53.この世界で一番幸せな場所
ソロライブinトイレ前を終え、二人は桜子の部屋に戻る。布団を運ぶと言ってもマットレスなので、夜中のちょっとしたひと仕事だ。
「結構大事になってきたぞ、これ」
「ゴメンね、とは言わないからね」
マットを持ち上げる兄に、今夜は散々苛められた桜子が冷たい。
「足元、何もない?」
「画鋲撒いとこうか?」
「俺の部屋に先行って、テーブル端に寄せといて」
「わかった」
こうしてやっと桜子の寝る場所が整った。何だか遠回りをした気がする。ひと騒ぎやって、そもそもの怖さもちょっと薄れつつある気もする。
(まあ、折角だしここで寝るけど)
遼太郎は、桜子がデスクに移動させておいた、すっかり冷めたコーヒーをひと息に飲んでしまうと、
「……俺ももう寝よう」
「もうちょっと起きてるんじゃなかったの?」
抽斗からミントタブレットを取り上げ、ケースをカラカラと振った。
「もういいんだ。夜中に力仕事して、お兄ちゃんは疲れたよ、パトラッシュ」
「だったらベッドに入れてくれたら良かったのに」
「そういうワケにもいかないでしょっ……と」
遼太郎は外した眼鏡をデスクに置き、桜子の座ったマットを大股で越えて、自分のベッドに転がった。
「お兄ちゃん、歯磨いた?」
「もーメンドいから、これで済ます」
遼太郎はそう言って、握っていたミントのドライフレーバーを三粒ばかり口に放り込んだ。
「それは歯を磨いたことにはならないでしょ……」
「いいんだ、息はスッキリするし」
「テキトーだなあ」
呆れる桜子にかまわず、遼太郎は枕元の照明リモコンを取り上げた。
「もう消していいか?」
「うん……あ、お兄ちゃん」
「ん?」
ごろりと顔を向けた遼太郎に、ほわっと微笑み掛けて、
「メガネ外してもカッコいいね///」
「……そりゃどうも」
遼太郎は真顔で会釈して、仰向けに戻った。桜子もマットに身を横たえ、タオルケットを引っ張り上げて、
「おやすみっ、お兄ちゃん///」
「あー、おやすみ……」
(やっぱり、ちょっとドキドキするなあ……///)
鼻までケットに潜って、にやけてしまう桜子に気づかず遼太郎が、シーリングを撃ち落すようにリモコンを向ける。部屋の灯りが消えた。
**********
「待って待って、お兄ちゃん、ちょっと待って」
すぐ電気が点いて、桜子、遼太郎と身を起こした。
「何だよ? 何か尊いモノを見たツイートか?」
「部屋真っ暗にするの? 豆球は?」
桜子の言うのはナツメ球、シーリングの常夜灯のことだ。
「俺は暗くしないと寝れないんだけど」
「あ、あたしは真っ暗だと寝れないよ!」
「それに全部消すと、お兄ちゃんが見えなくて怖い……」
そうなのだ、そもそもが怖くて独りで寝れらない、という騒ぎなのだ。
「それとね、できれば寝るとこ変わって欲しいんだけど……」
「……何で?」
桜子はきゅっと身を縮めて、上目使いをする。
「下からだと、お兄ちゃんのこと見えないの」
これは……7割くらいは遼太郎が蒔いた種だが、何という大豊作。マットを運ぶまではまだしも、電気とか寝る場所とか、正直そろそろわずらわしい。
そこで遼太郎はため息をついて、ベッドで壁側に体をずらし、掛け布団の端をめくった。
「もういいから来い」
「え?」
「面倒だ、一緒に寝ろ」
「うええっ?」
一緒のベッドは否定的、かと思われた遼太郎からのまさかのお誘いに、
「え、いいの? 何で?」
桜子は嬉しいよりも、ぽかんとする。だが遼太郎は、
「何か、別にどうでもいいような、大した問題ではないような気がしてきた……」
「未だ世界には紛争が絶えず、貧困や差別がなくならないことを考えると、妹と一緒に寝るくらい、取るに足りないことのような気が……」
「そのスケールで?」
どうやらいろいろなことがあった今日一日、ついに遼太郎の思考と判断力がメルトダウンを始めたようだ。
「何だったの、この30分くらい……?」
「知らん。お兄ちゃん疲れた……オレ、ネル。オマエ、スキニスル」
「考えるの止めないで~!」
「オレ、ニンゲン、クウ……」
「帰って来て~」
桜子の呼び掛けも空しく、ばたっと仰向けに倒れた遼太郎の目の光が濁り、知性の光が失われていく。
(お兄ちゃん……っ! お兄ちゃんはもう、あたしの声の届かない場所に行ってしまうんだね……!)
(お兄ちゃん、明日になったら、また人間だった頃の優じいお兄ぢゃんに戻っでぐだざい……っ!)
だから、せめて今夜だけは安らかに――……
**********
が、桜子が安らかに眠れるかと言えば、かなり無理そうだった。
「お、お邪魔しまーす……」
「んん……」
緊張しつつベッドの端に腰掛けると、二人分の重みでマットレスが沈み、寝転んでいる遼太郎の体が揺れた。些細なことに、桜子はドキッとする。
自分の動きが伝わるのが何だか恥ずかしく、桜子がそろそろと横になろうとすると、それを見上げる遼太郎がポツリと、
「こうして見ると、やっぱりデカいよな……」
桜子は反射的に、胸の前で腕を交差した。
「なっ……? ど、どこ見てんのさ?!」
「そこじゃねえよ……」
赤くなった桜子に、ツッコむ遼太郎の声はますます鈍い。
「背だよ、背……つうか全体つうか年齢な。改めて一緒に寝るのはオカシイよなあって……まあ、いいけど……」
「つうか、そこは言うほどデカくねーだろ……」
「オイ。お前、今何て言った?」
ぼんやりはしていても、失言には気づき、遼太郎はごろんと壁際に転がって背を向けた。追及したいものの、桜子はぐっと堪える。
(一緒に寝ていいって、許してくれたんだもんね……)
「ウェルカム!」ではないけれど、「いいぞ」ではあるワケで、嬉しい一方でどこか不安なような気持ちの桜子は、シーツとケットの間に身を滑り込ませる。
(ベッドイン……)
「電気、消すぞ……」
「う、うん。何かちょっとエロいね、その言い方」
精一杯の軽口の、声が上擦っているのに気づかれただろうか。
(わかってるんだ……)
別に、遼太郎の掛け布団に潜り込まなくても、タオルケットくらい自分の使えばいいってことくらい。わかってないワケないじゃないか。
再び電気が消えて、遼太郎は気配だけの存在になった。
自分の輪郭さえわからなくなる闇の中で、大好きな人がすぐそこにいる。二人の輪郭も、曖昧に溶けてしまいそうで。
(いろんなことが、曖昧になって、しまいそう……)
二人が、兄妹であること、とか……
桜子の中にある、“今の自分”と“以前の自”分、”妹“と”女の子“の感情が、ふわふわふわ……真っ暗なここにあるのは、桜子のキモチと二人の体温だけで。
……すごく近くて……
(手を伸ばせば、届く距離にいるのに……)
だけど、あたしとお兄ちゃんの間には、無限の距離があって……
でも、このタオルケットの中なら許される、かも――……
そして桜子は、無限の距離を飛び越えて、遼太郎の背中に体を押し付けた。
間に、自分の手のひらをしっかりと挟んで。遼太郎が身じろぎし、振り返ろうとした気配があったが、何も言わず元の体勢に戻った。
本当は遼太郎の背中にぎゅっと抱きつきたかったが、言い逃れのできなさを怖れる気持ちが真っ暗闇の中、怖がりの桜子を押しとどめた。
(……あ)
その時だった。桜子の胸から、不意にドキドキが消えたのは。
代わりにやって来たのは、鼻の奥がツンとするような懐かしさだった。
(この感じ、昔のまんまだ……)
思わず、クスッと笑いが漏れた。
小学生の頃までは、遼太郎とお風呂はもちろん、こうやっていつも一緒に寝ていたのだ。大好きなお兄ちゃんにひっついて、布団の中でいつまでもおしゃべりしていて、様子を見に来たおかーさんやおとーさんに、
「いい加減に寝なさい」
と叱られて、二人で抱き合って慌てて目をつむるのがいつもだった。
そんなことを思い出すと、桜子の中にあった“そーゆードキドキ”は、温かな思い出へと溶けて消えていく。
(あたしの中で、お兄ちゃんと一緒に寝たいのは)
恋する“女の子”のキモチじゃなかった。お兄ちゃんが大好きで、昔みたいに仲良しでいたい、“妹”の方のキモチなんだ。
(なあんだ……あたし、バカみたいじゃん///)
きっと、お風呂だって同じなんだろう。
あたし、エッチくなかった。
まあ……完全にゼロではないとも思うけど。お兄ちゃんだって、あたし相手でも“そうなる”かもって言ってたし……
(……って、ヤメよう)
今夜は邪念は捨てて、この純粋な気持ちとタオルケットに包まれて寝よう。
桜子は遼太郎の背中に額をこつんと当てた。
(ゴメンね、お兄ちゃん。安眠妨害)
でも、幸せだなあ。もうお化けなんか、ちっとも怖くないよ。こんなに安心できる場所、世界中探してもどこにもないよ。
なぜならここは、本来思い出の中にしかない特別な場所なんだから。
お兄ちゃんへの恋愛感情は、やっぱりあると思う。
けれどそれは、実の兄を会ったことのない人だと“勘違い”して始まった。傍にいてドキドキするキモチもまた、何かの“勘違い”でもおかしくない。桜子の心の8割は、バグとエラーからできている。だけど案外恋なんて……
誰だってそう、みんなだってそうなのかも。
桜子は微笑んで、眠りに落ちていく。自分の“本当の気持ち”の在り処と形が、ほんの少しわかったように思えた。
(お兄ちゃん。お休みなさい。大好き――……




