68.桜並木の思い出
一学期も残すところ数日となった放課後――……
「そう言えばさ、終業式、櫻岡神社の縁日だね」
二人の帰り道、チーがそう言い出した。
「行くっしょ?」
「もちろん」
桜子は考える前に頷いた。
櫻岡は“さくらがおか”と読み、桜子の家からほど近くにある小さな神社だ。毎年小中学校の終業式の日に縁日があり、それに合わせて小ぢんまりとだけど花火大会も催され、賑わう。
桜子達にとって、夏休みの始まりを告げる号砲、最初のイベントだった。
「ホントは、私らとじゃなく、リョータロー兄と二人で行きたいんじゃん?」
「あはは、お祭りは知ってる人にいっぱい会うからなあ」
そりゃもちろん、遼太郎と浴衣デートとか行きたいに決まってるけど、中学校の友達からご近所さんから集う縁日で、あまりにリスキーである。
「けど久しぶりだね、神社行くの」
「そりゃ中学生にもなって、行かないしなー」
小学生の頃は放課後は公園か神社、どっちかに行けば誰かしら友達と会えた。こと櫻岡神社は、“さくら”繋がりで桜子のお気に入りの遊び場だった。
それもチーの言うように、中学生ともなると境内で鬼ごっこでもなく、縁日か初詣でもなければ行く機会もなくなってしまった。
「ねえ、チー」
桜子はふと思いついて、チーを振り向いた。
「久しぶりにさ、ちょっと行ってみない?」
**********
「うっわ、セミうっせ!」
櫻岡神社の石段の前に立って、チーがセミの声に負けない音量で叫んだ。
「夏だよねー」
「一か所に集まり過ぎじゃね、セミ。お互いうるさくないんかな?」
この辺りも昔と比べて、だんだん自然がなくなってきた、とおかーさんは言う。
行き場をなくしたセミ達が、みんな神社に逃げ込んで来ていると思うと、降り注ぐ鳴き声も何だか物悲しく聞こえると桜子は思う。
「田舎のパリピが地域に一軒だけあるイオンモールに集まった、って感じだなー」
「チカの言うこと、絶望的に情緒ないよね」
心なしか、蝉時雨がトーンダウンしたような気がした。
「お、縁日の看板だ」
石段の横に、縁日開催の旨を記した立て看板がある。後数日で夏休みが来る。改めてワクワクと胸が膨らむ。櫻岡神社はこの辺りでは少し小高いところにあって、少し離れた河原から打ち上げる花火がよく見えるのだ。
二人は石段を並んで上がり、境内に足を踏み入れた。
(あっ――……)
その時、満開の桜並木が桜子の目に映った。
記憶とも幻ともつかない情景は、一瞬で過ぎ去った。
「へー、ここは昔のまんまだね」
境内を見回して、チーがそう言う。お祭りでも何でもない櫻岡神社に来るのは、桜子もチーも久しぶりだった。
「小学生の頃は毎日のよーに来てたよね」
「サナと私と桜子で毎日走り回ってたよなー、あっついのに一日中さー」
チーが手を翳して真っ青な空と照りつける日差しを睨み上げた。
「この歳になると、あんな元気もうないわー。お肌も気になるし」
「ババアだ、ババアがいる」
ケラケラ笑った桜子に、チーがにやりとして、ふとこう言った。
「桜子さ、あの時のこと覚えてる?」
**********
小学三年生か、四年生の夏休みだったかもしれない。桜子達は毎日飽きもせず、真っ黒になって自転車を立ち漕ぎする健康優良小学生だった。
まだ男子と女子の別もなくて、一緒になって公園でDSの対戦をしたり、飽きて高鬼したり、セミの抜け殻を意味なくしこたま集めたり、コンビニでアイス買いがてら涼んだり、みんな現代っ子か昭和の子かわからないことをやってた。
小学生にはそのグループだけで、“何かよくわからないブーム”が到来することがままある。当時桜子達の間で流行っていたのが、櫻岡神社でかくれんぼすることだった。
その日も桜子とサナとチーと、総勢7人かそれくらいで神社に来ると、そこには先客がいた。
「お兄ちゃん!」
「おー、桜子」
狛犬のところに座り込んでいる高学年の男子達に近づくと、遼太郎が友達二人と遊戯王カードの決闘の最中だった。
「何で外で遊戯王カードやってんの?」
「うるさいな、あっち行けよ」
……などと妹には言わない遼太郎だった。
「夏休みなのにずっと家ん中にいたら不健康だろ」
「あ、うん……ええ?」
遼太郎はこの頃からやはり“遼太郎”で、桜子は腑に落ちないながら頷いた。と、遼太郎と対戦していた大柄な男の子がニヤニヤとして、
「何だよー。りょーちんー、妹と仲いいなあ」
「うるさいな、んなことねえよ」
……とかも言わないのが遼太郎である。
「そりゃあ、可愛いからな」
「お、おう……」
ムキになってもらわないと、からかいも続かない。この頃まだ眼鏡を掛けていない遼太郎は、妹の存在に照れがない、というか無頓着なモッサリ小学生だった。
モンスターを1体召喚、手札から1枚伏せターンエンドした遼太郎は、長めの前髪の下から桜子を見上げた。
「お前は何してんの?」
「みんなでかくれんぼ!」
自分と高学年を遠巻きにしているサナ達を振り返り、桜子が答える。
「お前、小三にもなってかくれんぼか……」
……とは、さすがに言った。桜子は頬を膨らませて、
「面白んだよ、かくれんぼ。限られたフィールド、隠れる場所なんてもはやお互いに知り尽くしている。逃亡者は探索者の裏の裏をかき、たとえ相手の靴が見えても息をひそめてやり過ごすスリル。甘く見ちゃいけないよ、かくれんぼは高度な頭脳戦なんだよ、お兄ちゃん」
「そうか、すげえな」
「おーい、桜子―!」
向こうの集団から、サナが手を振った。
「あ、今行くー! じゃあ、お兄ちゃん、後でね」
「ああ」
桜子はようやく、短いスカートをひるがえしてサナ達の方へ走っていった。遼太郎達は自分達の目には小さい子に見える連中を目で追う。
「……何か、面白そうに思えてくるな、かくれんぼ」
「後で寄してもらう? 俺のターン、モンスターカード召喚、アタック」
「トラップカードをオープン」
さて、しばらくして決闘の決着がついた頃、サナとチーがおずおずと上級生のところへやって来た。
「桜子兄ちゃん……」
「千佳ちゃん、早苗ちゃん。どうかした?」
時々家に来る妹の友達の顔は、遼太郎も知っている。
「桜子が見つからないの」
小柄なチーが、困った顔をして言った。
「かくれんぼで?」
「ううん。もう終わって、みんなで探してるんだけど……」
桜子が出てこない。俗にそれを“迷子”という。
遼太郎は友達と顔を見合わせ、
「りょーちん、探すん手伝おうか?」
サナとチーを見た。二人とも、ちょっと泣きそうになっている。
「ああ、悪い。頼む」
遼太郎は立ち上がり、ぱんぱんと尻を払った。
「心配ないよ。ここに最強の“鬼”が三匹揃った」
「鬼?」
サナとチーが目をぱちくりするのに、遼太郎が笑い掛ける。
「オニーちゃん達に任せな。あのバカ、さくっと見つけてやるから。さあ行くぞ、酒呑童子、茨城童子!」
「おう!」
「出陣じゃあ!」
友達二人も低い作り声でニヤリと笑って、低学年の期待の眼差しを背に、のっしのっしと石畳の参道を歩き出した。
「ところで、りょーちんは何の鬼なん?」
「モモタロウデモタオセナイオニ♪」
**********
「で、結局リョータロー兄が桜子見つけて来たんだよね」
チーは思い出話と言うか桜子の黒歴史を滔々と語り、
「愛だよねー」
そう締めくくった。桜子は少し頬を赤くして、
「それで、あたしってどこにいたんだっけ?」
「さあ? 自分のことなのに、覚えてないの?」
「覚えてないなあ……迷子になったことは覚えてるんだけど」
「リョータロー兄に訊けばいいんじゃん?」
お兄ちゃんなら覚えてるかな? 桜子は境内を見回した。
数日後、参道の両側は出店が立ち並び、祭り客で溢れる。本来はそっちの方が特別な光景で、櫻岡神社で遊ばなくなってほんの1年くらいなのに、二人はもう長いことこの境内の平生の姿を見ていなかったような気がした。
狛犬のところでカードゲームをしている遼太郎達、かくれんぼをしていたあの頃のチー達の顔、それは今も鮮明に思い出せるのに、あの時自分がどこにいたか、それこそ記憶を失くしたように思い出せなかった。
さあっと風が吹き、葉鳴りの音が静かに渡った。
「この両側の樹ね、今はわからないけど、全部桜なんだ」
緑繁る夏の木々を見上げて、桜子が呟くように言った。桜の木を境内に多く擁すること、それがこの神社の名前の由来だともいう。
「春になると、満開の桜並木がすごくきれいなの。あたし、桜子だからってわけじゃないけど、小さい頃……それを見に来るのが好きで……」
「何回もお兄ちゃんにおねだりして、ここまで連れて来て――……」
ああ……そうだ……
神社を訪れた時の、あの心象は、小さい頃にお兄ちゃんと二人で見た――……
言葉の途切れた桜子を、チーはじーっと見つめていたが、
「……えい」
「きゃあんっ?!」
桜子の脇のポイントを正確に突いた。
「桜子ぉ、やっぱあの頃からリョータロー兄、ラブだったんじゃないのー?」
「ち、違うよ! それは記憶を失くしてからで、あの頃は純粋な……」
慌てふためく桜子を、チーはニヤニヤとして見ている。
二人は緑の桜並木道を歩いて、お賽銭箱に小銭を投げ込み、鈴を鳴らした。
「願い事、当ててやろーか?」
「う、うるさいなあ///」
拝殿の前できゃあきゃあ騒ぐ二人に、きっと神様も苦笑している。
鳥居のところに立つと、夕日が眼下の町並みを染めていた。桜子は後ろを振り返って、緑の桜並木を眺める。
「また、桜の花を見に来たいな……」
お兄ちゃんと一緒に、という言葉は胸の中で呟いた。
チーが呆れたように、
「来年の春かよ。その前に夏祭りでしょーが。浴衣着るでしょ?」
「そのつもり。サナにも言っとかなきゃね」
「サナ、私達が言わなきゃTシャツで来そうだもんな」
桜子とチーが顔を見合わせ、プッと吹き出す。
夕方になって、暑さも蝉の声も幾分和らいだようだった。二人の笑い声を、夏の夕日がオレンジ色に照らしていた。




