り返った。
「何や? ハルもして欲しーんか?」
「い、いらんわ! どないしたんや?!」
「遠慮すんなああっ!」
「ぎゃあああああっ!」
バッと駆け出した千夏に、春菜は本気でイヤがって、慌てて改札を抜けた。そのまま二人、駅構内を追い掛け合いしていく。
「……行っちゃったね」
「何考えてんだ、ホント……」
呆れる桜子と遼太郎。と、千夏が立ち止まって振り向いた。
「二人ともまたなー! それと桜子、頑張れなー!」
「遼兄ちゃん、しゃくらこちゃん、また遊ぼなー!」
「あ。ハル、遼兄ちゃんにチューしてない」
「だから、お姉ちゃんがしたる言うてるやろー!」
「いらんちゅうねん! イヤやあああああ――……」
「待たんかい――……」
千夏と春奈は大きく手を振ると、追い掛けっこを再開し……ホームへ上がる階段へ消えていった。
「……帰るか」
「……うん」
西から来た“夏”と“春”は、時に爆弾低気圧を伴いながら、楽しい時間をいっぱい残していった。
(あたしも、チナちゃんに何か渡してあげられたかな?)
♪ピロン、桜子と遼太郎のスマホが、同時に鳴った。
『したった(笑の絵文字)』
『された(泣の絵文字)』
桜子と遼太郎は顔を見合わせ苦笑する。
たぶん千夏と春奈は、これからも何度もケンカをして、その度に仲直りして、きっと家族ってそういうもので……
(それに、チナちゃんの傍には、ちゃんと手を取ってくれる人がいる……)
ちょっと難しい相手かもだけど、頑張れ、チナちゃん。あたしも頑張るよ。
「そう言やあさ、千夏の言ってた『頑張れって』なんのこと?」
「そいやッさあ?!」
何げなく遼太郎に訊かれ、桜子は焦った。
「……女同士の話だから」
「ふうん?」
「その、おっぱい的な……」
「わかった、言わなくていい」
そこの何をどう頑張るのかわからないが、妹の口から聞く話でもなさそうだ。
**********
千夏達を乗せた電車が駅を離れた。
「何やかんやあったけど、楽しかったなあ」
「せやな……最後のんは、ホンマ要らんかったけどな」
千夏がしみじみとそう言ったが、姉から頬っぺたに5回ばかり音高くブチュブチュとされた春菜は、ちょっと不機嫌そうにしている。
ガタンゴトンと並んで座って揺られることしばし、春菜が様子を窺うように春菜の横顔を見た。
「なあ、ちいねえ」
「うん、何や?」
「ちいねえて、遼兄ちゃんのこと好きなん?」
一瞬何のことかわからなかったが、そう言えば桜子にパスするために遼太郎にキスしたんだった。
「いんや。お姉ちゃん、他に好きな人おるし」
春菜は目を丸くする。
「好きでもないのに口にチューしたんか?! Bitchやん!」
「お姉ちゃんに何ちゅうこと言うんや」
まあ、全く好きではない、ということもなくはなくない。頭を撫でてくれたり、手を繋いでくれた時、思わずドキドキして……
(て、あれ? それって“お兄ちゃんの遼ちゃん”にキュンッてしたてことやん?)
桜子の気持ちが、ちょっと理解ってしもたかもしらん……
春菜はひきつった顔の姉を疑わしそうに見ていたが、ふと正面の車窓に目を向けて、ホッとした顔になった。
「そっか。良かったわ。ビッちいねえとライバルならんで」
「へ……? ハル、遼ちゃんのこと好きなん……て、ちょお待て自分。何お姉ちゃんに人聞き悪いニックネーム付けとんねん」
千夏の二段ツッコミにフフンと笑い、
「だってぇ、遼兄ちゃん優しいし? カッコええし? オトナやし? 好きなるに決まってるやーん!」
「おー……」
「それに、イトコ同士てケッコンできるし!」
「おおー……」
妹の隙のない将来設計に面食らいつつ、千夏は思った。ハルが好きなのも、たぶん、“お兄ちゃんの遼ちゃん”なんだと。
あの男、妹モノのハーレムでも作る気か。「妹王に俺はなる!」か。
千夏は無邪気な恋にフンフンしてる春菜に、ニッと笑った。
「ま、頑張りや。強力なライバルがおりそうやけどな」
「え、ええっ?! ライバル?! 誰のこと?!」
慌てる春菜に、まあ、本当のことは言えず、言うつもりもなく、
「あんだけのイケメンや、そらフツーにモテるやろ。中身アレやけど」
「中身アレやから、もしかして小学生の方が好きかもしれへんし!」
「いや……仮にそうやとして、アンタはエエんか、そういう奴で」
千夏は呆れつつ、春菜の胸元をツンと突いた。
「まあ、遼ちゃん狙うんやったら、もうちょいココ、育たんとアカンのちゃう?」
春菜は自分のちっぱいを見下ろし、春菜の顔を見上げた。
「ちゅうか、ちいねえも言うほどないやん」
「自分、次の駅で降りて反対行きの電車に乗り換えぇ」
「やっぱり自分、桜子と遼ちゃんとこの子になり」
「ゴメンて、ちいねえ。冗談やんか……まあ、チチないんはホンマやけど」
「ウチ、アンタみたいな妹いらんわっ!」
ガタンゴトン……相も変わらずやかましく、ケンカばかりで仲良しの姉妹を乗せて、電車は西へ、西へと――……
**********
並んで駅を出ると、日差しの洗礼をガツンと受ける。千夏は去っても、夏は終わらない。暑さもまだ当分続きそうだ。
「それにしても、賑やかだったよね」
「そうだな。二人だけだと、ちょっと寂しくなるかもな」
遼太郎がそう言うと、桜子が上目遣いに顔を覗き込んでくる。
「じゃあ、あたしが“妹”三人分賑やかしてあげるよ。チナちゃんの分騒いで、ハルちゃん分お兄ちゃんに甘えたげる」
「いや、カンベンしてくれ」
遼太郎が割とガチトーンで言った。
「豚まんっ!」
「ヤメなさいって」
千夏師匠から譲り受けた新ネタをカマす桜子の頭に、遼太郎のツッコミの手が伸びた、と思いきや……ポンポン。
「ほえっ?」
「俺の妹は、桜子一人だけでじゅうぶんだよ」
「えっ……ふ、ふええぇ///」
軽く叩くようにキャスケットの上から撫でられた桜子は一瞬ぽかんとして、ぼしゅっと湯気が立つほど赤くなった。それを見た遼太郎は、
「いや、恥ずかしいならやるなよ」
と自分でやったネタで照れたんだと解釈したが、それは違う。
「りょうにい……えーい、どーん!」
「おわっ」
桜子は遼太郎に肩をぶつけると、小走りに逃げていく。
「ホント、りょーにぃはシスコンだな!」
「ったく、三人分やらなくていいっつったろ」
遼太郎は桜子の背中に呆れ笑いを投げる。
桜子は振り向かない。なぜなら、お兄ちゃんに見せられない顔なのだ。
(そっか、あたし……)
この賑やかで楽しい三日間、ちょっぴり寂しかったんだ。千夏と春菜に、“お兄ちゃん”を分けてあげなくちゃならないことが。
桜子の恋心の原点は、妹としてお兄ちゃんが好きな気持ち。だから、
「俺の妹は桜子だけだ」
そんな当たり前の言葉が、こんなにも嬉しい。
「……お兄ちゃんは、桜子のお兄ちゃんなんだぞっ!」
自分の中の”妹“がそう言うのを聞いて、桜子は笑った。今夜はお兄ちゃんを独り占めにしよう。鬱陶しがられてもさ。
そう思いながら、いつしか足取りがスキップに変わってしまっている桜子に、
(うわあ、やっぱ可愛い)
遼太郎が後からゆっくりついていく。
急がず、離れず、兄妹のいつものペースに戻って。




