69.僕の右手と、君の左手に
リビングのソファでテレビを見るともなく見ていた遼太郎は、階段を下りてくる二つの足音に振り返った。
「へえ……」
おかーさんに部屋で着付けてもらった浴衣姿の桜子は、頬を少し染めて、帯の前で組んだ手を、落ち着かなげに動かしている。
「ど、どうかな……?」
「いいんじゃん?」
遼太郎にそう言われ、桜子は一瞬ぱあっと顔を輝かせたが、
「妹の浴衣姿に見惚れてんじゃねーよ!」
すぐに憎まれ口を利きながら、べっと舌を突き出した。
今日は終業式、待ちに待った夏休み、縁日の夜だ。
浴衣はもちろん桜色。薄紫の朝顔の柄に、帯には江戸紫、アップに結った髪にも紫花のコサージュを合わせてある。華やかな色味の浴衣が、統一した紫の差し色で少しだけ大人っぽくまとめられていた。
桜子にはああ言われたが、見慣れない和装と髪型、それに薄っすらとだけど頬にチークを乗せているらしく、印象がいつもとはがらっと違う。
(ふうん、何だか……)
知らない“女の子”みたいだ。遼太郎は、記憶のない時の桜子の振る舞いと表情に、時折感じさせられた不思議な気分を、久しぶりに思い出した。
桜子がニッと笑って、ポーズを取る。
「どーだ、見惚れるくらい桜子ちゃんが可愛いか?」
「ああ、ちょっとエロいな」
「ホント? 桜子、エロい? うなじ見る、うなじ?」
遼太郎が軽口をたたき、桜子が後れ毛を掻き上げつつ、首筋をチラ見せる。近頃の二人の間じゃ、いつもの調子といったところだったが……
「ちょっと、遼君。中学生の妹に何言ってるの」
「あ……いや……」
母の前であることを失念していた。遼太郎を叱りつけたおかーさんは返す刀で、
「桜子も。バカなことやってるんじゃないの」
「ひゃいっ」
桜子もぴしゃりと切りつけた。兄妹揃って首をすくめる。
ちらりと目を合わせ、苦笑いする。
桜子は浴衣の襟抜けを正し、遼太郎は咳払いし、母の手前態度を取り繕った。桜子は遼太郎の隣にちょこんと横座りになり、
「りょーにぃも縁日行くんでしょ? 浴衣着ないの?」
「野郎ばっかで行くからな、気合入れてもしょーがねえ。桜子は早苗ちゃんと千佳ちゃんと?」
「うん、お兄ちゃんは?」
「俺は中学ん時の面子と久しぶりに会う。学校変わると、住んでるとこ一緒なのに案外顔合わさなくてさ。祭りは来る奴も多いから、言ってみりゃプチ同窓会的な?」
遼太郎は楽しそうに笑ったけれど……
桜子は、ちょっと不意を突かれたような思いがした。
桜子が思いの正体を捉える前に、遼太郎が時計を見上げた。
「っと……俺、そろそろ」
「もう行くの? 花火8時半からよ」
時計は5時を少し過ぎた頃。おかーさんがそう言ったが、
「久々の奴らと会うからね。ゆっくり話したいし」
「じゃあ、ちょっと早いけど、あたしもりょーにぃと出ようかな」
遼太郎と桜子がソファから腰を浮かしかける。
するとおかーさんが、テーブルの前で得意げに胸を張った。
「そう……じゃあ、二人に軍資金を贈呈しましょう」
エプロンのポケットから、ポチ袋が二つ現れた。
「お年玉袋?」
「毎年、余るのよねえ」
遼太郎が手渡された袋の両端を押さえ、中を覗いて、母を見上げた。
「……いいの?」
「いいのよ。最近は出店も高くなったからね。お母さんの子どもの頃は、千円あれば結構あれこれ楽しめたんだけど……」
おかーさんがしみじみとすると、桜子が全くの悪意なく言った。
「それって何十年前?」
「没収」
「のおおおっ!」
おかーさんが桜子の手からポチ袋を取り上げ、遠い目をした。
「そりゃあ何十年前なんだけど、改めて言われると納得いかないわー……」
「ゴメンなさい、おかーさん! ゴメンなさい!」
ソファの上で両手を上げて、座ったままぴょこぴょこ跳ねる桜子に、遼太郎が苦笑する。
そして遼太郎がすっと立つと、
「うーん、りょーにぃ、背が高いからやっぱり浴衣似合うと思うんだけどなあ……って、あ、その服……」
遼太郎が二ッと笑って桜子を見返した。
「これだって、悪くないだろ?」
薄いピンクのTシャツに、7分丈のジーンズ。気づいていなかったけど、それは以前“ダサいお兄ちゃんを改造する”ために、桜子が選んだ服だった。
遼太郎はぼうっとした桜子に、べっと舌を出してみせた。
「お兄ちゃんのカッコ良さに見惚れてんじゃねーよ」
「な、何言って?! ったく、りょーにぃは自意識過剰だなあ!」
慌ててツンになる桜子の前を抜けて、遼太郎はすっと手を差し出した。
「さて、参りますか、お姫さん」
桜子は差し出された右手を見て、
「あ……」
また目を見開いたが、やがて自分も右の手で遼太郎の手を取った。
「うむ、苦しゅうない」
立ち上がった桜子は、遼太郎と顔を突き合わせて、
「えへ……えへへへ……」
「ふっ……ふふふ……」
笑い出した子ども達を、おかーさんが怪訝な顔で見ている。
「どうしたのよ、二人とも。気持ち悪いわねえ」
「はは、何でもないさ、母さん」
「そうそ。何でもないよー」
手に手を取った二人の、遼太郎の右の薬指、桜子は外れなくなると困るので少し緩いけど右の小指に、お揃いの指輪がこっそり光っていた。
**********
玄関を出ると、まだまだ明るい夏の夕方。前の通りには祭りに向かうのだろう、同じ方向へ歩く人達に、ちらほら浴衣や甚平姿が混じっている。
遼太郎も歩き出す、と、後ろからカラッ、コロロッ。
「大丈夫か、桜子?」
「うん……あ、おっと」
振り返ると、桜子が慣れない木履下駄に悪戦苦闘している。
桜子は足元を見つめて歩いていたが、遼太郎に困った顔で微笑んだ。
「履き慣れてないから歩きにくくて……お兄ちゃん先行って?」
遼太郎は立ち止まると、桜子が追いついて並ぶのを待って……
「あ……///」
「かまわないから、ゆっくり歩けよ」
すっと桜子の左手を取った。桜子はドキッとしたけど、慌てて周りを見て、
「お、お兄ちゃん、ありがたいけど恥ずかしいよ。人が見てる///」
「そうか? じゃあ、慌てなくていいから、のんびり行こう」
桜子の手を離し、歩調を合わせた。
桜子は、空っぽになった手をきゅうと握った。もったいないと思うけど、ご近所の目もあるし、この先は桜子も遼太郎も、知り合いと会う危険が増す。
記憶がない時は無邪気だった。思い返すと、冷や汗が出そうになる。ただ……
(お兄ちゃんはズルイ……ズルイなあ///)
手の中に残る温もりが嬉しくて、嬉しくて、桜子は頬に指した薄紅が、ほんのり色を濃くしているのを感じている。
お兄ちゃんにバレるかな? 気づかれたくないな、気づかれたいな……
日が翳り、行き先を同じくする人が増えてきた。カラン、コロン、少し調子の出てくる桜子の足音のリズムに、サンダル履きの足音が合わされる。
「♪宵町を、行く人だかりは、嬉しそうだったり、寂しそうだったり」
「ふふっ、桜子は本当歌うの好きだよな」
「♪武士道とはあ、死ぬことと見つけたり、チ」
「待てえ!」
桜子、隙あらば替え歌の方。
桜子は止められた続きを頭の中で歌い、ハッと顔を上げた。
「お兄ちゃん、あたしって、こんなオゲフィンなキャラだっけ?!」
「いや、知らんがな」
と、桜子の木履下駄が軽くつまづいた。
「あ」
「大丈夫か?」
何の拍子か、桜子はその時不意に、さっき遼太郎が中学生の同級生と会う話をした時、胸に過った思いが何だったかに気づいた。
遼太郎は、久しぶりに昔の友達と会うと言った。昔の友達、今では会うこともなくなった友達と、久しぶりに。
来年になると桜子は受験生で、その先には進学がある。当然、今の中学校の友達とは離れ離れになる。
「ずっと友達だよ」
なんて言っても、去る者は日々に疎し。新しい学校で新しい友達ができて、新しい毎日の中で、傍にいない友達の顔の輪郭は、少しずつ薄れていくだろう。
もしかすると、サナとチーとさえ、高校生になったら疎遠になってしまうかもしれない。桜子はまだはっきり志望校を決めてないし、二人に訊いたこともない。それ以前に、三年生になったらクラスが離れることだってあるのだ。
昔の友達と会うと、遼太郎は楽しそうに言った。
それはそうなんだろう。別れがあって、思い出になって、また出会って。けれど今の桜子には、それは少し寂しくて怖い。
まだまだ遠い先のような、もう近い未来のような。夏休みの始まりの日、縁日の喧騒に向かう道で桜子の胸に吹いた風は、幾つか先の、桜が咲く頃の匂いを運んで来た。
どんなに仲が良くても、ずっと一緒にはいられないんだ。
それは友達に限らなくて――……
ぐっと肩が引かれて、遼太郎は並んで歩く桜子の横顔を見た。
「恥ずかしいんじゃなかったのか?」
「ううん。やっぱり平気」
澄ました顔で言う桜子に、遼太郎はフッと笑う。
どんなに仲が良くても、ずっと一緒にはいられないんだから……
沈みかけた夕日に、カラン、コロン、手と手で繋がった影が長く伸びて、遼太郎と桜子の後ろからついて来た。今は、こうしていたかった。




