83.くれるのは、“二つ”だけ
「二つだけ……?」
桜子は千夏の言っている意味を測りかねて、その横顔をじっと見つめた。千夏は道を隔てた向こうを見るともなく見ながら、言葉を続けた。
「こうな、人がお菓子を二つ持ってるとするやろ?」
千夏は両方の手のひらを上に、丸い物を持っているような仕草をした。
「子どもが二人来て、頂戴言うたら、ハイって渡したげれるやん」
「うん」
「けどな……」
千夏は目に見えない子ども達に、お菓子を差し出して、桜子を見た。
「子どもがもう一人おって、僕にも頂戴言うたら、その人はお菓子の袋からかポケットからか、もひとつ出さんなんやろ?」
「大したことやないかもしれん。けど、それってひとつ手間なんよ」
桜子は、千夏が暗に言っていることがわかった。三人目の子、本当はお菓子が欲しいのに、気を遣って、欲しいと言えない三人目の子。
「二つやねん、さっと差し出したげれるのは」
千夏はことさら明るい声で言った。
「親も、お父とお母の二人やろ? そんで、手もそれぞれに二本や。都合四本やから、子ども三人でも、たいていは一本余裕あんねん」
「けど、時々、何かで足らん時あるやろ? 親が一人ん時とかさ、三人がぱあって走ってってしもて、追っ掛けなアカン時とか」
千夏が二ッと笑う。桜子は、その笑顔が、寂しさを隠す仮面に見える。
「“姉”はな、可愛いねん。ほやあっとした可愛い女の子は、黙ってても向こうから『いらんか?』て、お菓子もらえる」
「“妹”は末っ子気質ちゅうか、遠慮なしに『ちょーだいちょーだい』言える。桜子も昨日今日一緒におって、わかるやろ? けど、ウチは……」
千夏は一瞬言葉に詰まり、桜子はぎくっとしたけど、次に口を開いたのは大阪弁で冗談ばっか言う元気なチナちゃんだった。
「何ちゅうのー? ウチは気配りのできる立派な次女なんや。ポヤーっとした長女と、ワガママな末っ子の間の、縁の下の力持ちっちゅうワケや」
笑いながら、ぐっと左腕に力こぶを出して見せる。
桜子は、その腕に取りすがった。
「桜子……オッパイ当たっとんで? しばらく見ん内に、ちょっとは成長したんとちゃう?」
「チナちゃん……そんな、チナちゃんばっかり我慢しなくても……」
千夏の軽口……空元気の強がりを、桜子はぎゅうと抱き締めた。
「家族は、チナちゃんが我慢してるの、きっとわかってるよ。だからさ、チナちゃんが本当に欲しい時、欲しいって言っても、家族は、いつも我慢してるチナちゃんが本当に欲しいんだって、思ってくれるよ……!」
千夏はぎゅううと押し当てられる、桜子のおっぱいと思いを感じて、一瞬すごく嬉しそうな顔をして、寂しそうな顔をして、それからまた笑った。
「……たぶん、そうなんやろな。お父もお母も、ちゃんとウチを可愛がってくれとうもん。ウチが変に気ぃ回してるだけやって、自分でもわかってんねん……でもな……」
そう言った千夏が、笑顔のまま、ぼろぼろと目に涙を溢れさせた。
「ウチ……ホンマに手え繋いで欲しい時に、もし『面倒臭いなあ』って顔されたら……どうしたらええかわからへん……」
せやから、言われへんねん。せやから、我慢すんねん。言わんかったら、我慢してたら、イヤな顔されんで済むやろう……?
「ウチ……人から嫌われんの、めっちゃ怖いねん……!」
男の子みたいなカッコで、いつもニイッと笑うて、冗談ばっか言うてたら、誰もウチのことを嫌わへんから――……
ガバッと、千夏の頭が悲しい気持ちと涙ごと、抱え込まれた。
驚いて、目を閉じて、微笑んで、千夏は幾らか成長した胸に顔を押しつけ、外から聞こえる号泣の声と、制汗剤の柑橘系の匂いに包まれた。
(……おっちゃん……)
千夏は桜子にハグされながら、ある人のことを思った。その人は、家族にも隠した千夏の寂しさに気づき、大きな手を差し伸べてくれた人だった。
もちろん、こんなふうに抱き締められたことはないけど、だけど……
遠いような近いようなどこかから、
「さっきの“縞々さん”、今度は百合ハグしてるぞ……」
「てえてぇ……」
同年代の男子の、感嘆するような声が聞こえた。
**********
千夏の涙が止まってからも、抱いてくれている胸からの嗚咽は続いていた。
(おおきにな……)
と感謝しながら、泣いてちょっと冷静になった千夏は、こんだけ感情を表に出せれば気持ちええやろなーと、そうも思う。
やがて、桜子も落ち着いたようだ。「ぴゅう」とか「へぐっ」とか、得体の知れない音が幾つかして、千夏の頭部はようやく解放された。
桜子と千夏は、お互い赤くなった鼻を突き合わせて、照れ笑いを交わした。それから不意に桜子が何かを思いついたように立ち上がった。
「チナちゃん、ちょっと待ってて」
「え、桜子……?」
桜子は千夏の返事も待たず、また見事な快速で走り去っていった。
数分後、戻って来た桜子は、コンビニの袋からアイスを差し出した。
「はいっ!」
「あ、うん……え、どゆこと?」
意図がわからず千夏は戸惑ったが、桜子はニコニコとアイスを差し出していて、とりあえず受け取る。
桜子はコンクリ柵の隣に腰を下ろし、コンビニ袋をがさがさしている。腑に落ちないまま、ピノの箱をバリッと開けた千夏の鼻先に……
ピンクのプラスチックフォークに刺さった、雪見大福が突きつけられた。
驚いて見ると、桜子は両方の頬っぺたを膨らまして、
「ヒナひゃん、ふぉれ、ひっこあふぇる。あーん」
「いや、何言うとるかわからんわ」
ツッコんだが、桜子はぐっぐっとフォークを突きつけて、
「ふぁべて。ふぁんぶんあふぇるはら、ふぁべて」
「わからんて。お前は遭難した探検家を助けた、気のいいゴリラか」
タベテ。コレ、タベテ。意味も分からず、食物が押しつけられる。
いや、意味は理解る。
わざわざ、2個入りの雪見大福を買ってきた意味。“二つ”しかないアイスの“ひとつ”を、桜子は千夏にくれたいのだ。
千夏は笑った。
「そらちょっと話がちゃうやろ。アホやなあ……」
けど、嬉しくて。また涙が出そうなくらい、嬉しくて。
千夏は大きく口を開けた。雪見大福が突っ込まれた。
「て、ふめたっ! あはは、アカン、ふぉれ、ムリ……」
「ふめたひ、ふめたい……ダメ、くちからでほう……」
気のいいゴリラが、二頭に増えた。
**********
何とか雪見大福を飲み込んで、桜子と千夏は木漏れ日の下で、ピノも半分こしている。と、千夏が桜子にふと訊いた。
「ところで、桜子?」
「うん?」
「さっき、桜子、自分が好きな人は、絶対に自分のこと好きにはなってくれへん言うてたやん?」
「うえっ?!」
言ったっけ、そんなの……? うろたえた桜子に、千夏はぐいぐいと身を乗り出した。その顔はもうすっかり、いつもの千夏に戻っている。
「それって、どうゆうこと? ぶっちゃけ桜子くらい可愛かったら、誰相手でもワンチャンあるやろ。誰なん、学校の子ぉ?」
「そ、それは……」
桜子が口ごもると、千夏のニヤニヤは広がって、
「それでも無理な相手ちゅうたら……」
「ひょっとして、“遼ちゃん”やったりして?」
ぎくうっ、と桜子が肩を震わせたが、千夏はけらけら笑って、
「だって桜子、ウチが遼ちゃんに頭撫でてもろたらめっちゃヤキモチ焼くし、頬っぺにチューするし、ハグで腰抜かすし。自分ら兄妹アヤシイで? ホンマにデキとんちゃうか?」
「いや、その……」
「まあ、確かに遼ちゃんやったら、“絶対無理な相手”やわなあ。なんぼカッコええちゅうても、実のお兄ちゃんなワケやし……」
千夏は自分の冗談にうんうんと頷き、そこで、桜子が耳まで真っ赤になっているのに気づいた。
「って、ん……?」
千夏はポカンとして、慌てて桜子の肩をぱしぱし叩いた。
「え、いや冗談やで、桜子」
「う、うん、もちろんわかって……おえっ」
「何で吐きそうなってんの?」
そんな桜子の反応に、千夏の顔色がゆっくりと変わっていく。
「え……まさか、ホンマに“遼ちゃん”なん……兄妹の好きやのうて?」
「それは……そのぅ……」
桜子は空中のあちこちに、助けを求めるように視線をさまよわせていたが、やがて……コクンと頷いた。
桜子の首肯は千夏の目には映った。脳は理解を断った。千夏は数秒間そのままフリーズし、勢いよく再起動した。
「ど……どどど、どうゆうこと?!」
「ひいい……」
桜子は“ど”の多さに怯んだが、「ひいい」は千夏の方だ。
さっき生まれて初めて、思いの丈をぶちまけてみた。まさかここでそれに匹敵する感情の激震を食らわされるとは、思いもしない。
混乱する千夏に、桜子は覚悟を決めて、実の兄に対する恋愛感情と、そうなるに至った事情を、グッダグダな話しっぷりで説明し始めた――……




