05.5号 御入り用はエスティード商店まで
※号数がおかしくなっていますが、これであってます。
「……さま! …………とさま! ライト様……!」
強めのノックとお姉さんの声が、俺の個室に響く。確か今日は。
今日はセラテアと共に、早朝から馬車で西のターレスへ向かう予定である。
俺は飛び起きると書き物机に転がしたままのペンを懐に突っ込み書きかけの清書も取り合えず鞄へ突っ込む。
次はその鞄(昨日の内に準備した)を背負い外套を適当に被ると身だしなみも程々に部屋を飛び出しお姉さんに挨拶する。
「おはようお姉さん! でもなんで起こしに?」
「はい! 早く発つとは聞いておりましたので、お見送りにと! セラテアさんは馬車を引き止めております」
そう、全ては決まっていたのだ。
エインセイルに向かうにあたり、イズンが、門を開ける根回しをしたこと。それを交渉材料に、セラテアが商人と話をつけ、馬車を用意したということ。そして、件の博物館には日の出次第連絡を入れるということを。
俺達はどたばたと廊下を抜け階段を転げるように下り宿の外へ出る。
他の客に迷惑この上無いと思う余裕もなかった。
外はまだ暗く濃い霧が出ていた。だいたい日の出三時間前、というところだ。
何故ここまで出発が早いのかというと、ターレスまでは馬車でも少し遠いからである。
王都~ハイデン間は、馬車でおよそ日中一日に対して、王都~ターレス間ともなるとその一日で足らず、途中で夜になってしまう。
時間がかかれば襲われる危険や、運輸原価が増す。故に朝早くに出発出来るというのは商人にとっても利点であるのだ。
王都の入口に向かって走ると、セラテアと幌の荷馬車が見えてくる。彼女は御者を説得しているように見えた。今すぐにでも出発しそうである。
「宿の手続きはこちらで致しておきます! お急ぎ下さい!」
「ありがとうお姉さん! 行ってきます!」
手続きを申し出てくれたお姉さんに礼を言うと、セラテアに向かって叫ぶ。
「セラテア! 悪い、遅くなった! 乗ってくれ!」
こちらに気付いてセラテアは馬車に乗る。
俺は馬車の後ろから押して発車の補助をすると、それは緩やかに走りだした。
遅れずに乗り込むと、中で彼女に恨み言をされる。
「もーう、早く出発するって伝えたでしょう!? 馬車に話をつけた私と、門を開けてくれたあの子の根回しが無駄になるとこだったわよ!」
まあ、間にあってくれたからいいけど。と付け加えた。
未だ緩く走る馬車の後方ではお姉さんが見送っている。慌てていたので気付かなかったが、普段の給士服に厚手のケープを纏っていた。
それに大きく手を振ると、小さく手を振って返してくれて、やがて霧で隠れてしまった。
木箱の積み荷でほぼ満載の馬車は、封のされてないそれから多様な匂いが届く。果実やら野菜やら干し肉の香辛料やらと、食料品のようだ。
箱を少し押し退け、何とか二人分座れる空間をつくると、ひとまず鞄を下ろし、俺達はそこに座った。
俺は一息つくと彼女に再度謝罪し、言い訳する。
「すまない、焦らせて悪かった……。おかしな時刻に一度起きて、二度寝してしまったんだ……」
王都から大きく離れてしまうと、暫く戻れないので、就寝直前まで清書をしていた。しかし、根を詰め過ぎた結果、机に突っ伏して寝てしまったのだ。それも、ペンを持ったまま。
「ふ~ん……、まあ信じてあげましょう」
「……ありがとう……」
寛大なセラテアに苦笑いしつつ礼を言うと、夜辺のことを話そうとした。
「⎯⎯それで寝落ちた時に、何か、夢を見ていた気がするんだが……」
「……夢の中でまで書き物してた?」
「いいや、ええと……。アイゼンタールが……アイゼンタールで…………アイゼンタールを………………?」
あれ?
「あああ~!? 思い出せない!」
俺は髪を乱暴にかきむしる。二度寝からの寝坊によるパニックで夢の内容がトンでしまった。
それを見たセラテアは少し笑いながら言う。
「もう……、夢を忘れたくらいで大袈裟ねぇ。大体『夢』なんて、起きれば大抵忘れてしまうものよー?」
「でも、何か大事なことだった気がするんだよなぁ……」
ディアーデは話す気ないし、イズンも次の半休まで一週間以上掛かるとセラテアから訊いている。
イズンとしてはその間に、交信器を調べておきたいと思ったのだろう。こちらとしても、聖剣の事がわかるのなら、願ってもないことだ。
「ところでライト君は書庫で調べ物したのよね? 何か手掛かりはあった?」
「いいや。大体がワース卿から聞いた通りだった。……アイゼンタールのこととか」
旧アイゼンタール王国領。
古くからそこでは『燃える水』こと油が湧く。その範囲は徐々に拡大し、現在は半ば放逐に近い状態でよくわかっていない。
この、油を含んだ土壌が余りにも多い土地柄は、作物の成育も難しい。
時の王は、農業を主産業として諦めると、この油を燃料にした兵器を開発し、国の産業にしようとした。
当初は複数の国への輸出を見込んでいたが、世界の主要燃料が魔動石だった為に、輸入する国はなかった。
王は発想を切り替え、兵器を扱う兵士を傭兵として諸外国に派遣させる。
それは魔獣や亜人の紛争地帯には戦力として、未開の土地ではあらゆる資源を収集させて、自国の存続を図っていった。
時代が、三百年前の王にまで移り変わった頃、魔族が突如出現した。
三国は魔族を撃退したものの、報酬が支払われるアイゼンタールは、三国の一つエインセイルを侵略し、これを滅亡に追い込んだ。だが同盟国であった、三国の残り二つマウンデュロスとグレイスバーグの『混成軍』は、それを反撃。アイゼンタールは本国までの撤退を余儀なくされ、エインセイルは後続の混成軍が辛うじて取り返すこととなった。
「その後、壊滅的な打撃を受けたアイゼンタールは、クロイツェンの侵略を試みるも失敗。決着して数日後に落城した……」
メモに録ったことをそこまで話すと、左肩に のし…… と重さを感じる。
「ってぇ!? 寝てんのかよ……」
話し始めのうちは相槌を打ってくれたりしていたのだが。
すー………………くー…………ふー……
今は俺の耳に程近い距離で無防備な寝息が聞こえる。
(まあ、朝が早かったもんな……)
気が付けば、完全に日は登り、馬車も目一杯の速度が出ていた。
(そう言えば『リフレッシュ期間』といいつつ休めていないな……)
そんなふうに思いながら俺は、録ったメモの読み直しをはじめた。
⎯⎯ごとり!
馬車が一際大きく揺れて微かに覚醒する。
(……っ、いけね、起きるか……? 柔らかい……?)
俺はぎくりとし、一気に目が覚める。現在の馬車の中で柔らかいものなど、一つしか思い浮かばない。
柔らかさは体の左側面に受けている。ならばと右側に体を起こそうとする。
(……ッ! ……あれ……?)
起こそうとしたが、何かで押さえつけられている感覚、これは。
俺はセラテアに膝枕されながら、その体に両腕を乗せられた体勢だった。
(……! …………! 駄目だ、起こせ、ない……。まず、い……まどろみに……あらがえな………⎯⎯)
「⎯⎯……くん。…………ライト君……」
「……んぅ……」
「ターレスに着いたわ」
覚醒し切らない体を起こす。俺は馬車の床に転がされていた。
セラテアは馬車の外から俺に声をかけていて。
そして俺が馬車を降りるとそこは確かにターレスであった。
「……どうなってるんだ……」
ターレスまでは一日以上かかるはず。今日ほどの早朝に出発したなら、到着は夕方になる。
しかし、日の位置は夕方よりも一時間は早い事に驚いていた。
そんな俺の様子にセラテアは怪訝に訊く。
「何を驚いているのさっきから?」
「いや、だって……」
時間の進みがおかしい、と続けようとするが、セラテアは軽く額を押さえて先に言う。
「はぁ、あのねライト君。私も魔法使いなんだから、多少なりは生活で使うわよ」
つまり、セラテアの魔法で馬車を補助したということらしい。
なんというかこれは、魔法使い様々である。
「ともかく、次はエインセイル行きの馬車と話をつけに馬屋へ行くわよ」
「あ、あ、待てって」
色々あった(?)が俺達はターレスの町に到着した。
⎯⎯国境の町・ターレス⎯⎯
ここの主な産業は農業で、次に紡績業だ。それは野菜や穀物に加え、綿花や麻といった布材の生産も行っているからである。
町は今日の仕事が終わりはじめているのだろう。それらしい建物から、糸車などの魔動器の音は控え目だった。
「それにしてもライト君って、寝相が悪いのね」
馬屋へ向かいながら、突然馬車でのことを語りだすセラテア。俺は少し後ずさる。
「せっかく膝枕してあげてたのに、もぞもぞと起きあがろうとして」
「いや……、それは起き上がるだろ。重いだろうし……ってわかってて続けたのか!?」
「ええ。あんまり動くから、魔法で寝かせちゃったわ」
撫で心地はまあまあだったかしら、と続けた。
(はい濫用ー。濫用きましたー。イズンー、魔法濫用する魔法使いはコイツでーす)
俺は若干の頭痛を覚えて頭を押さえる。不意打ちの様なことは本当に苦手なのだ。
「何よー、その顔ー。仕方ないじゃない、退屈だったんだもの。訊いてもないこと喋りだすし……」
「……取り合えず、『退屈だから』で寝かせて愛玩するのはやめてくれ……」
ぶー、けちーというセラテアを余所に、そう答えるのが精一杯の俺だった。
⎯⎯馬屋に着いた俺達は、馬主に開口一番「すみません。ここの馬は全て予約が入っておりまして……」と告げられる。
俺達は一瞬顔を見合わせると、慌てて馬主にどういう事かと訊く。明日の商隊の馬車に出払ってしまうと答えた。
ターレス~エインセイル間は今日の移動よりも更に長く、馬車の移動で、日中二日未満というところである。そんな距離を徒歩で移動するのは、戦えない体の俺にはいわば『自殺行為』だ。
俺達は商隊を率いる商人を教えてもらうと、交渉へと急いだ。交渉がつかなければエインセイルへは徒歩で向かうことになる。
(まさか……ここへ来るとは……)
そこは、国一番の商店。エスティード家、だった。
立派な店構えの入り口でその大きさに圧倒された。以前訪れてから現在の間に至るまで、更に増築されたらしい。外で箒を持った使用人風の男に、馬車について交渉したいと告げた。すると、主人は未だ店舗から戻ってないと返される。んん? ではここは何なのかと尋ねると。
本宅だった。
おかしいと思っていた。こんな田舎に立派な商店があるはずないと。気を取り直し商店へ向かう。
教えてもらった店に改めて到着する。その外観は本宅とは対称的に普通だった。王都の商店もこんなものである。
冒険者は減少傾向で、増築しすぎて大きくなった方を自宅にして、新たに縮小した店舗を建てたのかなと思った。
丁度、中から女性が現れた。それとなく、テレサの面影に似ていたが、髪は灰銀色で長い。
セラテアはその女性に話しかけた。
「少しいいかしら? 貴女はここの店の人?」
「そうですが、何か……?」
「実は私達、エインセイルに行きたいのだけれど、馬が無くて困っているの。一、二頭融通できないかしら?」
「なんとそれは……ご不便をお掛けして、申し訳ありません。どうぞ中でお待ち下さい、すぐに主人を呼んでまいりますので」
女性は、高い誠心さを窺わせ頭を下げると、俺達を店内へ促してから店の奥へと消えていった。
俺は主人が現れるまで中を少しぶらつく。
店内は主に、雑貨や保存食が並び、一角には携行灯や点火装置といった魔動具も少し取り扱っているようだ。
俺は冒険に魔動具を使わない。いくら魔動石が半永久とは言え、魔動具に耐久性がないのでは、直接燃料を持ち歩いたほうが、確実で経済的なのだ。今よりも更に危険が減れば使ってもいいかもしれないが。
途中、あっと俺の目に停まったのは、羽根ペンと小瓶入りのインクだった。
(うん、値段も丁度いいし、ついでだ。ここで買ってしまおう)
それを手に持っていると当然セラテアが触れてくる。
「もう、目的忘れないでね?」
「わかってるって、でもこういうのは少し買い物すると、交渉も捗りそうだろ?」
知らないけど。
「そうかもしれないけど……、天下の商店に通用するのかしら……?」
(うッ、それも確かに)
そんなやり取りのあと、すぐ奥から声が届いてその主は現れた。
「すみません、お待たせいたしました。馬のことで何か……おや?」
その人物は、俺と体格が近く、顔からは父より少し若い印象の中年の男性だった。だが、その髪色は桃色で、より一層、若々しさを際立たせていた。
俺はテレサの父であると直感したのだが、『兄』と言われても通用するのではと思っていた。
「……『そちら』はお買い上げ、ですか?」
そう聞いてすぐに羽根ペンとインクの事だと気付いたので「そうだ」と答えた。
「ありがとうございます。では先に、お会計致しましょう」
そう言われた俺は、二つを側のカウンターに置いて、鞄を地に下ろす。すると店主が、あれを、と言うのが耳に届いたが、特に気にせず鞄から財布である袋を出した。
代金を手にした俺がカウンターに視線を戻す。するとそこには覚えのない水薬瓶が乗っていて。
「………………」
俺は固まり絶句する。
「ああ、ポーションはお買上げ頂いた心付けになります」
どうかお構い無くお納め下さい、と続ける店主。
ポーション⎯⎯それは一つで一人一月分の食費にも相当する高級万能薬であるインクならば瓶十本少々羽根ペンであれば数十本以上理由は量産出来ないことと保存性にあるしかし王候貴族や危険の伴う上位冒険者では常備薬とまで浸透しており……違う、そうじゃない。
「いやいや待て待て……。ペンとインクの心付けで、何故ポーションが出てくる!?」
完全に思考が停止しかけたところ、なんとかつっこみをする。
「……ペンとインク……。それだけではありません。子供達がお世話になったそうで、ライト様」
「!!」
俺は名乗っていない。ましてや知り合いでもない。
「娘から手紙で、特徴は伝え訊いておりました。惜しげもなくポーションを使って頂いた、ということも」
ああ……そんなこともあったなと思い出す。あの時はわりと無我夢中で、癒術士も居て悪手だとも思っていた。事実今面倒な事になっているので悪手だったのかもしれない。しかし。
「いや、それでも何故俺だと?」
「そうですね……。カウンターに置かれた時、鞄を下ろした時に右手を庇われておりました。加えて、ペンにインクとくれば……」
まさか……。まさか、そんなところを観察されているとは思わなかった。
されど店主の好意はありがたいと思ったが、その件の報酬は既に貰っている。俺にそれは受け取れないと交渉を続ける。
「もう、報酬を受け取っている。だからそれは……」
「そうですか……。では……」
そう言いながら店主はカウンターの下から。
「これで如何でしょう?」
と、もう一つポーションが現れる。
もうわけがわからない。
「何故そこで増やす!?」
「いけませんか? では……」
「やめろ! 増やすんじゃない!」
思わず叫んでしまい、少し息を切らす。
「ふぅむ、これは弱りましたね……」
それはこちらの台詞である。
「あぁ……! そうだ、ではこうしましょう」
店主は妙案を思いついたとばかりの声を出すが、嫌な予感しかしない。そしてそれは的中する。
「なぁ君」
「どうかしました? あなた」
と、店主と女性が話し出す。
「今日届いたテレサの手紙に書いてあったんだが……そこのライト様に、酒場へ連れ込まれたそうだよ?」
「!!」「!!」「!!」
(そうきたかー!)
「それは……一体どういう事ですの!?」
「ご、誤解です奥方! それは……事実ですが、酒場に用が……」
「事実、ですって……?」
詰め寄られて頭がうまく回らず、おかしい説明になり悪化してしまう。そこへ。
「ぶふっ……く、く、く、……」
突如セラテアが口と腹を抱えうずくまる。
「セラテア? どうした?」
と寄ると、彼女はまるで笑いを堪えているようで。
ふと、店主と女性に顔を戻すと特に怒っているわけではなく。
(や、やられた~~……!)
俺は茶番に巻き込まれてしまったと、ようやく理解した。
「⎯⎯はぁ~~……参った。そのポーションは、ありがたく、受け取らせてもらう」
「ありがとうございます」
「けど、ポーションの代金は払わせてくれ。それでそっちの気が済まないと言うなら、インクとペンの方を負けてくれないか?」
「落とし所、という訳ですか。こちらとしては気が済まないのですが……仕方ありませんね」
ようやく店主にわかって貰えたようである。
ポーションの代金を払い、それとインクと羽根ペンを受け取ると俺達は店を後にした。
この最中セラテアは、笑いこそしないがずっと腹を抱えたままだ。そして店を出たすぐ入り口の所でもう限界とばかりに爆笑を始めた。
「ら、ライトくん……あなた……おもしろすぎるわ……」
「笑いすぎだろ……。結構、本気で焦ったんだが……」
「あ~、可笑しい……、もう少し、早く知ってれば……記事に、出来たのだけど……」
「もしかして、あいつらの記事の事か? そっちか……」
(いや、まあ、そんな気はしていた)
「“新人記者、未成年美少女冒険者を酒場に連れ込む„とか……ふ、ふ、ふ……」
……それは本当にやめて欲しい……。
⎯⎯俺達はひとしきり笑い終えて冷静になる。さて何をしに来たんだったか…………。
「「あっ」」
「「馬車!!」」
顔を見合せながらそう言うと、俺達は店内へ入り、店主を呼び戻すことになった。
店主に本題である、馬の融通を訊くと、商隊は明日エインセイルに輸出入を行いに向かうといい、快く馬車に同乗を許可された。
その後、日も落ちかけて宿に向かい、部屋を取ると。
「あんたがあのライトか……。よくもうちの娘を泣かしてくれたねぇ……!」
と次に、シグナ夫妻の茶番に巻き込まれる。しつこいと思った所で原因は自分にあり、大人しく付き合うしかないのだった……。
マオの父が主人、母が女将である。
聞いていたとおり女将は元冒険者で、気が向いた時に宿の食堂やロビーで演奏をする。それがこの宿ならではの名物となっていた。昔は踊りも嗜んでいたらしいが、今はもう恥ずかしいとのこと。
今日の演奏にも、俺達以外の客や、町人までも集まり、皆でその洗練された旋律に酔いしれた。
⎯⎯長旅に備えしっかりと食事も採ったその夜。
俺は自分にあてがわれた部屋の机に向かうと、軽く息を吐きペンに話し掛けた。
「こんばんは、ディアーデ」
“……ええ……こんばんは。何か用?„
「いや……用ってほどじゃ、ないんだが……」
机の奥に置いたインクと羽根ペンを見つめて、それをどう彼女に伝えるべきか悩む。
「今は、お前に何があったかは、聞かないでおく。けど、お前がどうしたいかは、聞いておきたいと思ってな……」
“……似合わないわね……今更……„
「真面目に訊いてるんだがな……。その、勝手に使い続けて悪かったと言えばいいのか……」
“羽根ペンとインクなら好きに使いなさい。……これをインクまみれにされるのはお断りだけど„
「!? ……何故わかった?」
“今は机の奥に置かれているのがわかるわ„
「……そうか……。じゃあ、俺がこっちを使いたい時はどうすればいい? 勝手に使われたくはないだろう?」
“……別に今まで通り気にしなくていい。手放すのだけはやめてほしいけれど„
それを読み、俺は軽く笑い吹き出す。何故ならあり得ないからだ。
「安心してくれ……。手放すのは、全てを解き明かしてからだ。捨てろと言われても難しいな」
“……ありがとう……„
思いがけない素直な返答にこちらも困ってしまう。少し意地悪をしてみた。
「似合わないな」
そう返すと彼女は、やや長考した様子でこう書いた。
“一つ約束して„
「約……束……?」
“私を絶対に„
「うん?」
“そういう店に持ち込まないで。男だから行きたくなる日もあるでしょうけど„
がんっ
と俺は机に顔面を打つ。
真剣そうに綴っておきながらそう書かれた。彼女なりの『反撃』だったのだろう。
これでも俺は自分の事を、紳士だと思っていた。それだけに、その言葉は深く突き刺さった。
⎯⎯朝。町には数多の馬車が現れた。町の自警団や冒険者が護衛にいるのでそれらの馬車もいる。
昨日の店主を探していると、御者達と会話する桃色の髪が目に入った。
俺達は店主に挨拶をする。
「おはようございます。お世話になります」
「これはライト様、おはようございます。この度はご不便をおかけしました」
「店主、その件はもう……。それに『様』ってのも落ち着かない」
「これはお客様全てに使っているのですがねえ……」
(お姉さんも同じ感覚なんだろうな……)
そう苦笑いして俺達は店主の操る馬車に乗ると、それを先頭にやがて動き、エインセイルへ向けて走り出した。
そして、町から完全に離れると、店主が。
「退屈しのぎに少し昔話をいたしましょうか」
と言うので、俺達はそれに耳を傾けた。




