58.オヤスミは、夢の間に間に
桜子の声を聞き、遼太郎は少し途切れた意識から目を覚まし、床に手をついた正座まで身を起こした。トイレのドアに寄り掛かった桜子が笑う。
「あはは……だらしないなあ、りょーにぃ」
「うるせえ。誰のおかげで事なきを得たと思ってんだ……」
遼太郎が壁に手をつき立ち上がると、桜子もトイレのドアを離れる。
「と、危ねえって」
慌てて前に出た遼太郎が、ふらついた桜子を受け止めた。二人はもつれ合い、遼太郎の方よろめいて、壁に背中をぶつけて共倒れは免れる。
ふう、と息をついた遼太郎を、桜子はぽやっと真下から見上げる。
「えへえ……お兄ちゃんはあたしのこと、いつだって受け止めてくれる……」
「今はそこまで信用するなよ、結構足にきてるからあっ?!」
「ふわあっ?!」
ずるっ、と背中が滑って二人の体がエレベーター式に垂直落下する。ヒヤリとした瞬間の後、どさっ、尻もちをついた遼太郎の上で抱かれている桜子。
「あはは、さすがのお兄ちゃんもダメかあ~、お酒怖え~」
「ダメだな、もう眠過ぎる……立てるか?」
「無理ぃ~、お部屋までお姫様で連れてってえ?」
「階段から雪崩式ジャーマンが決まっていいならな」
兄妹、顔と顔を突き合わせてプッと笑う。
でも、桜子は酔っ払いながら、さっき倒れる瞬間それでも遼太郎が咄嗟に肩と腰を強く抱き寄せてくれたことに、気づいていた。
リビングの後始末は明日の自分達に託し、酒気と眠気に鞭打って、遼太郎は桜子に肩を貸して階段を押し上げる。
「りょーにぃ……あたしはもうダメだ。ここに置いて先に行け……」
「いいえ、軍曹殿。きっと二人で生き延びるんです……」
「ZZZ……」
「寝・る・な……」
**********
桜子のマットレスは、昨日の夜から遼太郎の部屋に敷いたままだ。昨夜は結局未使用だが。遼太郎は意識の残りカスを振り絞り、部屋に引きずり込んだ妹の体を、無造作にマットに投げ捨てた。
「むぎゅ……」
「よし、もういい、寝ろ……」
「お兄ちゃん、あたしはもう疲れたよ……とても眠いんだ……」
「うん、ネロ……」
桜子はカエルの体勢から、崩し正座に置き上がり、夢の世界に両足を突っ込んだ顔で遼太郎を見ている。遼太郎はベッドの端に腰を下ろすと、
(……これで責任は果たした。後はオチるなり、寝小便を垂れるなり好きにしろ。俺もそうする……)
ぼふっ、そのままベッドに横倒しになる。シーツの感触が頬に心地いい。
眠気に狭まっていく視界の端で、桜子が呆けたように半笑いだ。いや、いいから寝ろよ。そう思っていると、桜子は不意にこちらに身を乗り出して……
遼太郎の唇に、唇を押し当てた。
(…………)
(…………)
遼太郎はどこか遠い場所から、桜子にキスされている自分を眺めていたが、特に疑問を感じることなく軽く唇を押し返した。
チュッ、と小さく音が鳴って、口が離れると、桜子はにへっと笑った。
「お兄ちゃん、おやすみのチュー……」
「ああ……おやすみのチューか……」
だったら、何も問題はないな。桜子は無邪気な笑顔で、ベッドの縁から沈んでいった。遼太郎もまた、意識を保つ限界に達した。
「おやすみ……お兄ちゃ……」
「ああ……おやすみ、さくら……こ……」
数秒後には、電気の点いたままの部屋から、二つの寝息が聞こえてきた。
**********
翌朝、と言っても10時を軽く過ぎる頃、遼太郎は雀の鳴く声で目覚め、ベッドで身を起こした。その気配で目が覚めたらしく、桜子もマットの上に座り、お互いにボケーっと顔を見合わせる。
「あー……おはよー……りょーにぃ……」
「おー……おはよ……」
二人とも、魂が抜けたようなヒドイ顔をしている。
「あー、アダマいだい~……お兄ちゃん、大丈夫ぅ……?」
「頭は痛くないけど、クソだりぃ……酒、そんないいもんじゃねーな」
「飲んでる時は楽しかった覚えもあるんだけどな……」
「まあ、確かに飲んでる時はな……」
額に手を当てる桜子、首の後ろを揉む遼太郎。しばしそうしていたが……
「ねえ?」「なあ?」
ほぼ同時のタイミングで口を開き、ハッとして閉じる。互いに目を合わせない。だからどちらも、相手が顔を赤くしていることは知らない。
「な、何……?」
「いや、言いたいことあるなら、そっちが先でいいけど」
「そ、そっちが先に言ってよお///」
桜子が焦って、ちらっと盗み見ると、遼太郎は右手で顔の下半分を覆うようにして壁の方を向いている。
「昨日のこと、どんくらい覚えてる?」
「んなっ?!」
桜子はビクッとしたが、遼太郎は顔半分隠したままそっぽを向いている。桜子は恐る恐る、
「あたし、また何かやっちゃいましたか……?」
「いや、まあ、ちょっと下ネタぶっ込んできたくらいで……」
「下ネタを?!」
す、好きな人相手に何しとんねん……
「つっても恋バナの延長線上、ってとこだけど」
お兄ちゃんはそう言うけど、恋愛対象に恋バナって、それもヤバくない? え、お兄ちゃんのこの感じ、あたし致命的なポロリしちゃってない?
「それと、記憶ない時の桜子がいっぱい出てきた」
「どゆこと?」
「それはこっちが訊きたい」
自分への不信感だけが桜子の中で深まる。遼太郎は顔を覆う手の下から、
「俺の方は……変な酔い方してなかった?」
「た、たぶん……」
「そか……」
二人の間に下りた沈黙を、互いに慌てて破るように早口になる。
「お、お兄ちゃんはどこまではっきりした記憶があるの?」
「トイレ連れてったこととか、ここまで運ばれたのは覚えてる?」
「何となく、断片的に……」
「俺はお前をここまで何とか運んで、そっからはブラックアウトだわ」
桜子は胸の前で指を合わせ、遼太郎をオドオドとした目で見た。
「じゃあ……マチガイがあったとしたら、その後だね……?」
「ま……マチガイ……?」
遼太郎はドキッとして、桜子を見返す。
「な、ないだろ……?」
「わからんよ~?」
桜子がニヤッと笑い、遼太郎も肩の力を抜く。桜子はパジャマの下のゴムをちょっと前に引っ張って、
「うん、たぶん大丈夫っぽい」
「何の確認だよ。いや、説明しなくていいよ。てか、ないない。二人とも完全に爆睡してたし」
それより何より、兄妹だし。いくら酔っ払っても、そこは理性働くだろ。
「お兄ちゃんは意識を失うと、代わりにドSの人格が出てきて、幼気な桜子ちゃんをむりやり力づくで……」
「人におかしな設定を付け加えるな。記憶失って別人格が出るのはお前だ」
そうやって「あははー」と笑い合いながら、桜子はちょっと困惑する。
(出る……のか。油断すると“旧桜子”……)
何か、心配の種がまた増えたような……
「まあ、マチガイと言えば酒飲んだのがそもそものマチガイだな」
「マチガイないね」
「じゃ、バレないよう後始末するか。桜子はシャワー浴びて酒抜いてこい。昼過ぎか、たぶん夕方までには母さん達帰って来るぞ」
「うん、急ごう」
**********
そうして遼太郎はリビングの証拠隠滅、桜子は自分自身の証拠隠滅に、二手に分かれた。それぞれ一人になって思うのは、
(ホッ……お兄ちゃんってば……)
(どうやら桜子の奴……)
(おやすみのチューのこと……)
(覚えてないみたいだな……)
桜子が酔った勢いで、遼太郎にキスしたこと。遼太郎が酔った判断力で、桜子に普通にキスを返したこと。目を覚ましてみると、とんでもないマチガイだったとドッと冷や汗が出るが……
(とりあえず、なかったことにしましょう……)
相手が、覚えていないんだから。
**********
その日の夕方――……
おとーさんとおかーさんが、法要のお供えのお下がりやら、四国と大阪のお土産を抱えて、
「いやあ、哲二のとこの従姉ちゃん達も、しばらく見ない間にずいぶん大人になっててね。下の従妹ちゃん、桜子に会いたいって、今度こっちの方に遊びに来たいって言ってたよ」
「二人とも、ちゃんと仲良くしてた?」
戻ってきた時には……
「うん、ラブラブだったよねー、りょうにぃ?」
「ああ。桜子の手料理も愛情タップリだったしな」
桜子はリビングのソファに、遼太郎はダイニングの椅子に、何となく離れて座って出迎えた。
二人で過ごした二晩と三日、楽しかったけど、親という第三者を介してみると、兄と妹としてはオカシイ感じだったように今更思えてくる。
「あんまり夜更かしとかしなかったでしょうね?」
「いや……結構遅くまでゲームしてたなー」
「お菓子も好き勝手食べてたよねー」
「この子達はもう……」
おかーさんは顔をしかめたが、おとーさんは笑いながら思う。こうやって悪びれもしないのがこの子達の素直なところで、目を離しても、そうそう悪いことはしないだろう、と。
「手料理って遼太郎が写真送ってきたやつだな。確かにご馳走だった」
「え、りょーにぃ、おとーさんに写メ送ってたの?」
「ふふふ、羨ましがらせてやろーと思ってな」
目を見交わして笑う、遼太郎と桜子。ちょっと特別な、ちょっとヘンだった、二人きりのお留守番もこれでオシマイ。明日から、またフツウの兄妹に戻るんだ。
……たぶん。
そして、桜子は――……
結局、自分の”本当の気持ち“はよくわからなかった。
ますますわからなくなった、と言ってもいいかもしれない。三日間を二人で過ごして、ある時は自分の気持ちが“妹の大好き”だと思えたし、やっぱり“女の子としての恋愛感情”である気もした。
(どっちの“自分”も実際“出てきちゃった”らしいし……)
けど……
ひとつ確かなことは、どの気持ちも、桜子の外側にあるモノじゃないこと。桜子の思うこと、感じることも記憶も……
(“妹”も、“女の子”も、“旧桜子”だって……)
今の自分の内側にあるモノなんだ。あたしの”本当の気持ち“は、幾つもの違った感情が組み合わさって出来た、歪んだモンスター。だけど、全部愛すべき自分自身。
(だから怖がらなくていい、恥じなくていい、否定しなくていいんだ)
それが理解った、この忘れられない二日間は――……
最後の最後で、忘れられないくらい怒られた。
「気づくわよ! 5本も全部飲んじゃったの?!」
おかーさんのお説教、おとーさんの苦い顔に遼太郎と正座で首をすくめながら、こっそり顔を見合わせて笑う。
楽しくて、ダメで、人には言えない二人の二日間は、こうして何事もなく平穏に幕を閉じたのだった。




