67.夏の足音が聞こえる、その前に
夏がやって来る。
桜子が記憶を失くしたあの事故から2か月、記憶が戻ってから1か月が過ぎた。言い換えれば遼太郎に恋をしてから、それだけの時間が流れたことになる。
実の兄が相手、という桜子のややこしい恋模様は、進展しているやら足踏みしているやら自分にもよくわからない。けれど季節は当たり前のような顔をして移り変わっていく。
桜の散った季節から、向日葵の咲く季節へと――……
恋はさておき、夏と言えばやっぱり楽しみは夏休み。桜子は中学二年生、来年には受験を控えている。心置きなく遊べるのは、今年が中学校生活最後の夏だ。
(あれもしよう、これもしよう)
チーやサナと遊園地にも海にも行きたいし、もちろんりょーにぃといっぱい一緒に過ごしたい。桜子は終業式の日を、指折り数えて心待ちにしている。
が、そんな幸せな日々の前に、立ちはだかる壁がある。
期末試験である。
元々桜子の成績はそう悪い方じゃない。一年生の時のテストでは、得意科目は90点台あったし、苦手な科目も7割そこそこは取れていた。だが今回は……
(割とやってもた……)
返却されたテストを見て、まあまあ顔がひきつった。得意な数学や暗記科目はともあれ、英語と国語、特に国語は平均点を大きく割り込んでいた。
言い訳になるが、やっぱり記憶を失くした“分断”が痛かった。
記憶喪失とは不思議なもので、桜子は自分自身についての一切と一緒に、中二になってからの学習内容をほとんど忘れてしまった。
それでいて小学校と中一で習ったことは概ね覚えていたから、しっかり身についている知識とそうでないものの差、ということなのだろうか。よくわからん。
テスト前には自身の記憶とともに大方思い出したものの、一か月分の授業にはかなり遅れが出たことは、情状酌量頂きたかった。ただし、それを取り戻す努力は少々怠ったのも否定はできない。
それでも、おかーさんに対しては弁解のカードになるかな、と桜子は思った。そこでダイニングのテーブルに答案用紙を並べつつ、
「おかーさん……あたしまだ、記憶がちゃんと戻ってないかもしれない……」
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「めちゃくちゃ怒られもうた」
「カードの切り方をミスったな」
しょんぼりして部屋に来た桜子に、遼太郎は苦笑した。
「母さん、お前の記憶がない時あんだけ心配してたんだ。戻った時にはぶっ倒れるくらい喜んだんだし。ネタにしたら、そりゃ怒るさ」
「うう……失敗したなあ」
世の中には言っていいことと悪いことがある。桜子は学校の勉強とは別に、そのことを学んだ。
床に直座りの桜子をデスクチェアから見下ろす遼太郎は高二、受験はまだ1年先で、中学生とは違うだろうけど、まあまあ気楽な夏休みを控えている。テストの結果の方にも後顧の憂いがないらしく、うらやましい限りだった。
「りょーにぃは頭いいからなあ」
「お前の方は、国語ヒデえな」
遼太郎は桜子から受け取ったテスト用紙をめくり、顔をしかめた。
桜子は上目遣いに遼太郎を睨み、
「国語って、どうやって勉強したらいいの?」
「一番手っ取り早いのは本読むことだけど」
「本かあ……」
折角答えたのに、桜子はものすごく気のない顔と声になる。
遼太郎は椅子を鳴らして姿勢を変えた。
「そう食わず嫌いするもんじゃないさ。読書は国語の総合トレーニングだからな、楽しみながら全体的に鍛えられると思えば……」
「楽しくないよぉ」
読書と聞くだけで拒否反応を示す桜子だ。
「漢字と慣用句くらいだぞ、暗記で取れるの」
「バスケやってるお前に言うなら、筋トレと練習試合のようなもんじゃないか。書き取りするよりは、気に入った本読んでる方が楽しいだろ?」
「まあ、それはそうかもけど……」
それで桜子は、しぶしぶ顔で遼太郎を見た。
「あたし普段読まないから、何読んだらいいかわかんないよ」
「そうだな……」
遼太郎が腕組みして少し考えた。
(あ、りょーにぃの眼鏡が光った)
遼太郎の眼鏡が白く光る、それは一家言を披露する合図である。
「俺がオススメするのは、推理物かホラーだ」
ホラーと聞いて、桜子がビクッと身を縮こめた。
「またそーやって、イジワル言うー……」
桜子の怖がりを思い出して、遼太郎は手を振った。
「違う違う。推理物とホラーは、オチがはっきりしてるんだよ」
「オチ?」
「笑うとこじゃなくて、結末って意味な。推理物と怪談はだいたいラストで真相を解明するから、読み切った感があっていいんだよ」
けど桜子にホラーはダメだなー、と遼太郎は笑った。そんなもの読ませてみろ、また部屋にマットレスを運び込むハメになる。
「ともあれ、本読み慣れてないなら、結末のボヤっとした話はお勧めしない」
「確かに、国語の教科書でも、結局何が言いてーんだよって話あるね」
「作者が何を言いてえのか20文字以内で答えるのが、国語だけどな」
「むう……」
唇を尖らせる妹に、兄は自分の本棚を目にしながら考える。
「それと、いきなり長いのに手え出すと長さだけでイヤんなるから、まずは短編集がいいだろうな。つってエッセイは、短いけど合う合わないがあるしなあ。取っ付きやすさなら、いっそ星新一ってのも手か……?」
(眼鏡光るとりょーにぃ、話長えな……)
妹に一生懸命アドバイスする兄に、桜子は他人事のように思っていた。
それでも桜子は一応考えたフリをして、
「じゃあ、推理物か……」
そう言うと、遼太郎はニヤリとして身を乗り出した。
「だが、それを踏まえて俺が勧めるのは、あえて時代小説の剣客連作物だ」
「けんかく? 推理物じゃなくて?」
時代小説と聞いて、桜子の頭に浮かんだのは“暴れん坊将軍”と“水戸黄門”、そしてクラスメートの東小橋君の顔だ。
遼太郎はここぞとばかり、一段と眼鏡を光らせた。
「ふふふ、実は推理物なんだよ、時代小説は。事件が起きる、探索する、真相暴いて、ぶった斬るだからな。連作集はテンポよく読めるし、最後は必ず悪い奴をやっつけるから爽快感があるぞ」
「へえ……ちょっといいかもね」
「時代劇って、構成だけ見るとスーパー戦隊と一緒だからな」
「身も蓋もないよね」
罪なき人々が苦しみ、正義の人が悪を討つ。子どもからお年寄りまで愛する、これ日本の心。違いは巨大ロボが出るかどうかでしかない。
遼太郎のプレゼンに、桜子も少し時代物に興味が出た。
「何か、これ読めばっての、ある?」
「そーだな、やっぱり池波正太郎、平岩弓枝も女性作家だから桜子にはいいかな。俺は藤沢周平が好きだけど」
「それぞれどんな話なの?」
「池波正太郎はスーパー爺ちゃんが無双する話、平岩弓枝は読んでると無性に蕎麦が食いたくなる。藤沢周平の用心棒物はいつ米櫃の米が尽きるか、ジリ貧感がハラハラするぞ」
「何それ、全部面白そう」
幾分偏った見方だが、桜子に関心を持たせれば遼太郎の勝ちだ。
「時代物だから知らない言葉が出てくると思うけど、調べながら読むのも勉強だと思うと語彙が増えるし一石二鳥だよ。短編読み慣れたら、大河物の長編読むと歴史も同時に勉強できていい。戦国と幕末にばっか詳しくなるけどな」
「わかった。ありがとー、お兄ちゃん」
遼太郎のアドバイスに従って、翌日桜子は駅前の古本屋に寄り、勧められた作家のを何冊買い、ベッドでごろりと“国語の勉強”を始めた。
その結果……
**********
「アズマが増えた」
そうチーが呟いたことには、時代小説を読むようになった桜子の日常会話に、
「おう、そのことよ」
「違えねえや」
と時代言葉が時折混ざるようになったのだ。
「いや……ありゃ武士っていうか。江戸っ子じゃねえ?」
何かにつけて影響されやすい桜子に、サナは呆れる。
「あ、厠に行ってくるね」
「ちょっと手水を使ってくる」
「ちと、御不浄に……」
「何でトイレの語彙ばっか増えてんだよ」
一度記憶を失くした人間が期末試験の壁に頭を叩きつけると、こんなふうになってしまうらしい(※効果には個人差があります)。東小橋君は、ちょっと楽しそうにしている。
そして――……
江戸っ娘にも、肉食系&サバサバ系女子にも、忍びの者にだって、夏は等しく近づいて来る。夏休みは、もう目前に迫っていた。




