81.夏の雨
先頭を春菜がスキップするような足取りで行く。あの帽子を頭に乗せた桜子が懸命にその横に並ぶ。気のない足の運び方で一人やや遅れがちな千夏と、妹組の間を、さりげなく歩調を調整しながら遼太郎が繋いでいる。
気苦労は結局、しかるべき者の肩に乗っかっている。
春菜はご満悦だ。高校生と中学生の従兄妹が思いっきり可愛がってくれる。これぞ我が世の春、ハルの天下、年下万歳である。
千夏だって時々うるさいことを言うけど、何だかんだ言ってハルはちいねえが好きだし、ちいねえもハルが好きに決まってる。ケンカしたってすぐ元通り、仲直りができるんだ……と、今も春菜はそう思っていた。
姉妹という関係を、春菜は信じきっていて、言い換えれば甘えていた。
隣に並んだ桜子は、春菜にぎゅっと手を繋がれた。と、春菜の歩くスピードが緩まって、遼太郎が二人に追いつく。
「遼兄ちゃんも、手え!」
「ん? ああ」
差し出された手を遼太郎が取ると、春菜は年上のお兄ちゃんとお姉ちゃんに両手を繋いでもらった、パーフェクトな“幸せゾーン”の住人となる。
末っ子とは言え、春菜も三人姉妹の娘だ。両親の手を左右で独り占めにした記憶は、あまりない。差し出した両手をいつでも握ってもらえたのは、たぶん、妹達の生まれる前のほんの僅かな期間の、長女の美雪だけの特権だった。
だから、春菜は単純に嬉しかったのだ。
嬉しくて、得意で、春菜は後ろからくる千夏を見ずに言った。
「遼兄ちゃんと桜子ちゃん、めっちゃ優しいから好きやわあ」
楽しそうに笑う妹の声を聞いて、後から来る姉の肩が、僅かに震えた。そうと知らない春菜は……
「遼兄ちゃんと桜子ちゃんが、ホンマのお兄ちゃんとお姉ちゃんやったら良かったのになー」
そう続けた。ただ嬉しさからで、千夏のことをどうこう言ったつもりは全くなかった。
しかしその言葉は、春菜には見えていない姉妹の溝に転がった。
千夏の足が、ピタリと止まった。
「…………ったら、ええやろ」
千夏が立ち止まったことに気づいたのは、様子を気にしていた遼太郎だ。振り返ると、春菜、桜子が引っ張られてつんのめる。
「千夏、どうし……」
「せやったら、遼ちゃんと桜子の妹になったらええやろっ!」
遼太郎の呼び掛けを遮って、そう叫んだのは冗談ばかり並べてニヤッとしている千夏ではなく、“お姉ちゃん”でもなく、目に涙を浮かべた一人の少女だ。
「ちいねえ……?」
春菜も、千夏の“この表情”は久しぶりに見た。本当の本気でケンカをした時の、その時だけは、本当の本気で“春菜のことがキライになった顔”……
「ウチかて、アンタみたいな妹、いらんわっ!」
そう言い捨てると、ぎりっと奥歯を噛み、千夏は身を翻して駆け出した。
反射的に、桜子も春菜の手をほどいて飛び出している。
「桜子!」
背中への声に振り向くと、遼太郎は今にも泣きそうな春菜の前に腰を屈めている。
「千夏を頼む」
「任せて!」
桜子は力強く答え、スポーツサンダルの足音もペタペタペタと軽快に、千夏の後を追い掛けていった。
昔と変わりなければ、千夏は足が速い。インドア派の自分より、現役バスケ部|(ただし休部中)の桜子の方が追いつく可能性があるだろう。
(ちょっと、情けないけど……)
見る見る小さくなる妹の背中から、取り残された春菜に目を戻す。
その顔はさっきまでの上天気が嘘のように、厚い雲に覆われ、
「ちいねえ……何でそんなん言うん……?」
今にもひと雨きそうである。
残った方も、楽じゃあなさそうだ。ふっと苦笑した途端、遼太郎がひどく優しい目になったのは、演技ではなく妹を持つ兄の第二の天分だった。
「さっき、春菜が言った」
遼太郎がゆっくりと口を開くと、春菜が縁に涙の溜まった目でじっと見上げる。
「俺と桜子がお兄ちゃんお姉ちゃんだったらいいってさ、千夏には、自分がお姉ちゃんなのが不満だってふうに聞こえたのかもしれないな」
「…………ふっ」
「“ふっ”?」
「……ふぐううううっ!」
降り出した。
春菜が真っ赤にした頬っぺたに、大粒の涙がダダ流れる。
「うぐううう、ハル、そんなん思でへん~! ちいねえのごどイヤやとかあ、いっこも思てへんのに~! ちいねえ何でそんなん言うんー! うああああん!」
始末に負えない有り様だが、遼太郎は割と余裕があって、
「大丈夫。千夏も今はカッとなってるだけで、ちゃんと話せばわかってくれるさ」
「ほんどお……?」
「ああ。姉妹だからな」
子どもの扱いに妙に手慣れている……実際、“慣れている”のだ。
何しろ記憶のない時の桜子が、泣くと、ちょうどこんな感じだったんだから。
それにしても……今の春菜を見たって、小四にしては幼く感じるのに、
(それと同じように泣く”中二女子“とか)
改めて、記憶のない時の桜子が“普通”の状態ではなかったのだと、実感する。
(まあ、今のあいつがフツウだとも、言えない気はするけど……)
しかしながら――……
感情が極まったらしく、またわあわあと泣き出した春菜を宥めてやりながら、遼太郎は別の事も考えている。
号泣している女児と、傍で立っている男子高校生の、絵面の悪さよ。
これはグズグズしてると通報待ったなし。
(桜子、早く戻って来てくれ……)
珍しく妹頼みの遼太郎は途方に暮れて、桜子と千春の去りし方を見つめた。
**********
その頃桜子は兄の期待を一身に背負い、千夏の後を追っている。
「チナちゃーん! 待ってえ!」
「ほっといて! 追い掛けてこんといてって!」
千夏は相変わらず足が速かったが、桜子だって負けてはいない。千夏の背中は近づきもしないが、引き離されもせず、炎天下の住宅街で二人の少女が汗みずくのチェイスを演じている。
千夏を追走すること何分が過ぎただろう、右手に大きな公園が見えてきた。
(……チャンス!)
子ども頃からよく遊んだ、馴染みの児童公園だ。この辺りのマップも、当然桜子は知り尽くしている。地の利は桜子にあった。
(ここで追いつく!)
桜子は逃げる千夏が、次の角を右に曲がろうとしているのを確かめ、コンクリートの柵の切れ目から公園へ走り込んだ。
公園入ってすぐの複合型の滑り台を迂回して、桜子は敷地をとにかく斜めに突っ切った。砂場でスピードが鈍ったものの、小学生の時より長くなった脚は、たった二歩で走り抜ける。
と、その時――……
桜子の進行方向に、5歳くらいの坊やがとことこと進入した。
(危ない……っ!)
と、頭で思う前に、桜子の右足がだん!と地面を踏んだ。その足を軸に、桜子の体がくるりと回転し、一瞬坊やと背中合わせになって――……
「うおお! ロールターン!」
「やべえ!」
桜子の体は衝突の向こう側へすり抜けた。公園にたむろしていた、中学生か高校生くらいの男子の一団が口々に叫んだ。
女子バスケ部の“鬼主将”こと、ゆっきー先輩は言った。
『いいか、練習は裏切らない。頭で忘れても、お前のやってきたバスケは体に染みついているもんだ』
体に染みついた技術が、意識せず桜子の体を動かした。ボールをドリブルしてない分、むしろ余裕でさえあった。
子どもを回避して、目の前にあった顔の造形が微妙なパンダの石像を、両足を揃えて跳び越える。また男の子達から歓声が上がる。
桜子は我知らず少し微笑んで、スピードを落とさず、ただまっすぐに公園の反対側の柵へと駆けた。
「なあ……今の見たか?」
まるでパルクールのように公園を駆け抜ける桜子を見送りつつ、男子達が信じられないという口ぶりで囁き合う。
「ああ、見た……縞々だった」
「やっぱ縞々だったよなあ!」
まあ、あまり短いスカートで、回ったり跳んだりするものではない。
**********
軽く肩越しに振り返ると、桜子の姿はなかった。千夏はホッとしつつ、なぜか桜子にずっと追い掛けてきて欲しかったような気もして、少し足を緩め、息をつく。
と、次の瞬間。
公園の茂みの間から、アクション映画でガラスをぶち破るシーンよろしく、腕を前でクロスした桜子が飛び出してきた。
「っぎゃああああああああっ?!」
「追いついたあああっ! チナああああっ!」
半分腰を抜かしかけて足を止めた千夏の前で、
「な……何考えとんねん! アホかあっ!」
拳を地面に突き、スーパーヒーロー着地の桜子がギンッと顔を上げた。
「アホはチナちゃんだよっ!」
千夏のツッコみに叫び返した桜子は、見れば腕は茂みを突っ切った時、小枝にひっ掻かれて擦り傷だらけ。
「急に走ってっちゃってさ! 心配するよ!」
着地でスカートが捲れ、左脚は膝の上まで露わ。頭のキャスケットが傾いている。全く形振りかまっていない。
桜子の破天荒っぷりは、まっすぐ自分に向けられている。そのことに一瞬呆けた千夏だったが、我に返り、憤懣の真っ只中にいる自分を思い出す。
「……別に、頼んでへんけど」
素っ気なく言う。キツい言葉をぶつける相手が違うとも、桜子に感じる気持ちが違うとも、頭ではわかっているのに。
千夏の態度に、桜子もカチンときた。自分がそう言われるのはいい。けど、桜子は遼太郎に任されて走ってきた。お兄ちゃんが千夏を心配してるんだ、あたしのお兄ちゃんに向かって、
「……そんな言い方、ないじゃん」
「そんなの、心配するに決まってるでしょ! イトコなんだから! それに、あんなこと言ったら、ハルちゃんだって悲しいよ!」
「ほなウチが悪いんかっ!」
千夏が、ちぎれるような声で叫んだ。桜子は驚いて言葉が続かない、千夏は逆上して言葉を続ける。
「何で……いっつもいっつも……ウチばっかり……」
心の奥に、秘める思いを絞り出すように。
それは、ある意味で恋の“告白”に似ていた。
「ウチが、可愛いないんが……そんなにアカンのか……」
その言葉の意味は、桜子にはよくわからなかった。千夏が激高している理由もわからない。春菜の身勝手さに怒っている、それだけではないようだ。もっと深く、深く千夏の心に根差した何か。
その激しさだけは、桜子にはわかった。
桜子はただただ、いつも勝ち気で飄々と笑っている従姉の、ぐしゃっと歪んだ表情、その頬に伝い始めた涙を見つめていた。




