兵士と従軍酒保
闇夜が周囲を覆いつくす頃、蛸壺と呼ばれる一人用の塹壕の中でルイスはズキズキとした鈍い痛みが走る頬をそっと撫でた。
帝国軍による襲撃を撃退した後、ルイスは後続部隊に民間人と負傷兵を引き渡してから間もなく、小隊長に殴り飛ばされた。もんどり打って倒れ込んだルイスの胸倉を掴んで引き起こした小隊長の表情は怒りに満ち溢れていた。
それから始まった説教はそれはそれは凄まじかった。待機命令を無視したことは勿論、ルイスの行動の結果として小隊……敷いては展開した中隊全体を危険に晒したとして怒鳴られ続けたのだ。
無論、ルイスにその様な意図は無かった訳だが、結果を責められては何も言い返すことはできない。説教が一通り落ち着いたらば解放されると期待して耐えたルイスだったが、そんな虫のいい話がある訳もなく……説教の次は軍人が反省する為に行われる最もありふれた罰の一つであると言っても過言ではない腕立て地獄が彼に襲い掛かったのだ。
襲撃によって破壊された防衛線の復旧作業を行う仲間達の前で繰り広げられた、終わりの見えない腕立て伏せを乗り越えた彼はヘトヘトだった。
中隊本部から夜間立哨の命令が下ったのはそんな時だった。
昼間に行われた帝国軍の攻撃を受け、司令部は夜間の歩哨を二倍にすることで安全を確保しようと考えたらしい。聞いた話だと司令部の指揮官連中も、安全な要塞から打って出て無謀な突撃を行ってきた帝国軍の意図が読めず混乱しているらしい。
そのせいか奇襲攻撃に対して神経質になっているのだろう。気持ちは分かるが、昼間の戦闘から休むことなく急な警戒任務を与えられる俺のような下っ端にしてみれば迷惑この上ない話しだ。
「寒いな……」
戦争が始まった時は蒸し暑かった夜も、開戦から数か月が経過した今では昼間とは打って変わって肌寒くなっている。昼間は鬱陶しかった長袖が今では大事な防寒着だ。
しかし、昼間から続いた腕立て伏せで大量の汗を吸い込んだ上着は貴重な体温を奪うばかりで一向に温まらない。
多少無理してでも天幕に戻って外套を取ってくればよかった。
後悔先に立たず。今となっては疲れ切っていたことを理由に、そのまま警戒配置についてしまった自分を恨むしかない。
「お疲れ様です。コーヒーはいかがですか?」
声をかけられたのは、そんなタイミングだった。
「おっ! ちょうど暖かい飲み物が欲しいと思っていたんだ。ありがとう」
だからだろうか。確かに感じた違和感に疑問も持たずに、差し出されたカップを受け取ってしまったのは……
「はい! お買い上げありがとうございます!」
「へっ!?」
慌てて声の主に視線を向けると、そこには女の子が立っていた。レースの模様が入った白いシャツに紅色のスカート、それらを包み込むように羽織られた防寒用の茶色いマント……その姿はどうみても戦場には似つかない。
まるでどこかの大きな町に住む娘のような華やかな服装に身を包み、三つ編みにしてまとめた亜麻色の綺麗な髪。
殺風景な戦場でこの様な服装をする女性達のことをルイスはよく知っていた。
「君、もしかして従軍酒保さん?」
「そうですよ。ご利用になるのは初めてですか?」
目深に被っているフードのせいで口元からしか表情が伺えないが、口角が上がったのを見るに笑っているのだろう。
「そうだね。まさか噂に聞く従軍酒保さんがこんなにズル賢いとは思わなかったよ」
「やだなぁ。人聞きが悪いですよ」
「いやいや、人聞きも何も事実じゃないか!?」
冗談じゃなく不服そうな声音に思わず、反論の声は上ずってしまった。比較的温厚と言われるルイスでも、金額も言わずに騙し討ちのような売り方をされては文句の一つも言いたくなる。
「冗談ですよ。でも、ちょうど暖かい飲み物が欲しかったんじゃないですか? 見たところ兵隊さんはコートも着てないみたいですし……」
色々と言いたいことはあるが、この子の着眼点は間違っていない。この寒空の下で冷え切った身体を温めるのにコーヒーは最高のアイテムに違いなかった。
「いやぁ君はホント商魂たくましいな……まさしくその通りだよ。いくら出せばいいかな?」
「お金はいりませんよ。これは私からのサービスですから」
「それはさすがに悪いよ。僕、こう見えて兵隊だから金には困ってないんだ。なんて言っても給料を使う場所が無いからね」
冗談めかして話したルイスに、少女は小さく微笑んだ。
「お気持ちはありがたいですが、これは兵隊さんへのお礼なんですよ。私が従軍酒保だから勘違いされているのかもしれませんが、命の恩人にお礼の品を送らないほどお金にがめつい女じゃありませんよ」
そこまで聞いてようやく彼女の正体に思い至った。昼間とは違いフードを被っていなかったので気が付かなかったが、彼女が羽織っているフード付きの茶色いマントには確かに見覚えがあった。
「君……もしかして昼間の女の子かい? 無事だったんだ!」
「はい、勇敢な兵隊さんのお陰でこうして五体満足で仕事ができています」
「よしてくれ。僕は自分の仕事をしただけだよ。本当に勇敢なのは民間人でありながら僕達の仲間を助けてくれた君の方だ。本当にありがとう」
頭を下げたルイスに対して、慌てたのは少女の方だった。
「ちょっと待って下さい! お礼をしたいのは私の方です……助けてくれてありがとう。帝国軍に追いつかれてもうダメかと思った時、貴方が助けに来てくれて本当に嬉しかったんです。それをどうしても伝えたくて……」
「それを伝えるために、こんな寒空の下に出てきてくれたの?」
少女の顔がカッと朱に染まった。そのまま、すぐに顔を下げてしまう。
どうやら図星だったらしい。いくら鈍感と呼ばれるルイスでも、この少女の反応を見て彼女の気持ちを量れないほどではない。
だとしたら彼女は相当健気な子だと思う。いや、思い返せば敵に追われる状況下で民間人の身でありながら、傷付き倒れた兵士に肩を貸すほど勇敢な少女なのだ。
可愛らしい見た目に騙されそうになるが、女の子とは思えない行動力があるのは間違いないだろう。
「ありがとう。でも大丈夫だよ。さっきも言ったけれど、僕たちの仕事は国民を守ることなんだ。君がコーヒーを売ることで生計を立てているように、僕たちは国民を守ることでお金を貰っているんだからね。感謝されるようなことはしてないよ」
語りながらルイスの手は自然と少女の頭に触れていた。
幼い子に言い聞かせるような話し方をしたからか、はたまた俯いた少女が存外に幼く見えたからか……理由はルイスにも分からなかったが、少女はルイスの手を振り払わなかった。
「例え仕事だとしても、危険を冒して私たちの命を助けてくれたのには変わりありません。ここで働く兵隊さん達はみんな優しくて勇敢な人たちです」
ニコリと微笑んだ少女の顔は、年相応に幼く愛らしい。ほんの数時間前に帝国軍の決死の突撃という、戦場の狂気を覗き見たルイスにとって、それは忘れかけていた日常を感じられるものだった。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。正直言って命令を無視したのが正しかったのか僕にも分からなかったから」
「あら、兵隊さんは私を助けたことがご不満なんですか?」
「そんなまさか! 君を救うことに躊躇いは無かったし、可愛い女の子がこうして笑顔でいてくれると、酷いことばかり起こる戦場でも幸せになれる気がするんだ」
ルイスの言葉は彼の本心だったが、少女はまたも顔を赤くした。
「面と向かって可愛いとか言われると、結構恥ずかしいんですね……」
「ごめん。何か言った? よく聞こえなくて」
「何でもありません! えっと、私を助けた事は間違ってないと思うなら、兵隊さんは何に悩んでるんですか?」
少女の声は恥ずかしさの為に上ずっていたが、直前の言葉を聞き逃したルイスには、生憎とそのことを知るすべはない。
「まぁほら、好きでなったわけでは無いとはいえ僕は軍人だ。それなのに命令に逆らって仲間を危険に晒してしまった。それはやっぱり良いことじゃないよ」
少女が急に挙動不審になった理由について、全く心当たりがないルイスは少女の質問に若干の違和感を覚えつつも誠実に答えることを選んだ。
「好きでなったわけじゃない? と言うことはもしかして……」
「ん? あぁ、僕は志願して入隊した職業軍人じゃないよ。今年の春先に十八歳になって徴兵された矢先に戦争が起こっちゃったからね。兵役は国民の義務だから不満に思ったことは無いけれど、やっぱり戦争は嫌いだな」
少女は驚いたように目を見開いた。
「やっぱり。兵役ってことは私と同い年じゃない! 私も今年の冬で十八歳になるのよ」
「へぇ、驚いたな。てっきり年下かと思ったよ」
「ちょっと、それどういう意味!?」
「待って、良い意味だって! ほら、何というか雰囲気が可愛い感じだったからさ」
驚いたり怒ったりと表情がコロコロ変わる人とは、この少女のことを指すのだろう。それくらい少女の表情は豊かだった。
「ふーん。まぁそういうことにしておくわ」
先程とは打って変わって、まんざらでもない笑みを浮かべる少女を見てルイスは安堵のため息をつく。コーヒーを貰ってからこのかた彼女に振り回されっぱなしのルイスだったが、今の彼は戦場に派遣されてきて始めてじゃないかと思うくらいリラックスしていた。
活発な少女の勢いに引っ張られる形で、ルイスの表情にも自然と笑顔が表れ始めていた。既に何人もの戦友が銃弾に斃れ、死の恐怖が身近に迫っていたルイスにとって少女との時間はこの上なく幸せなものに違いなかった。
「あっ! どうしよう、もうこんな時間。ごめんね。私もう行かなくちゃ」
彼女の言葉に導かれるように、胸の懐中時計を見ると少女と会ってから三十分以上の時間が過ぎていた。当直立哨の時間がこんなに早く過ぎ去る様に感じたのは今回が初めてのことだった。
「待って! 君の名前を聞いてなかった。僕はルイス。ルイス二等兵だよ。君は?」
「私はオリビア。また会いましょう! ルイスさん」
「オリビアだね。分かった。また君からコーヒーを買うよ! 次はしっかりお金を払うから、また売りに来てくれ!」
オリビア
嚙みしめるように発音したその名前の少女は、ルイスのささやかな日常の中に宝石のような輝きを残していった。それは最早ルイスにとっても隠しようのない事実になっていた。
彼女の持つランタンの灯りが、周囲の光に溶け込んで見えなくなるまでルイスの瞳はオリビアを追い続けた。
やがて来るであろう再会の日を想って……