49.バスタイムの攻防
夕食の片づけも二人で済ませ、湯呑を手に、食後のほっこりタイムである。
テレビがCMに入り、遼太郎が立ち上がって、
「夜ゆっくりしたいし、風呂早めでもいい?」
桜子が頷くと、カウンターのこちらからキッチンの給湯パネルのボタンを押した。遼太郎がソファに戻る。後は勝手に風呂が沸く。
(新婚さんを通り越して、老夫婦みたいだ……)
隣り合わせでお茶をすすりながら、桜子はそう思った。いつもは食事を終えるとすぐ部屋に戻る遼太郎が、今夜は珍しく他愛もないテレビを眺めている。
(何かいいなあ、こういうまったり感も)
この落ち着く感じも、結局は家族であり、兄妹ってことなのかもしれない。
もし、このままずっと二人一緒にいられて、歳を取って……そうしたら、そういう未来もあったりするんだろうか。
現実的に考えると、そうはならないだろう。お互いずれ仕事をしたり、結婚したりして、別々の人生を歩む時が来る。
(まあ、もしも……もしもだよ)
いつかおばーちゃんになった桜子と、おじーちゃんになった遼太郎が、縁側でおせんべいでも食べ、お茶を飲んでいる未来……そういうのもちょっといいなと思ってしまうような、圧倒的まったり感がリビングを支配している。
(そうなったら、此花家もあたしらの代で終わりだけどな)
おとーさんにもおかーさんにも、ご先祖様にも申しわけねえことだ。
(空想壁のある赤毛の女の子でも、養子にしようかな)
妄想癖の激しい養母と、収集つかないことになりそうだが。
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そうして桜子が人生と家系の果てに思いを馳せていると、給湯パネルからいつものメロディが流れた。湯張り完了だ。人間様が口半開きで呆けている間も、一生懸命働いてくれる機械さんはエライ。
何となく二人、メロディが成り終わるまでじっとキッチンに顔を向けている。遼太郎が湯呑を口に運んで、
「どうする? 桜子、先入る?」
そう問うと、桜子が胸の前で指を組んで、きゅっと身を縮めた。
「何か……新婚さんの台詞みたいだね、それ///」
遼太郎は危うくお茶を吹きかけた。
遼太郎が湯呑を手にしたまま、
「お兄ちゃん、もうちょっとでアトマイザーになるとこだぞ?」
桜子はちょっと赤くした頬で首をかしげる。
「え、だって、そういうの言うんじゃないの? ドラマとかでさ、『先にシャワー浴びて来いよ』とか言うでしょ」
「だから、そーゆー意味では言わないでしょ、お兄ちゃんが」
天然か冗談なのか、判断しかねつつ遼太郎は持ちっぱなしのお茶をぐいと口に含む。そこへ見計らったように桜子が言った。
「ねえ。今日、一緒にお風呂入ったらダメかな……?」
今度はきちんと噴き出してむせた。
「うわ、また汚え。布巾、布巾……」
「げほっ、ごほっ……き、気管が痛い……」
桜子は遼太郎の背中をさすり、布巾でテーブルの水たまりを始末する。さっきと同様甲斐甲斐しい妹に見えるが、惨事の原因はこの子にある。
遼太郎と咳と息が落ち着くと、
「また、そうやって兄をからかう……」
桜子をジロリと睨む。が、桜子はきょとんとしていて、その瞳はどこまでも澄み切り、純粋で、無垢であった。遼太郎は口をつぐむ。
(あれ? ふざけてんじゃなくて、素で言ってんのか?)
それは幼い頃の妹が「遊んで」「お菓子欲しい」とか兄に甘える時の、他愛ないおねだりをする時の顔だった。
何だ、それだったら……
……余計タチが悪いわ。
遼太郎はソファに掛け直し、改めて胸元できゅっと手を組む桜子を見た。
「そりゃダメだろ」
「何で? 昔は一緒に入ってたじゃん」
確かにそうだけど、それもせいぜいお互い小学生の間で、別に「今日から」と決めたわけでもなく自然と終わった習慣だ。
桜子が一人の風呂を怖がらなくなったからか、考えてみると、それとなく母さんが頃合いを見たのかもしれない。それを、何で中学生にもなった今……
逃げ腰の遼太郎に、桜子は口を尖らせる。
「おかーさんいない時だったら、いいって言ったじゃん」
「イヤ、言ッテナイヨ?」
前にポロッと滑った口を、都合よく拡大解釈するのヤメてくれない? それに、親のいない時を狙って一緒に風呂入る兄妹とか、
(それもう、エロ漫画のシナリオだろ)
リアルだとめちゃくちゃドン引きする、さすがに。
遼太郎が首を縦に振らないでいると、ついに桜子がむくれた。
「何さ、いいでしょー! 兄妹なんだし、別にりょーにぃの前で裸なっても恥ずかしくないし、りょーにぃの裸だってちっさい頃見慣れてるしー」
(出たよ、“ちっさい桜子”……)
妹の無法っぷりに、遼太郎は閉口する。
記憶が戻ってからは見なくなっていたが、それでも桜子は以前よりお兄ちゃんへの距離感が近く、齢の割に幼い。二人きりでいるからか、今日はちょこちょこと記憶のない時の桜子が顔を出している気がする。
(“その桜子”は、俺と風呂入るのが平気なのか……)
(もしかして、意識する俺の方がオカシイのか? 桜子の言う通り、兄妹だからいいのか、たまには風呂くらい……?)
って、兄妹だからこそ良くねーよ。お兄ちゃんは頑張って我に返った。
「ちっさい頃とは違うだろ、その、いろいろと。お前だってわかるだろ」
「わかんない」
「わかんないかあ……」
遼太郎は脱力したが、見ると桜子は頬が赤く、目を泳がせている。
いや、わかってるわ、この子。
**********
そう、桜子は理解っている。
自分が結構スゴイこと言ってるのも、お兄ちゃんが言っている意味も。
(でも、一緒に入りたいんだ、お風呂っ!)
“妹”としても“女の子”としても、思いが荒らぶっているのだ。
遼太郎が「うん」と言えば、桜子は本当に一緒に入るつもりだった。
今の桜子に考えられる、兄と妹である自分達に許されるラブラブの限界が、“一緒にお風呂”だった。
(常識的には限界超えている気もするけど……!)
けれどその限界が、また一歩桜子を “本当の気持ち”へ踏み込ませる気がする。
(踏み込んじゃいけない方向に、踏み外しかけている気もするけど……!)
またそれとは別に、一緒に買い物して、手料理食べさせて、それからお風呂……と新婚さんゴッコをコンプリートさせたくもある。
(お風呂で新婚さんはマズい気もするけど……///)
まあ、ちょっとエッチい期待が、なくはないという自覚はある。ただ、絶対にヘンなことにはならないとも思っている。
なぜなら、そこにいるのが遼太郎だからだ。
桜子は自分がどれだけ暴走しても、本当にダメな時は、必ず遼太郎が止めてくれると信じている。
(お兄ちゃんは、いつだってあたしを傷つくことから守ってくれる)
あたしが望んでも、それが間違っていれば、叱ってくれるんだ。お兄ちゃんがダメって言うなら、少し残念だけど、あたしちゃんと言うことが聞けるよ……?
だけど、お兄ちゃんがダメって言わないなら、その時は――……
(だから今日は、お兄ちゃんが怒るまで突撃していこう)
途中まではいいこと言ってたけど、結論がダメだった。遼太郎への絶大なる信頼、それすなわち“ブレーキの丸投げ”。“アクセルべた踏み”は妹の特権なのだ。
お兄ちゃん、頑張って。
**********
さて、妹のワガママな信頼を一身に受けるお兄ちゃん、ここでようやく根本的な疑問に頭が追いついた。
「そもそもお前、何でそんな一緒に風呂入りたがるワケ?」
「ふえっ?!」
これには桜子がうろたえる。
(だって、それ言っちゃうと、もう全告白じゃないかあっ!)
桜子はことさらスンッとした顔を繕うと、
「それは、ほら、久しぶりに懐かしくて? みたいな? て言うか、りょーにぃはオトナに成長した妹とお風呂入りたくないのかよ」
「えっ…………ないよ」
今、ちょっと答えに間があった。
遼太郎は深いため息をついた。だから、オトナに成長したからダメなんだろ……
「ハア……聞け、桜子。真面目な話、変な話なんだけど」
「え、どっち?」
「真面目に変な話なんだよ」
遼太郎も言い回しのおかしさに気づいたが、こっちだって困惑してるんだ。
「いいか……何て言うか……お兄ちゃんも、いわゆる健康な男子高校生だ」
「うん」
桜子が真面目な顔で頷き、遼太郎はひと呼吸入れて、変な話を続ける。
「だから、たとえ妹でも“女の子”と風呂に入ったら、その……“元気なお兄ちゃん”になる可能性が、ないとは言い切れない……かもしれない」
桜子の耳から入った情報が、脳で処理されるまで若干ラグがあった。それは数秒後、首から上に一気に血が昇るという反応を引き起こす。
「ふ、ふえええええっ……?!」
お、お兄ちゃんの腰から下に、一気に血が下がるという反応が?!
「お、穏やかじゃない!」
「穏やかじゃねえよ」
「あ、あ、あたしで……っ?!」
さすがに遼太郎も耳が赤くなって、
「だから、可能性の話だよ、可能性の」
(いや、妹にする話か、これ)
妹さんが、まあ、フツウの妹さんとは違いますので、世間一般のお兄さんよりご苦労が絶えないことかと思われます。
桜子は顔真っ赤、目はぐるぐるの“はわわ”状態になっていて、遼太郎の方だって平常運転とは言いがたい精神状態だ。
「だ……だって兄妹だよ? “あたし”で“そんなん”なるの……?」
「お前で、と言うより、あくまでも“女の子と風呂”というシチュで、だ」
「シチュで! 何だ、この敗北感!」
「オトコのココロとカラダって、“そーゆーもん”なんだよ」
「オトコ怖え!」
おののいた桜子に、遼太郎は幾らか平常心を取り戻した。
「そうだよ。オトコには怖いところがあるんだよ」
突っ立ったまま顔から火の出る、マッチ棒妹を見上げる。
「なあ、桜子。この際だから言うけど、記憶を失くしてこっち、お前は歳の割に結構子どもっぽい気がする」
桜子がムッとして言い返す。
「し、失敬な。桜子ちゃん、こう見えて見えないところは意外と大人だよ! やっぱりお風呂でその目で確かめて……」
「だから、そういうとこだって」
遼太郎に真面目な声で言われ、桜子はちょっとビクッとなった。
遼太郎もあまり説教っぽくならないようにしつつ、
「桜子の言う通り、中学生にもなると見た目はそれなりにオトナだよ。けどお前、お兄ちゃんと風呂入りたがるくらい無防備なとこあるだろ。平気でパンツ見せるし。学校でもそんなだと、男子だってそういう部分はオトナだぞ」
「そ、それくらいわかってるし、ちゃんとしてるし。スカートの下にはジャージはいてるし、お兄ちゃんの前だから気を抜いてるだけで」
「ちなみに兄は、スカートの下にはく短パンは否定派だ」
「えっ?」
「いや、何でもない、忘れろ……いや、待てよ」
「前に階段の下から、お前の縞々のパンツが見えたことがあったような……」
「記憶ない間ははいてなかったけど、今は短パンかレギンスか……え、お兄ちゃんこそ待って? 縞々ぱんつ?」
「何でもない。忘れろ」
「え? お兄ちゃん?」
いかん、思わずいろいろ洩れた。聞きとがめる桜子を無視して、話を続ける。
「俺が言いたいのは、家ん中だけってならいいけどさ、オトナがワカメちゃんみたいに外でパンツ見せて歩いてると、怖いオトコが寄ってくるぞってこと」
「う、うええ……」
桜子は首をすくめたが、ふと遼太郎をまじまじと見つめて、
「……これってもしかして、あたしを心配してくれてるって話?」
「もしかしなくてもそーだよ。お前は時々アホの子だから、可愛い妹に何かあったらとお兄ちゃんは心配なのです」
遼太郎の目が呆れながら優しくて、桜子をきゅんとさせた。あたしがバカ言ったり妄想してる時にも、お兄ちゃんはあたしのことを大事に考えてくれてるんだ、と。
でもねえ、お兄ちゃん。ひとつ、わかってないよ?
あたし、誰にでもこんなバカ言ったり、無防備だったりするワケじゃないんだ。好きな人の前だけに、決まってるじゃないか、バカ……///
**********
しかしまあ、お兄ちゃんにムチャ言ったことは反省した。ただ、素直に撤回するのも悔しい気がする。桜子は腕組みして神妙に、
「そっか……怖いんだね、男の人って」
「まあ、男が怖いんじゃなく、怖い男もいるってのが正確だけどな」
と、桜子はそこで悪戯っぽく笑ってみせた。
「ふぅーん、じゃあ、りょーにぃはどうなのさ? 妹相手に“そんなん”なっちゃうかもしれないんだし、案外“怖い男の人”なんじゃないの~?」
ふっふっふ、言ってやった、言ってやった。照れ隠しに、お兄ちゃんにも焦ってもらいます。
ところが遼太郎は、
「うーん、そう言われると、そうなのかもなー」
人差し指で鼻の下を擦ると……
すっと立ち上がり、桜子の肩に腕を回し、膝で桜子の膝裏をかくんと折った。
「ひゃっ……?」
当然桜子は背後に倒れるのだが、上半身はしっかり支えられ、ふわっと寝かされるようにテーブルに仰向けになる。遼太郎の腕の中だと、ひっくり返されているのに、ちっとも怖くはなかった。
が、その安心感もつかの間、桜子の顔の横にバン!と手をついて、遼太郎の上半身が覆い被さってくる。それも真顔で。
「うあ……お、お兄ちゃん?」
「だから、兄妹でもあまり安心しない方がいいかもな」
「それとも、少し“怖い目”に遭ってみるか……?」
(ぎゃー! お兄ちゃんのドS“少コミの王子様”キター!)
大好きな人に押し倒されて、こんなの、照れ隠しも意地悪も風前の灯火……!
(い、今あたし、何を“命令”されても逆らえない……///)
しかも今夜のお兄ちゃん、いつになくグイグイというか、もう鼻と鼻がぶつかりそうなんですけど、まだ来ますの……チュッ。
(……う、そ……?)
今……唇……当たった……おでこに軽く、だけど……
前にもチューされたことはあったけど、あの時は頬っぺだったけど、今回はおでこだけどこんな体勢で……
(え、どっちがキスのレベル高いの……?)
遼太郎が身を起こし、惚けたようになった桜子は腕を取られて引っ張り起こされて、くるりと後ろを向かされて……
「わかったら、とっとと風呂入ってこい」
パアンッ! 「やあんっ?!」
いつだったかのように、音も高くお尻が叩かれた。
(ドS“物理”のコンボきたー……)
ジンッと肌が熱いようになって、もうどんな”命令”でも逆らえない……!
桜子は両手でお尻を運ぶようにして、
「ん、わかったあ/// 入ってくるう///」
言われるがまま遼太郎の傍を離れた。そしてリビングを出ようとして……
ゴン 「あいたー……」
「お、おい。大丈夫か?」
ドア枠におでこをぶつけて跳ね返された。遼太郎が驚いて腰を浮かしかけたが、桜子はにへらっと惚けた顔で振り返って、そのままフラフラ階段の方へ出て行った。
「いや、マジで大丈夫―?」
遼太郎が声を掛けたが、桜子さんの耳には届いていなかった。
遼太郎は自分の右手を見下ろした。でこチューに尻パン。苛めてやったつもりが、何かよくわからないが嬉しそうな妹の頭から、上手い具合に「一緒にお風呂」も吹っ飛んでいったらしい。
「……使えるな」
遼太郎がぽつりと呟いた。
叩く躾というものは、教育上あまり宜しいとは言えません。ただし需要と供給、双方同意の上、お互いWin-Winなら、周りがとやかく言うことでもない……のでしょう。たぶん。




