82.チナちゃんは“可愛く”ない
いつだって、真夏の太陽のようにその子は笑っていた。向日葵のように、伸び伸びと顔を上げていた。その子はその名の通り、夏を思わせる少女だった。
しかし、夏の空は時に激しい夕立に見舞われる。
今の千夏は、晴れ渡っていた夏空が、一転真っ黒な雷雲に覆われるように、内から激しい感情を覗かせていた。
或いは、隠していた素顔を露わにした、のかもしれない。
桜子は戸惑い、自分の千夏への腹立ちをきれいに忘れた。突然走り去った千夏に驚いたのも、心配したのも、その態度にカチンときたのも、すっかりと。こと、忘れるのと事故るのは、桜子の専売特許だ。
「え……可愛くない?」
桜子は、千夏の絞り出した言葉にきょとんとした。可愛くない、と千夏は自分を言ったが、桜子は全然そうは思わない。
確かに、雰囲気は変わらずボーイッシュであるけれど、久しぶりに会った千夏は本当に女の子っぽくなっていた。桜子の目には、黄緑色の太陽みたいな向日葵の大きな蕾が、金色に花開いたように眩しく映っていた。
「そんなことないよ? チナちゃん、ちゃんと可愛いよ?」
桜子はぽかんとした口振りで、そう言った。宥めるのでも、お世辞でもなく、素で言った。
しかし夏の雨は少女の頬にぽろっぽろっと伝う。
「可愛いんはハルや。だから、みんなあの子にばっかり優しいねん。お姉ばっか可愛がられんねん……」
「チナちゃん……?」
「桜子には、ウチの気持ちはわからへんわ!」
千夏は今止めどなく、誰にも言わずにいた思いを、桜子にぶつけた。
「何やねん! 桜子は可愛いて、女の子らしいて、優しいお兄ちゃんもいて! 桜子みたい可愛かったら、欲しいもん何でも手に入るやろ! ウチなんかの気持ちわからんクセに、ええ加減なこと言うなやあっ!」
千夏の叫びが、雷光のように二人の間を切り裂いた。
桜子は、うつむいて黙り込んだ。雷鳴が尾を引くように、沈黙が張り詰めた。やがて、桜子が口を開いた。
「チナちゃんこそ、何も知らないクセに……」
「……何?」
桜子は顔を上げて、千夏をキッと睨んだ。
千夏の抱える感情は、桜子のとはまた別の種類のモノだ。だけど、何でも欲しいモノが手に入る、そう言われるのだけは心外だった。桜子には桜子で、誰にも言えない気持ちが胸の中にあるのだ。
「あたしだって、何でもなんか、手に入らないよ! あたしが本当に好きな人は、絶対にあたしを好きにはなってくれない人なんだから!」
桜子は溢れそうになる気持ちと涙を、ぐっと堪えて、千夏に向かって叫んだ。
「チナこそ、あたしの気持ちなんか知らないのに、勝手なこと言うなあっ!」
「桜子……」
千夏は桜子に勢い負けしたようで、怒りの表情が薄れ、困惑して言った。
「ちょ……桜子、泣くなや……」
「泣いてないでじょー!」
桜子は一生懸命涙を我慢して、千夏に向き合った……つもりだったが、
「あだっしっだっで! うっ、ひぐっ、好ぎなひどっ! うぐうっ!」
実際にはこの有り様で、涙腺決壊してました。
顔を真っ赤にして、口をへの字に曲げた桜子を見て、千夏の怒らせた肩からがくっと力が抜けた。
「自分……泣き方、ハルと一緒やんか」
結局、こんなふうに感情をぶつけ合ったら、より派手に破裂させた方が勝つ。言い換えれば、
「泣いたモン勝ちかい……」
つまり千夏に染みついている“姉”が、桜子の“妹”に属性負けした。
カッとなっても、積もり積もった不満が爆発しても、やっぱり自分には“妹”の手は振り払えない。泣くのを我慢しようとしている桜子|(失敗)に、春菜の顔が重なって、千夏はそう思い知らされた。
「かなんなあ……」
けれど、“妹”は“姉”を必死に追い掛けてきた。千夏はぐいっと涙を擦った桜子の腕の、公園の茂みを突き抜けた時の擦り傷を見つめた。
(アホちゃうか……)
どんだけ必死やねん。
それに、泣き止もうと「うー」ってなってる顔。
「いつまでも泣いとったら、お姉ちゃん、ハルのことキライなるで」
千夏がそう言った時、春菜がするのと同じ顔。
そういうふうに思えたのは、桜子が自分の“妹”ではないからだろう。桜子を通して、春菜が見えて、ちょっと冷静になれたのかもしれない。
「かなんなあ……」
遼ちゃんも大変やなあ。まだしゃっくりの止められない桜子から、遠い空へ目を移す。
湧き立つ入道雲、アホみたいにデッカい雲の塊は、近づいてくることもなく消えることもなく、ただ夏の空を背に千夏を見返していた。
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公園の腰の高さのコンクリ―ト柵に、桜子と千夏が並んで座っている。木陰が日差しを遮り、吹き抜ける風は幾分爽やかである。
「その……ゴメン、チナちゃん……」
「いやあ、ウチも悪かったわー」
例によって失態を晒した桜子は、頬を赤くして首をすくめた。
(追いついたとこまでは、良かったんだけどな)
カッとなるとワケわかんなくなっちゃうのは、記憶喪失を経験したせいだと思うんだけど、いい加減何とかしなくちゃなあ。
桜子はちらっと、千夏の横顔を窺った。
いつもの千夏に、戻ったように見えた。目つきと眉、口元を歪めていた険のようなモノが、落ちたみたいだった。
「ハルとはこうやって、たまにケンカもすんねんけど、桜子と遼ちゃんビックリさせたなあ。悪いことしたわー」
明るくって、裏表がなさそうで、けれどどこか翳りがあるように、桜子は感じた。
そこで桜子は、おずおずと口を開いた。
「その……チナちゃんは久しぶりに会って、すっごくキレイになったよ」
「はあ?」
意を決して言った桜子に、千夏はポカンとした。
「だって、さっき……あたしは、チナちゃんのこと、可愛いと思うよ」
「え……あ、ああ、あれか……///」
『ウチが、可愛いないんが……そんなにアカンのか……』
自分が思わず口走った台詞を思い出し、千夏は赤面しながら笑った。
「あれは、えっと、“見た目”のことやのうてね? いや、別に、自信があるワケやないけど、そこまでブサイクやとも思ってへんちゅうか……」
ゴニョゴニョと口ごもる千夏に、今度は桜子の方がきょとんとする。
千夏はしゃべりながら赤くなっていき、やがて爪先に視線を落とした。
「ウチが言うたんは、何ちゅうたらええんかな……そう、つまり“可愛げ”ちゅうヤツのことやねん」
「可愛げ?」
桜子が聞き返すと、
「そうそう」
千夏は振り向いてニッと笑った。寂しそうな笑顔だと、桜子は思った。
「ウチて女三人でさあ、美雪は昔っからフワーとしてホワーとして、お人形さんみたいやろ。そんで、ハルは“あんなん”やん? せやから、ちょっと甘えたりとか、ワガママ言うたりとか……」
「今回桜子とこ来たんかて、春菜が言い出して、一人で行かされへんちゅうから、ウチがついてくことなってん。あ、別に来たなかったワケやないで?」
千夏はひらひらと手を振って言い足した。
「来たら来たで楽しいし、桜子と遼ちゃんと会えて良かったし」
それから、独り言のように、もうひと言。
「けど、やっぱりそれは、“ハルのしたかったこと”や」
千夏はちょっと言葉を切って、桜子の目を覗き込んだ。
「ちょっと変な言い方するけど、誤解せんとってな?」
「おねえとハルはな、そういう“オンナ”使うんが上手いねん。もちろんヘンな意味やないし、二人がワザとやってるとも思てへん。けど、お父に物買うて欲しい時とか、二人ともめっちゃ上手に甘えよんでー」
千夏がケラケラ笑い、遼太郎やおとーさんに対して身に覚えのある桜子、姿勢を正して汗をかく。千夏は桜子の様子には気づかず、ぽつりと言った。
「ウチは、ようせえへんけど……」
千夏はそう呟き、桜子の表情を見て慌てたように言った。
「あ、いやいや! こんなん言うたけど、ウチは別に家でシンデレラになっとうワケやあらへんよ?」
「おねえとハルとも普通に仲ええし。お父は二人が何かねだったら、ちゃんとウチにも欲しいもんないか訊いてくれるし。お母が作ってくれるオカズのリクエストも、ちゃんと三人ローテーションやし……ハルはたまに順番抜かししようとしよるけど」
そこまで一気に早口で言って、千夏は、ふうとひとつ息をついた。
「ただ……たまにやで? 自分が自分の性格のせいで、ちょっとだけ損してるなあって思うことが、ホンのたまーに、あるだけ」
二人の間に沈黙が下りて、公園で子ども達の遊んでいる声、頭の上から降る蝉しぐれが耳についた。
「よくは、わからないけど」
しばらくしてから、桜子が言った。
「あたしは、二人兄妹だし、下の子だし、だからチナちゃんの気持ちがわかるとは言えないけど……チナちゃん、我慢し過ぎなんじゃないかなあ?」
千夏は桜子を見ずに微笑んだ。実際、その通りなのだと思う。自分は、いつもちょっと先回りして、勝手に一歩引いてるんだと。でも……
千夏は微笑のまま、桜子に僅かに顔を向けた。
「なあ、桜子、知っとう……?」
「人ってなあ、気ぃ良うくれるんて、“二つ”だけなんや」




