前編
──もう何千の冬を越え春を迎えたかおぼえてはいない
その角の生えた小さな甲虫のような彼は孤独だった。
遥か気の遠くなるような昔から彼は人の及ばない深い深い森の中で1匹……いや1人で過ごしてきた。
彼の生命活動の源となるものは神樹に宿る聖光気であったり聖山に眠る特別な聖鉱と呼ばれるものであった。
自分がいつ生まれたのか、何の為に生きているのか
そんな事を考え始めたのはごくごく最近の事で動く生物を見ると自分の心の中にいつの間にかあった穴が少し満たされる気がした。
そんなある日あと数十年はエネルギー源を摂取しなくても生きられると判断した彼は永い時を過ごした森を離れることを決意し、そして人里へと飛び立った。
──それからは沢山の人を見た
1センチ程しかない彼の身体はどこにでも身を隠すことが出来たし、魔力を纏えば隠遁する事も容易かった。
街から街へ。
良い人間もいれば悪い人間もいた。
愛し合う人間がいれば戦争もあった。
主に彼は観察に徹したがごく稀に気が向けば浮浪児のような弱い者に餌を与えたり奴隷の少女の枷を解き解放するなど弱い者を密やかに助けるような事もした。
彼には当然人間で言う善悪の区別もなく、ただ衝動に駆られるままに行ったことであるが人間でいう善行を積んだ時は彼の中の何かが満たされる気がした。
しかし彼は学習する。
かつて救った少年が成人し結局は盗賊に成り下がって悪を為したり、奴隷商から解放してやった少女が非業の死を遂げてしまうというような事例は少なくなかった。
もちろん善き事を為す者もいたがそんな事例はごく少数で……
彼は次第に人間の営みを観察し介入する事に飽きていった。
真っ赤な夕陽の差し込むある日の夕暮れ時だった。
そろそろ故郷に帰ろうと考えていた彼は川のほとりの樹に止まって何をするでもなく休んでいた。
人間でいう疲れた、という感覚は彼には無かったが彼は千年以上生きた己の生に疲れを覚えていた。
何もかもが煩わしい──
そんなに好きになれそうにない人間の元から離れようと彼が考えを纏め結論を出したその時だった。
夕陽に照らされ金色に輝く美しい髪を靡かせながら少女が棒を振り回し不意に河原へと飛び込んできた。
何やらきゃっきゃっと喚きながら楽しそうに棒を振り回しただ草木を打つ。
彼とは数百メートル程離れており、発見される恐れはなかったが多少面喰らう。
少女はただ純粋に笑みを浮かべ何やら唄を口ずさみながら草木をひとしきり気が済むまで打ち付けると今度は川のほとりに駆け寄り衣服を脱ぎ捨て川面へと飛び込んだ。
流れるような動きだ。普段からしていることなのだろう。
彼はそんな少女をじっと見守る。
溺れぬように、という配慮もあったが彼は彼女という存在に惹かれた。彼女の身体から溢れる活力というものがそうさせたのだろうか。
それは千の刻を生きる彼に持ち得ないものだった。
数分ほどそうしていただろうか、やがて遠くから誰かの名を呼ぶ声が聞こえ近づいてくる。
それを聞いて少女は川面から上がり髪を絞ると呪文を唱え暖かいそよ風を起こし自らの身体を乾かし始めた。
これも手馴れた様子だ。
やがて先ほどから誰かの名を呼んでいた声の主の姿が現れると一糸もまとわぬ姿で岩に腰掛けていた少女に驚いた声を発すると何か一言、二言小言のような声を発し諦めの混じったような嘆きを漏らす。
察するところ、少女は良いところのお嬢様で女は彼女を探しにきた使用人といったところか。
やがて少女はまるで悪い事などしていないといった様子で服を着るとその2人は連れ立って何処かへと帰っていった。
次の日も、また次の日その次の日も彼女はこの広い河原で似たようなお転婆を繰り返した。
少女に惹かれた彼はこの数日、河原に棲みその様子を観察した。
「ヴィンセント、おお戦士たるヴィンセント
その剣は敵を薙ぎ大地すら震わせる
やがて旅立ち海を渡る
民草に安寧の日々を」
少女はこの地における伝説「英雄ヴィンセントの唄」を口ずさみ木剣や棒切れを振り回すことが多かった。
どうやら女の子なのに英雄に憧れ剣を振るっているらしい。
感情の無い彼は何とも可笑しみを覚える。
──面白い子だ
彼が物思いに耽っていた、その瞬間だった。
鉄砲水が川辺に立っていた少女の身体を攫い濁流の渦へとあっという間に飲み込んだ。
昨夜上流の方で降った雨が引き起こした災害らしい。
彼は狼狽える。
迂闊だった。
安寧の日々に注意を怠っていたのだろうか。
普段の彼ならしないようなミスであった。
止まっていた樹から音速で飛び出すと彼はありとあらゆる魔導を用い彼女を濁流から見つけ出し光の膜で覆い川面から掬い上げた。
彼は少女の身体を河原に寝かせると意識と息を確かめる。
呼吸は無く、心音も停止している。
再び魔導を用い少女の蘇生を試みたが彼の懸命の努力に関わらず一向に彼女の意識は戻らず心音も聞こえてこなかった。
彼は悲しかった。
彼に感情は無いはずであったがそれでも悲しかった。
さっきまで笑って唄っていた彼女がもう2度と動かないという事実がただ悲しかった。
長い時間少女の胸に縋るように佇んでいた彼はやがて何かを決心したかのように少女の耳の中へと侵入した。
暫く時が経つ。
動かないその少女の顔は木漏れ日に照らされ尚も美しい。
そうして2時間ほど経った頃だろうか。
少女を呼ぶあの女の声が聞こえる。
辺りの小鳥が逃げるように羽ばたくとやがて少女の頰に赤みが差しゆっくりと起き上がった。
「──レシュマ!レシュマさま!
またこんな所でお転婆を……」
繁みより現れた侍女にレシュマと呼ばれた少女は振り返る。
「心配かけてごめんなさい。
では帰りましょうか」
抑揚の無い声に振り返ったその顔に表情は無かった。
◇
レシュマ・フレイバーグのお転婆が終わってから3年の時が過ぎた。
15歳となり更に美しい少女となった彼女は幼い頃のお転婆が治る代わりに笑わなくなった。
フレイバーグ家はミッドランド帝国の辺境伯であり1人娘の彼女が身につけなければならないことは多すぎた。
作法や所作など貴族令嬢に相応しい教養を全て完璧にこなすレシュマであったが幼いある日の時点から花のように明るかった笑顔を見せることなく、嘗てのように悪戯をすることもなく彼女は快活さを失った。
それでも輝かんばかりのその美貌とその人離れした性格からいつしか彼女は影で「妖姫」と呼ばれるようになったという。
「レシュマよ」
午後の憩いの席で長い髭を蓄え一際素材の良い衣服に身を包んだ中年の男がカップを手に娘に語り掛ける。
「はいお父さま」
そう返す娘の声にも表情にも感情は無く、嘆きを堪えるように男は顔を顰める。
男の名はダル・フレイバーグ辺境伯。
レシュマの父であり都から外れた肥沃な土地を上手く経営する名君として知られていた。
また人並み以上の愛情をこの娘に注いでいた。
「お前はどこへ出しても恥ずかしくない……
自慢の娘だ。お前の母も草葉の陰で見守っておろう。
……切り出しにくい話なのだが、実はヤミル公爵家のご令息からお前に婚姻の話が来ておる……
ヤミル公爵は帝国の宰相であらせられる方だ。
如何ともし難かった。
……覚悟はしておいてくれ」
貴族の娘というものは本来ならば父の命令1つでどこへでも嫁ぐのが当たり前だ。
しかしこの男は申し訳なさそうに、辛そうに娘にそんな話を切り出した。
そんな様子を紅茶を啜る手を止めてレシュマはじっと観察するとやがて口を開く。
「それが貴方の望みであるなら。
また私の幸せであるならどこへなりと嫁ぎましょう」
感情の籠らない声でレシュマは父の顔を見つめ応える。
ややずれた、しかし如何にも殊勝なその回答に父親はまた悲しそうな顔をする。
「……もっと自我を出してもいいのだぞ、レシュマ。
幼い頃はそれで良く叱ったものだが今となってはお前のあの奔放さが懐かしい……
はあ……この婚姻も、お前の情緒も何とかならないものか」
レシュマは良い子だ。
幼い頃は屋敷を抜け出し連日のように侍女たちを悩ませたが、ある日突然に彼女のお転婆は治り、あれだけ嫌がった貴族令嬢の嗜みを粛々とその身に付けていった。
信じられない程の成長だが、まるで中身が入れ替わったように情緒を失った娘を見るとダル辺境伯は心が痛んだ。
まるで人離れした彼女を妖姫と陰口を叩く者もいたがそんな者は見つけ次第放逐してやった。
それ程に彼は娘を愛し、縁談が持ち上がっても今まですげなく断ってきたのだが、この国で2番目に偉い宰相の差配となれば娘を深く愛するこの男と言えど簡単には拒絶できなかった。
ダル辺境伯はため息を吐いて娘を見やる。
「……今日は好きなだけ好きなものを食べよ
宰相の息子に嫁入りすればお前は都暮らしとなる。
今の内に好きなことをせい」
「わかりましたお父さま」
相も変わらず機械的な返事しか返ってこない娘に父は嘆息した。
◇
「お父さまは何を嘆いているのでしょうか」
自室で侍女のメルに着替えを手伝ってもらいながらレシュマは心底分からない、と言った様子で首を傾げる。
メルは手馴れた様子で着替えを手伝いながらも苦笑しながらその問いに答えた。
「……旦那さまはお嬢様を心配なさっているのですよ。
貴女は何を為すのにも一生懸命です。覚えも早い。
ですが僭越ながら言わせてもらいますと、レシュマ様は何をしても楽しんでいるとも思えないし表情も動きません。その為、私にも貴女の好きな趣味も好きな食べ物ですら検討も付きません。
どれだけ貴女が優秀で貴族としての所作が洗練されていたとしても、これから先、男の方に愛されるのか……また貴女が幸せになれるのか心配なのですよ。
……申し訳ありません。
失礼な事を申し上げました。
何ならお暇を出して下さっても構いません」
レシュマは深々と頭を下げるその侍女を鏡越しにまじまじと見つめる。
彼女がお転婆娘であった頃にはよく夕方の河原に迎えに来てくれた忠実な侍女だ。
態度を見ても心の底から彼女の事を思っての言葉だとわかる。
「いえ、構いません。
私が知りたかったことです。
私は今の発言を無礼であるとは捉えてはいません」
「……レシュマさま」
なぜこういう時、この侍女は泣きそうな目で自分を見るのか。
彼には全く分からなかった。
だが今の話は何かの参考にはなる。
着替えを終え、メルが退出した後でレシュマはベッドの上に大の字で寝転び物思いに耽る。
「……やはり私の判断は間違っていたのだろうか」
判断とは彼が3年前に溺れたレシュマの中に入り彼女としての生活を続けていることである。
「レシュマよ……そろそろ目覚めてくれないか……?やはり私には人間のことは分からない」
そう呟き彼は身体の内に眠るはずのレシュマへと問いかける。
3年前、鉄砲水に攫われ溺れたレシュマは外傷こそなかったものの彼が蘇生治療を試みても目覚めることは無かった。
しかし身体は未だ生きており生命活動を維持していればレシュマの意識は目覚める可能性は高いと踏んだ彼は彼女の体組織を傷つけることなく脳内に侵入し、彼女自身が目覚めるまでレシュマとして生活することを選んだ。
自分でも何故そのような不合理な行動を取ったのか分からない。
ただ彼女を死なせたくないという意志だけは今も持ち続けている。
そして彼女が目覚めた時に困ることが無いようにと、周囲の評価を高める為に令嬢らしい教養を身につけるように心がけた。
それはある意味ではレシュマの評価を高め、一方で「妖姫」などという陰口を叩かれることもあった。
原因は人間の機微が分からない自分にあると彼にはわかっていたが分かっていてもどうすることも出来なかった。
取り敢えず、彼は彼女が目覚めた時に困らなければそれでいい、と考えたが今回の婚姻話には彼は不穏な影を感じていた。
宰相とその息子は一度だけ彼も会ったことがあるが人を値踏みするような嫌な目をする男たちだった。
場合によってはレシュマの為にこの婚姻を潰さなくてはならない。
「君はどうしたい……?レシュマ……?」
応えてはくれない意識の底へと呼びかけてみるが答えは返らず、彼は諦めて今日のところは眠りについた。