73.桜咲くこの場所で、また……
遼太郎は出店屋台の並びの切れ目から、裏手に回った。参道の縁沿いに目を走らせると、記憶の通り、下り坂に石段があった。細く、下りだということもあり、あると知っていないとちょっと見つけられない、小さな石段だ。
遼太郎がこの石段を知っているのには理由がある。
あのかくれんぼの日、遼太郎はこの石段の先で桜子を見つけたのだ。
櫻岡神社には本殿と別に、小さな稲荷社があって、参道の途中から分れる下り坂から参ることができる。
この石段は、なぜあるのか謂れは知らないが、稲荷社の裏手に下りることができる。そこは小さな空き地になっていて、遼太郎はあの日、桜子をそこで見つけたことを思い出した。
(まさか、な……)
そうは思った。あの日と同じ神社でいなくなった桜子が、またあの日と同じ場所で見つかると、思ったわけではなかった。
だが――……遼太郎は慎重に石段を下り始めた。
一歩ずつ、祭りの灯りとお囃子が遠ざかっていく。と言っても、それほど段数があるわけでもない。稲荷堂の裏手は、薄明かりに沈んでいる。
そこに、ぽつんと人影が背中を向けていた。
足音に気づいたか、人影が振り返った。
「……お兄ちゃん……?」
「……桜子!」
最後の数段を、遼太郎は飛び降りるようにして下りた。ざっ、と地面に足が着き、遼太郎は少しよろめいた。
その瞬間、目の前の風景が鮮やかに変わった。
目の前に立っていたのは、今の中学生の桜子ではなく、幼いあの日の妹だった。
**********
真夏の、真昼の神社だった。蝉が鳴いていた。
稲荷堂の裏手には大きな桜の古木が一本あり、周りは開け、町並みが見渡せた。淡いピンクのノースリーブを着た小さな桜子は、ちょっと泣きそうな顔で遼太郎を見つめていた。
『どうした?』
「誰も、桜子を見つけてくれないの……」
妹の目から、ぽろぽろと涙が零れ出した。
遼太郎は笑った。笑っているのは、今の自分なのか、過去の自分なのか。
『俺が見つけたよ』
そう言うと、桜子も泣き止んで、
「お兄ちゃん、大好き!」
上の左側の前歯が抜けた口で、にかっと笑った。
「また桜子が見つからなくなっても、きっとお兄ちゃんが見つけてね――……
**********
一瞬の幻が去った。
ぼんやりとしたように佇んでいる桜子は、もう小学生ではなく、薄紅の浴衣に身を包む今の桜子である。
宵の口に見て白昼夢と言えるのかは知らないが、ともかくそれを振り払い、桜子に近づいた。
「お前、何やってんだ、こんなとこで」
「え?」
遼太郎にそう言われ、桜子は不意に我に返ったようだった。
「え、ここどこ?」
「稲荷社の裏んとこだよ」
桜子は呆然と周りを見回し、お堂の裏側と桜の木を見て、ようやく自分がどこにいるのかを理解したようだった。
「あたし、何でこんなとこにいるの?」
「わからないのか?」
驚いた遼太郎以上に、桜子はびっくりした顔をしている。
遼太郎の思いを過ったのは、2か月前のあの事故のことだった。桜子はあの時、記憶を失くすくらい頭を強く打っている。今頃になって、その影響が出たのだろうかと、内心穏やかでなくなる。
桜子はぎゅっと目を閉じて、
「わかんない……気がついたらここに、って言うか、お兄ちゃんが来るまで、何してたか……」
「何だか、昔の夢を見てたような気がする……昔、あたしが迷子になって、今みたいにお兄ちゃんが探しに来てくれた時の夢……」
桜子は薄っすらとした笑みを浮かべて、遼太郎に言った。
「さっきね、お兄ちゃんを見た時、一瞬小学生の頃のお兄ちゃんに見えたんだ」
遼太郎はドキッとした。桜子を見つけた時、遼太郎もそのことを考えていた。
遠い昔の何でもない出来事が、今夜、遼太郎に桜子を見つけさせたというのか。
(けど、確かに……)
あの時振り返ったのは、小学生の幼い桜子だったと、遼太郎には思えた。
桜子も考え込んでいるふうだったが、ふっと顔を上げて遼太郎を見た。
「あれっ? お兄ちゃんは、どうしてここに?」
「うん、千佳ちゃんと早苗ちゃんと会ってさ……」
遼太郎は桜子を見つけるまでのことを、かいつまんで話した。
桜子の顔がさあっと青ざめた。
「ヤ……バ。え、あたし急に消えたの? サナ達心配してるよね?」
「そりゃそうだろ。ついでに俺の友達も心配してる」
「どうしよ……?」
慌てる桜子の肩を、遼太郎はポンと叩いた。
「とにかく、お前が無事見つかったことを知らせよう」
「そ、そうか、そうだね……」
遼太郎が手にしたままのスマホを上げ、桜子も巾着袋の紐を解こうとした、ちょうどその時――……
周囲が、不意にぱっと明るくなった。
数秒の間隔があって、どぉん、腹に響く音が追い掛けてくる。
「……花火……」
「……と、始まっちゃったか」
いつの間にか時刻が8時半を回ったらしく、大輪の花火が立て続けに上がった。遠くから微かに、わあっと歓声が聞こえた。思わず目を奪われた遼太郎と桜子の顔が、夜空に花が咲く度、青に、黄色に染まる。
二人はしばし、言葉もなく次々打ち上がる花火を見ていたが、休みなく大太鼓を打つような音の合間に遼太郎が言った。
「これじゃ通話はムリだな。桜子、千佳ちゃん達にラインしとけ」
「あ、うん。わかった」
ともあれ無事を告げる一報をみんなに飛ばすと、桜子はふっとひと息つき、それからうなだれて言った。
「お兄ちゃん、本当にゴメンね……折角久しぶりにお友達に会ってたのにさ、またあたしのせいで……」
記憶を失くす前は、あんまり考えたことがなかったけど、自分はずっとお兄ちゃんに迷惑掛けてばっかりだと、桜子は思った。
記憶のない間も、戻ってからも……ううん、記憶を失くす前だって、あたしはワガママばっかで、もっと小さい頃は甘えてばっかで、けど、お兄ちゃんはイヤな顔をすることなんてなくて……
じわっと涙が滲みそうになる桜子を、遼太郎はじっと見つめて――……」
「ちゃんと見つけただろ?」
「え……?」
桜子は驚いたように、遼太郎を見返した。
「お前が無事なら、それでいい」
遼太郎はそう言って、ちょっと照れ臭かったのか、乱暴に鼻の下を擦った。
「なあ、桜子――……
**********
手の中でぶるるっと震えたスマホを見て、サナが顔を上げると、チーもオニーサンもオネーサン達も、みんな同じようにスマホを見ていて、同じように安堵の表情を浮かべていた。
「はあ、良かった」
一番厳つく見えるまーちんさんが、大仰に背中を丸めて息をついたのを見て、全員からどっと笑いが起こる。
「ん……りょーちん、今から上がって来ても合流できねーだろーから、下で妹ちゃんと二人で見てるってさ」
「そっか。でも、まあ、これでワタシらも、ホッとして花火見れんね」
「はあ……気ィ抜けて、ちっと腹減ったわ」
「花火の後、お好み焼きでも食おーか」
安心してワイワイ明るい空気の戻ったオニーサン達を横目に、サナがチラッとチーを見た。チーは口の端に苦笑いを浮かべる。
こうなることを望んで、したワケではないのだろうけど……結局、桜子が一番望む形にこの夜は落ち着いてしまったようだった。
**********
……――ここで、二人で花火見てこうか」
遼太郎の言葉に、桜子は言葉も出ず、頷くことしかできなかった。稲荷社裏の空き地は見晴らしが良く、しかも桜子と遼太郎の他には誰もいない。花火はたった二人のためだけに夜空を染めた。
「穴場だな、ここ」
「だね。来年は、みんなでここから……」
桜子がそう言いかけた時、ひと際大きな花火が咲いた。二人が立っている位置からは、ちょうど桜の古木の向こう側に。
「あ……」
真っ赤な花火は、夏の桜の豊かな葉々を刹那、薄紅色に染め上げた。
まるで、満開の桜の花のようだった。
遼太郎と二人、手をつないで舞い散る桜吹雪を見上げている――……そんな光景が桜子の脳裏に浮かんだ。
「お兄ちゃん、ここって……」
「忘れてた? 俺らの”秘密の場所“」
思い出した。あの日、遼太郎は迷子の桜子と、この神社で一番古くて立派な桜の老木のあるこの場所を見つけた。
そして二人はこの場所を“二人だけの秘密の場所”にして、毎年桜の季節に、空を薄紅色に埋め尽くす光景を見に来ていたのだ。二人だけで。
そうしなくなって、何年になるだろう。桜子が横顔を窺うと、遼太郎は花火を眺めたまま微笑んでいた。
「来年からは、みんなでここで花火見る?」
桜子は、そっと遼太郎の手に手を伸ばした。
「ううん……ここは、“秘密”にしとく」
桜子の手が、ぎゅっと握り返された。
「お兄ちゃん、来年桜が咲いたら、二人でここに見に来ようね」
どぉん――……最後の一発が打ち上げられ、夜空を流れ落ちて、誰も知らない二人だけの場所は闇と静寂に包まれた。
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参道に戻ると、人、また人でごった返していた。花火を潮に帰途につく人、遊び足りずに出店を覗く人、それを当て込んでもうひと売り、呼び込みの声がかしましい。祭りは燈火の消える前の、最後の輝きと熱気を放っている。
その中で、遼太郎達は首尾よくみんなと再会することができた。
「ゴメンなさいー!」
平謝りで両手を合わせた桜子が、オニーサン、オネーサン、サナとチーにやいのやいのとイジられている。その後ろで遼太郎は……
記憶喪失の影響は、まだ桜子から完全に消えたのではないのかもしれない……そのことに思いを巡らせつつ、しかし口にすることはなかった。
みんなで最後の締めに、それぞれお好み焼きやたこ焼きの粉物、チョコバナナやらチュロスやら思い思いに堪能し……そして、祭りの夜は終わった。
ぞろぞろ神社を後にして、辻に差し掛かる度に、
「じゃあなー、みんな」
「おー、またたまにはこの面子で集まろうぜー」
一人ずつ、また数人ずつ、集団から抜けていく。
「じゃあね、此花……あのさ、たまにはラインとかしていいかな?」
「おう、もちろん。てか、家まで送ろうか?」
「う、ううん、すぐそこだし、大丈夫。じゃ、またね……」
枚方さんも、ぱたぱたと逃げるように去って行った。
約束をしても、今度会うのはいつなのだろう。おもろうて、やがて悲しき……そんな祭りの後のノスタルジックな感傷が、人が一人抜けると、その場所をすっと占めるように桜子は感じた。
「じゃあねー、桜子―」
「次はプール行こうぜ、プール」
サナとチーとも別れて、道行きはとうとう桜子と遼太郎の二人になった。
カランコロン、カランコロン、桜子のポックリの音だけが聞こえる。帰る家は同じ、二人が別れることはない。
(けど……)
いつか、桜子に背を向けて遼太郎が遠く去っていく……そんな交差点の時に、たどりつく日がくるのかもしれない。
そんなことを考えていた桜子の手が、不意に取られた。
「……りょーにぃ?」
驚いて見た遼太郎の視線は、前を向いたままだったが、
「もう、黙って勝手にどっか行くなよ」
ぼそり、呟いた。
桜子はぎゅうっと胸が絞めつけられる思いがしたが、
「……シスコン」
「バーカ。いちいち探すのが面倒なんだよ、迷子」
憎まれ口に、憎まれ口が返された。
「りょーにぃ。桜が咲いたら、またあの場所に行こうね」
「ああ。行こうな」
来年になったら。春が来たら。
「♪桜咲く、あの場所で、また会いましょう――……」
「ん? それ、何の歌?」
「え、さあ? 何だったっけかな……」
桜子はこの時、それが他愛もない、当然叶う約束だと疑いもしなかった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「また桜子が見つからなくなっても、きっとお兄ちゃんが見つけてね」
「ああ……どこにいたって、見つけるさ」
そんな冗談が、やがて叶えられる約束だとも、思いもしていなかった。




