52.遼太郎、内なる魔物
遼太郎は床に敷いたラグに座っていた。ガラステーブルの上には、コーヒーとタケノコの里がある。
「お兄ちゃん、もう寝る……?」
「もうちょい起きてるけど、どうした?」
ノックをして返事も待たず、ただならぬ顔で入ってきた妹は、遼太郎の顔を見て深々と安堵の息をついている。
遼太郎はカップを口に運んだ。寝る前のカフェブレイクとは、桜子に言わせれば正気の沙汰じゃないが、遼太郎はコーヒーを飲んでも眠れなくならないらしい。
「うん……その、あのね……」
「大丈夫か? クマが生き物なら死ぬようなことになってるが」
固く抱かれ過ぎて、クマさんはスンっとした顔を、アサシンの暗殺技のように180度ねじ曲げられている。おまけに桜子は枕まで持参してきていた。
桜子はモジモジと言葉を濁らせる。クマさんと枕を抱えた“桜子ポーズ”の指が離れたり、絡み合ったり、落ち着かなく動く。やがて桜子は意を決した。
「ねえ、お兄ちゃん……ここで寝てもいい……?」
どうせそんなことだろうと思っていた遼太郎、顔をしかめて、
「お前、またそーゆーことを……」
「こ、これは違うの!」
確かに前科はあるけれど、今はのっぴきならない事情があるのだ。
「あのね……怖いの」
「は?」
「あんなゲームしたから、独りで寝られなくなったの……」
「え? ……あっ……ああ……」
驚き→気づき→からの理解。そう言えば桜子、昔から怖いのはテレビも漫画も軒並みNG。中学生になっても遼太郎がホラーゲーやってるとリビングに入れず、外からギャーギャー文句を言ってた、無類の怖がりだった。
「楽しそーに見てたから、少しは平気になったんだと思ってた」
「忘れてたんだよお、自分が怖がりなこと」
「戻ったんじゃないのかよ、記憶」
遼太郎が呆れると、桜子は頬を膨らませて、
「一回忘れたから、こういうの、その時になってみないとわからないんだよ」
「厄介だな、記憶喪失」
遼太郎は嘆息した。桜子の怖がりっぷりを考えば、無下に追い返すのは酷だ。とは言うものの、
(この歳で、兄妹同じベッドで寝るってのもなあ)
風呂ほどではなくても、そこそこ問題がある気がする。
考えあぐねていると、膝の上に弾力のあるモノが置かれた。桜子が遼太郎の体とテーブルの間に割り込んで、膝に座ったのだ。
「ちょ……何してんの、お前」
「背中が無防備なんだよ。預けるぜ、相棒」
「台詞だけ聞くとアツいけどもよ」
タオル時に包まれた尻が、据わりのいいポジションを求めてモゾモゾする。これには遼太郎も閉口した。
「幼稚園児じゃあるまいし、いい歳して兄の膝に尻を乗せるな」
「何だよ! いつも叩いてばっかなんだから、たまにはあたしのお尻を愛でろ」
「愛でちゃダメだろ、妹の尻を。そもそも、そんなには叩かない」
遼太郎がそう言うと、桜子が振り向いた。
「叩くよ? て言うか、お兄ちゃん割と“ドS”だよ……?」
遼太郎は、“不服そう”の方の意味で憮然とした。
「人畜無害のオタクを捕まえて失礼な」
すると桜子は素の感じで驚いた顔をした。
「え、自覚ないの……?」
「待って、マジトーンで言われると、自分がわからなくなる」
遼太郎は当惑する。妹相手に時々ふざけて“俺様”をやるが、顔が悪くないだけに“本物感”があることに自覚がない。自分ではモテないと思ってるが、クラスの女子にやってしまうと、たぶん洒落で済まないポテンシャルはあるのだ。
腑に落ちない遼太郎に、桜子はちょっと頬を赤くして、
「あ、でもあたし、お兄ちゃんにお尻叩かれるのそんなヤじゃないから///」
「待って、それはそれでオカシイこと言ってる」
自分のことも桜子のこともわからなくなったが、ともあれ……
「話を戻そう。それで、ホントにここで寝る気か?」
「ダメ……?」
肩越しに上目遣いで瞳を潤まされると、ドSながら結局妹に甘い遼太郎、ダメだとは言いにくい。と言って、この尻と同じベッドに入るのも、何かダメな気はする。
「じゃあ、お前は俺のベッド使え。俺はリビングのソファで……」
「いや、意味ないし! お兄ちゃんの部屋で独りじゃん!」
なるほど、1+1-1は、結局1だ。単純な式にさえ、真理は宿る。
遼太郎は鼻の下を擦った。
「わかった。お前の布団の運んで床に敷こう」
「そ、そうだね。それが妥当だ」
無難かつ真っ当な案を出した遼太郎に、桜子的には、
(一緒の布団でもいいのになあ……)
少し残念ではあるが、今は恋愛的な感情より恐怖が上回る。もう、部屋の隅でもベッドの下でも、ここにいられればじゅうぶんです。
「そうと決まれば、とっとと運ぶか」
「待って、お兄ちゃん!」
尻を押し退けて立ち上がろうとする遼太郎を、桜子が制した。
「?」
「あたしが先行くから、お兄ちゃんはぴったり背中についてて?」
「どんだけ怖がってんだ、お前」
遼太郎は呆れつつ、妹の背中に身を寄せる。
「背中、密着が薄いよ! 何やってんの!」
「何だ、このドラクエ行進は」
信頼する遼太郎に背中を預け、桜子は怖々と暗い廊下に爪先を踏み出す。
その時遼太郎の胸に、こういう場合多くの人の心を過るであろう衝動が湧いた。ただ実行に移すかは、その人の良心に因るであろうが……
「……わっ」
「ぎぃやあああああああああああっ?!」
ドS太郎は軽く背中を突いただけだったが、桜子は最大音量で絶叫した。もし両親が在宅なら、一階から飛んできたに違いない。
「何すんの、バカあっ!」
「すまん、つい」
「ついで済まないよ、バカ兄っ……」
桜子は顔を真っ赤にして怒ったが、その語尾は小さくなり、うつむく。
「ちょっとだけだけど、“愛”が漏れた……」
「“愛”が……」
些細な悪戯心が、深刻な事態を招いた。
「それは……大丈夫?」
「ほんのちょっとだから、パジャマまでは貫通してない……けど、トイレまでついて来て欲しい」
被害を確かめた桜子が言うと、遼太郎は眉をしかめる。
「えー、妹のトイレに?」
「誰のせいだと思ってんだ! ここで全部出すぞ!」
「わ、わかった。お兄ちゃんが悪かった」
これ以上悲しみはいらない。桜子に怒鳴られ、かくなる上は地の果てまでも二人連れと覚悟せねばなるまい。
「とりあえず替えの下着取ってくるから」
桜子はドア開けっぱ電気点けっぱの部屋の前で、棘のある声で言った。
「夕方にお兄ちゃんに見せたぱんつ、結局両方はくことになったよ。はき替えたら見せてあげるね」
妹の冷ややかな目つき、それも自業自得が招いたことだった。
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そんなこんなで揃ってトイレ前。生まれ育った家のこと、普段はぼんやりした常夜灯で夜中の用足しに行って帰れる二人だが、今は電気が煌々としている。
「ぜ、絶対そこにいててよ。置いてったら許さないからね?」
必死に言いながら、桜子はパジャマの下とぱんつのゴム一緒に親指を掛けた。
「閉めろー!」
「ヤだー!」
「イヤもクソもあるか!」
「クソじゃないから! 臭くないから!」
「そういう意味でも問題でもねえ!」
桜子は前屈み、今にもキャストオフの構え。涙目で訴えるが、遼太郎とてこの一線だけは譲るわけにはいかない。
「ちゃんとドアの前にいるから、そこは閉めとこう、な?」
「今夜は押し倒されたし、お尻も叩かれたし、バイブでも苛められたし、ここはSプレイフルコンプいっとかない……?」
「オスプレイみたいな発音で言うな。人生の道を墜落するわ」
遼太郎がむりやりトイレに押し込めると、中から桜子が叫んだ。
「お兄ちゃん、しゃべってて! 何かお話して!」
「ムチャ言うなよ……」
急にそう言われても……遼太郎は少し考えると、声を潜めて、
「これは……私の学校の先輩が、実際に体験した出来事なのですが……」
バァンッ! 「ぶっ殺すぞ、てめえー!」
ドアを音高く開いた、真っ赤な顔をした桜子は幸いまだ下をはいていた。
「冗談、冗談だから!」
「時と場合を考えでぐだざいいい……」
さすがに遼太郎も反省し……というか、この期に及んでまだ仕掛けていける時点で、心の内側に魔物を飼っているという話だが。
「お兄ちゃん、歌っててえ……」
「♪傍にいたいよ……君のためにできることが、僕にあるかな……」
いや、いたくないけどさ。深夜に妹が用を足してるトイレの前。
でも、そこにいることだけが、今の桜子のために僕ができること。遼太郎はもう深夜1時も近いトイレ前で、心を込めて歌った。3曲。




