帝国の英雄
今日も何とか乗り切った。
沈む夕日に照らされながら帝国軍の英雄たる彼女は、小さくため息をついた。周囲に敵影が無いのを入念に確認してからそっと立ち上がり愛用の狙撃銃を持って塹壕に飛び込む。
トーチカに居ては敵の集中砲火を受けるからと、敢えて味方の陣地から少し離れた位置に伏せていたおかげで、彼女は殆ど妨害されることなくその正確な射撃を共和国軍に見舞っていたのだった。
「イルゼ大尉! ご無事でしたか!」
彼女が塹壕に戻ったのを見たのか、軍服に伍長の階級章を縫い付けた女が駆け寄ってきた。
「ええ、味方が攻撃を引き付けてくれたおかげよ。それよりもハミルトン伍長、十二番トーチカが集中砲火を浴びていたように見えたけれど彼らは無事かしら?」
ハミルトンと呼ばれた女……否、少女は自分のことよりも仲間の無事を確認しようとするこの愚直な上官をよく信頼していた。だが、それ故に彼女の問いに沈痛な表情を浮かべるほかなかった。
「十二番トーチカは敵の猛烈な射撃を受け退避不能と判断し、通信機を破壊しました。恐らく彼らは既に……」
「そう……では、大隊長に遺品整理に人を割いてもらうようにお願いしておきます。本当は遺体を収容したいけれどトーチカはもう敵の手に落ちてしまったのでしょう?」
そう言って無念そうに唇を噛むイルゼの姿にハミルトンはもどかしさを覚えていた。このトーチカが撃破されたのは物量に任せて突撃を繰り返す共和国軍を前に、防御の要だった機関銃の弾薬が払底したことで接近を許してしまったのが原因で、決してイルゼ大尉のせいではない。
むしろ、彼女が敵の将校や通信手を撃破しなければ、勢いに乗った共和国軍にこの陣地は突破されていただろう。それ程に危うい状況の戦線をイルゼの狙撃が支えていたのだ。
「ですが、それは大尉のせいじゃありません。むしろ、我々は大尉に感謝しているのです。貴女が居なければこの要塞……いや、この背後に控えるエリーの街の人々を守ることはできなかったと思います」
要塞の後ろに控える帝国海軍の要所エリー地区。そこでは今、海軍と民間商船が協力して民間人退避の為にピストン輸送を行っているのだ。
共和国がエリー地区侵攻を目的とした包囲網を構築している。この情報を得た海軍は意外にもエリー港放棄を決断。民間人退避を目的とした遅滞作戦を陸軍に要請したのだった。
その結果、陸軍はかつて難攻不落の要塞と謳われたバックラー要塞に一個旅団を派遣し、この地の死守を命じたのである。
「ハミルトン伍長、この状況に楽観はできないわ。共和国軍の攻勢は日々激しさを増しているのに対して、こちらの戦力は櫛の歯が欠けたように減っていく一方よ。この要塞はいつ陥落してもおかしくない瀬戸際にいるのよ」
イルゼ大尉は元々、この旅団に所属していたわけではない。この要塞の重要性を理解していた軍上層部が、他の戦線で狙撃手として戦果を挙げ、多数の勲章を授与されていた彼女をこの旅団に貸与させたのだ。前の戦線での経験からか、彼女は事態を楽観視することは決してしなかった。
「失礼しました。ですが、海軍はやってくれるのでしょうか?」
エリー地区に住まう民間人は推定十五万人。海軍は輸送船のみならず病院船や駆逐艦なども含めた多数の艦艇や航空機を動員しているが、それでもこれほどの人数を一気に輸送するには最低でも一ヶ月程の時間が必要とされていた。
当初、陸軍内では共和国軍の猛攻を一ヶ月もの長期にわたって防ぎきることは到底不可能と目されていた。それ故に『この遅滞戦闘には意味がなく、野戦における決戦によって敵主力に少しでも多く打撃を与えるべき』という論調が陸軍上層部の一部から噴出していたほどだった。
しかし、現地部隊は予想以上の粘りを見せ四週間もの長期にわたってバックラー要塞の防衛線を死守して見せた。これにより当初は絶望視されていたこの撤退作戦の成功に光明が見え始めていた。
「海軍のことはわからんが、俺達がここまでしてやったんだ。民間人を一人でも残しやがったら司令官の顔面をぶん殴ってやるさ」
唐突に聞こえた男性の声にハミルトン伍長が慌てて不動の姿勢をとった。
「ヨハネス中佐! どうしてここに?」
ハミルトン伍長が動転するのも無理はない。唐突に表れたこの男こそ、彼女達の上官である第三遊撃大隊の大隊長、ヨハネス中佐その人だったのである。
「ん? 共和国軍の総攻撃を二度も防いだ英雄の無事を、直属の上官が確認しに来ることは何も不思議ではあるまい」
「やめてください、ヨハネス中佐。私には過分な評価です」
大隊長から直接褒められてもイルゼ大尉は舞い上がることなく、それどころか恐ろしいほどに謙虚であった。ここまで謙虚だと逆に疎まれそうなものだが、幸いにもヨハネス中佐は彼女の謙虚さを好意的に捉えていた。
「君のそういうところが英雄と呼ばれる一助になっているのだろうな。言葉だけは勇ましい内地の参謀連中にも君の爪の垢を煎じて飲ませたいよ」
そう呟くヨハネス中佐の表情が曇ったのをイルゼ大尉は見逃さなかった。
「本国が何か言ってきたのですか?」
「……全く君の洞察力には驚かされるよ。今しがた本国から怪文書が届いた。読んでみろ」
そう言ってヨハネス中佐はイルゼ大尉に紙切れを手渡した。どうやら電信で送られてきたものを通信士が文字に起こしたものらしい。
素早く打ち込まれる電信を慌てて書き留めたせいか所々字が歪んでいて読みづらいが、何よりもイルゼ大尉を驚かせたのはその内容であった。
*
第二十九旅団将兵ニ告グ
諸君ラノ活躍大ナレド、敵ハ卑怯ニモ我ノ鉄道網ヲ奪取。
之ヲ利用シ我ガ海岸部ヲ強襲セント画策中ナリ。
之ヲ許ス事アラバ、帝国ノ鉄道兵站網ニ重大ナル危機ガ発生シウル可能性極メテ大デアル。
依ツテ第二十九旅団ハ能否ヲ超越シ国運ヲ賭シテ鉄道奪還作戦ヲ断行。モッテ共和国陸軍主力ヲ粉砕スベシ。
戦機マサニ熟セリ。前線将兵ハ連戦連勝陸軍ノ栄光ト神明ノ加護ヲ信ジ敵部隊ヲ撃滅セン。
発:陸軍参謀本部 作戦課長
宛:第二十九旅団司令部
*
「何ですか? これ?」
それこそが文書を読み終えたイルゼ大尉の感想だった。後方の民間人を逃がすために、これまで一貫して遅滞戦闘を行ってきた第二十九旅団に対して『要塞を捨てて鉄道を奪還せよ』などという命令は余りにも非合理的である。
「そう思うだろ? こりゃあ完全な怪文書だな」
中佐は私の反応に満足したようでニヤリと笑うと怪文書をクシャクシャに丸めて投げ捨てた。
軍の命令書を処分するのに、そのようなやり方では情報漏洩の可能性があり適切ではないとされるが、今回の文書は怪文書という扱いだから問題ないと考えたらしい。些か横暴だが、前線指揮官としてみればこんな馬鹿げた文書を命令書として扱いたくは無いと思って当然だった。
「参謀本部の豪華な椅子にふんぞり返った若造には、前線のことなどこれっぽっちも理解できないらしい。そもそも我が第二十九旅団には共和国陸軍二個師団と正面からぶつかって勝てる戦力は残されていないではないか」
静かに語るヨハネス中佐の語気は怒りに震えていた。だが、それとは対称的にイルゼ大尉は冷静だった。
「ヨハネス中佐。非合理的かつ無謀な命令とはいえ、この命令は参謀本部から送られてきたものに違いありません。握りつぶされるおつもりですか?」
「今、この作戦の指揮を執っているのは海軍司令部だ。そこを通していない命令など如何に陸軍参謀本部からの命令と言えど従う必要はない。と旅団長には進言したんだがな……」
そこまで言うとヨハネス中佐は悔しそうに俯き唇を噛みしめた。彼の姿を見れば旅団上層部がどんな決断を下したのか容易に想像がつく。
イルゼ大尉はこの戦争が一筋縄ではいかないことを悟った。