前線基地
前線基地の様子は総攻撃前に見たものとはだいぶ違っていた。攻勢前の活気は噓のように無くなり、代わりにあちこちから負傷兵の呻き声が聞こえてくる。
撤退命令が出されたことよりも、この前線基地の状況こそが第二次総攻撃の失敗を雄弁に語っていた。
「デイビット少尉! デイビット少尉はいるか?」
基地について早々、デイビットを呼ぶ声が響き渡った。疲れ切って帰ってきたばかりで、休息をとる間もなく呼び出された彼は、げんなりしながらも将校の務めとして声の主を探すことにする。
だが、幸いにも声の主はすぐに見つかった。顔を上げた視線の先に、士官の階級章を軍服に縫い付けた副官をぞろぞろ連れた男が、こちらを向いて片手をあげていた。彼の肩にはひときわ輝く大佐の階級章が誇り高げに居座っていた。
「なっ小隊! 気を付けぇ!」
デイビットの一声で疲れ切た様子だった小隊員達が弾かれた様に姿勢を正す。デイビットが慌てるのも無理はない。軍隊において大佐の階級章を付けることが許されるものは大概、高位の役職を持っているものだ。
上級将校が闊歩する本国の作戦司令部とは違い、ここは銃弾が飛び交う戦場だ。その階級章を付けているものは更に限られてくる。今、目の前で副官連中に囲まれながらやってきた歩兵連隊長などがいい例だ。
「連隊長殿に敬礼!」
デイビット達の敬礼に連隊長は慣れた様子で答礼を行うと、副官の一人から書類を受け取った。
「まずは君たちの無事を祝いたい。よく無事に帰ってきた」
「ありがとうございます。しかしながら、今回の攻撃で多くの部下を失いました。志半ばで死んでしまった彼らのためにも断固としてこの要塞を奪取する所存です」
痛ましげな表情を浮かべるデイビットにチラリと目を向けた連隊長は、副官から貰った書類の一つを広げ始めた。
「素晴らしい心意気だな。その君を見込んで頼みがある」
「……何でしょうか?」
面倒ごとを予想したデイビットの顔が一瞬引きつった。連隊長直々の頼みなど絶対に碌なことではないと直感が告げていた。
「時間がないから単刀直入に言わせてもらう。今回の攻勢で戦死した第二中隊長に代わって君が中隊の指揮を執ってほしいのだ」
「私がですか!? いや、しかし……」
狼狽えるデイビットであったが、下級士官に過ぎない彼が連隊長からの頼み……いや、命令を拒絶することなどできるはずはなかった。
「やってくれるな?」
「……了解しました。謹んで拝命いたします」
デイビットの回答に連隊長は満足そうに頷くと、副官から受け取った書類を彼に手渡した。
「よろしい、中隊長任官に伴い原刻をもって貴官を中尉に任命する。二十分後にブリーフィングを行うから資料に目を通しておけ」
連隊長はそれだけ言い残すと副官たちを連れて去っていった。デイビットにとって見ればまさに奇襲攻撃を受けたようなものである。
彼が思わず深いため息をついた丁度その時、前線基地内に甲高い汽笛の音が鳴り響いた。音につられて皆が視線を向けた先には、もうもうと黒煙を上げながらゆっくりと基地の中ほどへ進出してくる機関車の姿があった。
開戦時に帝国と共和国を結んでいた鉄道は、補給路にされることを嫌った帝国軍の手によって破壊されていたが、共和国軍の進撃と共に失われた鉄道網は徐々に復旧されていたようだ。
平時には多くの人々を輸送することで両国経済を潤わせてきた鉄道も、戦時となった今では兵隊や軍需品を運ぶ武器の一つに成り下がってしまったという訳だ。その歴史を知っているせいかデイビットには戦場に響き渡るブレーキ音が彼女の悲しみを体現しているかのように見えた。
悲しい歴史を背負った列車に思いを馳せていると、今しがた停止したばかりの列車を中心に厭戦気分が漂うこの基地には似つかわしくない歓声が上がった。
「何の騒ぎでしょうか?」
「さぁな、内地から援軍でも派遣されてきたのかもしれん」
ルイスの疑問に答えたデイビット自身も汽車を中心とする騒ぎの原因を図りかねていた。
「おーい、従軍酒保が来たぞ!」
だが、それも俄かに沸き立つ若い兵士たちの声が聞こえてくるまでだった。
「デイビット少尉……もとい中尉。その……聞きにくいんですが従軍酒保って何です?」
従軍酒保と聞いて納得したデイビット中尉に対して、ルイスは全く分かっていないようではしゃぐ兵士達を不思議そうに見つめている。
「あぁ、お前は初めてか? 従軍酒保ってのは最前線まで酒や煙草なんかの嗜好品を売りに来る軍部公認の特権商人のことだ」
成る程、常に強いストレスに晒される戦場において酒や煙草などの嗜好品を販売する商人が歓迎されない道理はない。だが、従軍酒保というものを知らないルイスの眼には、従軍酒保が来たことによるこの基地の熱狂ぶりは少しばかり異様に映ったようだ。
だが、若い兵士たちに囲まれた従軍酒保の一団が彼らに近づいてくるとルイスの考えも変わった。
「デイビット中尉! もしかして従軍酒保って彼女達なんですか?」
ルイスが目を向ける先には、戦場には似つかない綺麗な柄のワンピースやスカートで着飾った少女たちが、軍服を着た兵士たちに様々な物資を販売している姿があった。
男が大半を占める戦場において一般的に見かける女と言えば、負傷兵の血で白衣を真っ赤に染めた看護婦くらいなものである。対してルイスが今目にしている華やかな柄の洋服に身を包んだ小綺麗な少女など安全な街でしか見かけることは無かったのだから、ルイスの思考は停止気味になっていた。
「そうだ。俺も初めて見たときは驚いたが従軍酒保ってのは基本的に若い女性たちで構成されているのさ。年頃の美女達が嗜好品の類を山ほど持ってくれば、見ての通り前線将兵の士気は大いに回復する。上もよく考えたもんだ」
「しかし、危険じゃないんですか? 前線基地とはいえここも立派な戦場です。あんな目立つ格好ではそれこそ例の狙撃手にとって格好の標的ですよ」
ルイスの懸念はもっともだったようでデイビットはその表情を曇らせた。
「これは聞いた話だが、彼女達は戦局が芳しくない地域に優先的に派遣されるらしい。当然、リスクは高くて過去にも敵の襲撃を受けているって話だ。噂が本当だとすれば武器を持たない彼女達がどんな目に合ったのかは想像に難くない。ある意味では俺達よりも過酷な仕事なんだろうよ」
デイビットはそう呟くと懐から煙草の箱を取り出し口にくわえた。これ以上、この話題について話す気はないらしい。
「あぁクソ、マッチが切れた。嬢ちゃんマッチと煙草をくれ! ああそれじゃない、共和国産は不味いんだ。連邦の煙草をくれ」
少女を呼び止めて早速、嗜好品を買い求める上官を見送りながらルイスは先程の話を受け止めかねていた。前線将兵の為とはいえ、危険極まりない戦場に彼女達のようなか弱い少女を平気で送り込む共和国上層部に、ルイスは何とも言えない不満を抱き始めていた。
軍隊が守るべきは果たして何だったのだろうか? 共和国の正義と勝利を信じて戦ってきたルイスにとって彼女達の存在はそれを揺るがすものだった。
「ルイス! 何してる、ボーっとしてないでさっさと天幕を張ってこい。もう少しで日が暮れるってのに天幕が無きゃあ、うちの隊だけ野宿になっちまう。折角、うんざりするほど狭い塹壕から出られたってのに野晒しじゃあんまりだ」
小隊では古参の軍曹に声をかけられたことでルイスの思考は立ち消えた。撤退命令が出たときは昼下がりだったはずだが、いつの間にかそんな時間になっていたらしい。
「すみません。今やります」
「他にも何人か人をやる。任せたぞ」
「了解しました」
軍曹に挙手の敬礼を行い駆け出したルイスの視界に、ふと夕日に照らされ煌々と輝くバックラー要塞が入り込んだ。
いつもなら気にも留めない様なありふれた景色だったが、今の彼には要塞を照らす紅い光が攻略戦で散っていった戦友たちの犠牲を象徴するものに見えて仕方がなかった。