84.恋とかいうどーしようもない感情
記憶を失くし、遼太郎をひと目で好きになったこと。実の兄と知っても、彼の一挙一動に心がときめいたこと。そして……
実の兄と思い出しても、その思いは消えなかったこと。
桜子が全てを話し終えると、千夏はしばし言葉もなく固まっていた。
「……マジかいや」
やっとそれだけ言えたが、声は吐息に近かった。実の兄が、異性として好き。
親友の二人も桜子の禁断の恋を知った時は衝撃を受けたが、千夏は血縁者である分だけ思いはより複雑だ。
「そんなこと、あるんか……いや、そら遼君は男前やけれども」
「事実あったんですう……」
「あるんかあ……」
両手の指を組んで、胸の前でモジモジさせる桜子に、千夏は嘆息した。
「まあ、誰やワカランくなったら、顔ええし、優しいし、結構スキンシップ激しいし、ドキッとすんのもわかる言うたらわかる……ちょお待って?」
己を納得させようとしていた千夏が、不意に桜子を振り返った。
「自分ら、兄妹にしてはベッタベタベッタベタ、異常に仲ええなあ思てたけど……アレか、もう付き合うてるちゅうことか?」
「つっ、突き合うっ?!」
桜子さん、どえらい誤植してる。
いや、“付き合う”の方でも、桜子は言われただけで真っ赤になる。
「うええ……それは、あたしはりょーにぃのことが好きなんだけど、りょーにぃの方は妹としてしか見てくれてないから……」
これを聞いた千夏が真顔になった。
「それってあの男、純粋にお兄ちゃんとして“あんなん”やってこと? ウチ、むしろそっちの方が怖いねんけど」
桜子にもそこは否定はできなかった。
千夏は桜子の告白をどう受け止めたものか、やがてぽつりと呟いた。
「ウチには……兄妹で好きになるとか、エエんかアカンのかもようわからへん」
「いや、ダメだと思うよ」
その点に関しては、桜子もわかってはいるのだ。千夏は笑う。
「あはは、そらそうやな。けど、ヤメときともよう言わん。好きになったら自分ではどないもでけへん、それだけはウチにもわかるから」
「ウチかて、人のことは言えんもんなあ……」
桜子が問いたげにじっと見つめると、千夏はちょっと困った顔になる。
「つまり、そのぅ……ウチの好きな人ゆうんも、まあ、全く問題のない相手ってワケやないちゅうか……」
「問題?」
桜子がそっと促す。
「うん。その人、ちょっと……いや、かなり年上やねん」
かなり年上、というからには、憧れの先輩ってことでもないのだろう。
「……もしかして学校の先生?」
桜子は思いついてそう言った。憧れの先生……ううん、憧れじゃないの、本気で好きなのっ! 恋愛対象として、ある種の定番かもしれないと、少コミを愛読する桜子は思った。
(先生かあ……『千夏、気持ちは嬉しいけど、俺達は教師と生徒であって……』『そんなん関係あらへん! ウチ、もう子どもちゃうし、好きな人にやったら何でもできるし、何されてもかまわへん!』『千夏……』『先生……っ!』)
……的な? どうも桜子は、発想が少女漫画よりエロ漫画寄りな気がする。
何か鼻息を荒くする桜子を怪訝にしつつ、千夏は迷っていたが、どうとでもなれとばかりに言葉を放り投げた。
「友達の、お父さんやねん」
「おおっとお?」
さすがの桜子も、月までブッ飛ぶこの衝撃。
「それは、また……」
桜子は何だか両手で千夏の左手を取った。
「そ、それっていわゆる、フリンってこと? ダメだよ、チナちゃん。いくらなんでも、それは人の道に外れた……」
「ええい、お前にだけは人の道を説かれたないわっ」
千夏が苦笑交じりにキッツいのをくれ、桜子は轟沈する。
千夏は左手を桜子の拘束から引き抜いて、ため息とともに肩をすくめた。
「おっちゃん……その人な、ちょっと前に奥さんと離婚したはんねん。せやからシツラクエンではないちゅうか、一応、そこんとこは問題はないんやけど」
「そ、そっか。ちょっと安心した……」
そこんとこを別にしても、問題はいろいろあるように思うけど。
千夏は遠く、或いは昔を見るような目をして言った。
「おっちゃんは、ウチが幼稚園の頃から家族でずっと付き合いのあった子のお父さんやねん。小さい頃はよう可愛がってくれたし……って、桜子? そうゆう変な意味ちゃうからな。人の大切な思い出、汚すんヤメてくれへん?」
「あ、あたし、何も言ってない……」
桜子は口ごもったが、この頃発想がゲスい感じ乙女な自覚はある。
千夏は笑い半分で桜子を睨み、続ける。
「そんで、大きなってからも、たまに会うたら話聞いてくれたりして……」
「小さい頃は、普通に“優しいて大好きなおっちゃん”やったわ。けど、大きなってからは、別な意味でも好きになって……」
そこまでしゃべって千夏は、急に赤くなり、
「な、何の話やねんな? やっぱウチ、恋バナちゅう柄やないわ。アカンアカン、めっちゃ恥ずいー」
誤魔化すように早口になったけど、桜子にはよく理解できる。
だって、小さい頃の“好き”、違う意味の“好き”……ずっと傍にいてくれる人への “好き”がいつしか“恋”に変わっていく、それって……
それって、自分と一緒だ。
男の子っぽい少女の、オンナノコな思い。桜子は微笑んで言った。
「その人、カッコイイんだね?」
千夏はちょっと驚いたようだったが、嬉しそうに微笑み返した。
「せやねん。嫁はんに逃げられて、くたびれてて、全然冴えへんオッサンやねんけど、めっちゃ“カッコええ”ねん」
「ねえ、どんな人?」
「そやなあ――……」
「いつもポケットにお菓子をひとつだけ入れてて、ウチがしょんぼりしてたら、黙って差し出してくれる人……かな」
ああ……それは”カッコイイ“なあ。”好き“になるなあ。
桜子はくすぐったいような切ないような気持ちで、木漏れ日のレース模様を見上げた。千夏もしばらく同じようにしていたが、やがて、言った。
「そろそろ戻ろか。たぶんハル、泣いとうやろうし」
桜子が窺うような顔をすると、二ッといつもの笑顔が返ってきた。
「桜子にいろいろ話して、だいぶスッキリしたわ。言わんでええことまでしゃべってもうたような気もするけど……」
「おおきにな、桜子」
別に何もしてないよ、とは言わず、桜子も黙ったまま微笑んだ。
**********
二人が遼太郎達と別れたところへ戻ると、
「桜子!」
「お……おねえぢゃあん!」
心底ホッとした様子の遼太郎、一応は泣き止んでいたらしいのがぶり返した春菜。
そして、自転車のハンドルを支えて立っているお巡りさん。
この思い掛けない三人目に、桜子と千夏は顔を見合わせ、
「……――ぶわはははははははははっ!」
揃って大爆笑した。
桜子は遼太郎を指差して笑い、
「お……お兄ちゃんっ、職質っ……あははっ、こ、声掛け事案、あははは……」
「ふえへへへ……アカン、立ってられへん……ひはは、死ぬ、お腹痛い……」
千夏は膝から崩れて、アスファルトの熱さに慌ててしゃがみ姿勢になる。
憮然としている遼太郎に、桜子と千夏は笑いこけている。
「と言うか、君達、写メはダメだよ、写メは。スマホを下ろしなさい、ヤメなさいと言うのに……これ、公務執行妨害なるよ?」
お巡りさんも困惑しきりで、夏の思い出の一枚をアルバムに追加しようとする少女達に弱り果てた。
いい加減笑いに笑った桜子と千夏が従姉と姉だと名乗ると、お巡りさんも納得して立ち去った。そもそも遼太郎は通報されたのでもなく、グズグズ泣いている春菜といるところへ、お巡りさんが通り掛かっただけなのだ。
むしろ面白画像を激写しようとした桜子と千夏が、去り際に叱られた。
四人になって、千夏は目元の涙を人差し指で拭い、大きく息を吐いた。
「は~あ……ホンマ笑かしよるわ、この男は」
「なあ、何が原因だと思ってんだ?」
遼太郎は千夏をジロリと睨み、まだ笑いの止まらない桜子のお尻を、サンダル履きの足の甲で、ぱしぃんと蹴った。
「ひああっ?!」
「笑い過ぎだ、バカ妹」
「やあん、りょーにぃの蹴り方、ちょっとエッチい///」
「おま……お前、ホント尻叩かれるの好きだよな。性癖か?」
桜子から“実兄ラブ”と、遼太郎の鈍感さを聞いていた千夏は、ヘンタイ兄妹のやり取りはあえて無視した。
と、春菜が遼太郎の背中に隠れるようにしながら、おずおずと千夏を窺う。
「ちいねえ……ハル、桜子ちゃんと遼兄ちゃんが優ししてくれるから、嬉しかっただけで、ちいねえがイヤやとか、全然思てへんねうえええ……」
またグズり出した妹に、千夏はニッと笑顔を作って向けてみせた。
「わかっとうよ。お姉も、ちょっとキツう言い過ぎた」
春菜は姉の言葉を聞き、ぱっと安堵の色を浮かべた。
「ほな、ちいねえもう怒ってへん?」
「あんだけ笑かされたら、さすがに怒りも続かんわ」
千夏が遼太郎をちらっと見て言うと、睨み返される。
「そう言ってもらえると、職質された甲斐もあったわ」
「ようけおおきに。せやけど、ハル。ワガママはほどほどにしいな?」
さすがに春菜も、今ばかりはコクンと素直に頷いた。
そうして両腕で顔の水分を拭うと、妹らしく甘えた声で、
「ほな、ちいねえ。一緒にコンビニにアイス買い行こ?」
桜子と千夏が「あっ」という顔をした。
「……ハルちゃんゴメン」
「ウチら二人、もうアイス食べてきてん」
「何でやねーん!」
泣いたのも反省もどこへやら、春菜が叫んで頬っぺたを膨らませた。
と、桜子が左側から千夏の手を取った。そして遼太郎に、
「ね、お兄ちゃんも」
「ん? ああ、わかった」
「へ……?」
兄妹に両方の手を繋がれ、千夏はぽかんとし、
「あー。ちいねえ、ええなあ」
春菜がうらましそうに言う。
「ハルちゃん、お姉ちゃんにだって、たまには誰かに両手を繋いで欲しい時もあるんだよ」
桜子がにこっと笑うと、春菜はちょっと考えて、頷いた。
「そっか……せやな、両手繋いでもらうん、嬉しいもんな」
「今日はハルがオネーサンになって、ちいねえに“幸せゾーン”譲ったるわ」
片手ならともかく、誰かと両手を繋いだことなんて、千夏は数えるくらいしかなかった。照れ臭くて、思わず赤くした顔をうつむける。
「かなんなあ……ホンマ、自分ら兄妹かなんわ……」
けど、ハルも言った通り、両手つないでもらうん、めっちゃ嬉しい。
「そんな子どもや、ないつもりやってんけどなあ……」
これからは、ほんのちょっぴり、自分の気持ちに正直になってみよかな。千夏は顔を上げて、真っ青な空にそう思った。
空に思い浮かべた人が、いつもにように目元だけで笑っていた。




