#04-04「よみがえり」
しょりしょりしょり、と、詩織さんがリンゴを剥いている。
速い。そして上手い。
ウサギさんにするのも、自分より圧倒的に要領がいい。
「リンゴって、皮まで食べたほうが栄養があるんですよね」
しかも栄養面まで考えている。
リンゴを剥くのは、自分がさっきやりました。――とは言えず、咲子は詩織と向かい合って座って、一編隊分、八匹のウサギさんが出来上がるのを待っていた。
「イッセーさん。リンゴ、剥けましたよ……」
眠ったままのイッセーを、詩織は見つめる。その優しいまなざしに、咲子はどきりとした。
「起きないと、イタズラしちゃいますよ……?」
イッセーのほっぺたを、つん、つん、とつつく。
それさっき自分もやった。
イッセーは当然、目を覚ますことはなく――。
部屋には、静かにリズムを刻む心電計の音だけが響いている。
その規則正しかったリズムが、不意に乱れた。
咲子は、はっと――イッセーの顔を見た。
その顔に血の気が戻ってきている。
……!?
「お坊ちゃま!?」
「ごしゅじんさまー!」
どたどたと、メイド二名が、部屋の中に走りこんできた。
これまでいつも顔を合わさなかったのだが……。席を外してくれていただけのようだ。
一週間以上も寝たきりだったイッセーの体が、がばり、と起きあがる。
その目に光が宿っているのを見て、咲子は両手で口許を押さえた。
うそだと思った。イッセーの意識が戻ってくれればいいと、何度、祈ったことか。
「天秤はどこだ!?」
イッセーは、開口一番、そう叫んだ。
「菜々子! 先生を呼んできなさい! お坊ちゃまは意識が混乱しています!」
「ばかもの! 天才が混乱などするか!」
「菜々子! 先生を!」
「おい菜々子! 外出する! 服と靴を持て!」
先輩メイドと主人との板挟みにあって、後輩メイドはおろおろとしている。
「菜々子!」
「菜々子!」
「ひ――ひゃいっ!」
そして後輩メイド――菜々子は、服と靴を用意した。
服を着て、立ち上がりかけたイッセーは、ふらりとよろけた。
メイドが手を貸す。
「お坊ちゃま。無理はされないでください。一週間以上も絶対安静だったのですから……」
「そうもいかん。やるべきことがある」
だが男の体を、女の手だけでは支えきれない。
「――藤野様、松浦様、もうしわけありませんが、お手を貸していただけますか?」
咲子にも詩織にも、異存などなかった。
◇
「天秤、ですか?」
「そうだ天秤だ」
黒塗りのリムジンで屋敷に向かう。
その車の車内で、オウム返しに聞き返してくるちとせに、イッセーは辛抱強く、繰り返していた。
天才たるもの。凡人の思考の遅さには慣れている。慣れざるを得ない。
「冥界で出会った神を名乗るアヌビスという者がな。神具である天秤とやらを、この下界に落としたのだ。余はそれを回収するために、仮初めの命を与えられた。――刻限は明日の夜明けまでだ」
夜明け、というタイムリミットを告げられ、女性陣一同の間に、緊張がはしる。
「アヌビスというのは――。古代エジプトで、たしかに神の一柱ですけど……」
と、言葉を挟んできたのは、詩織である。
「……だけどそのくらいの知識、イッセーさんも、当然、持ってますよね?」
つまりすべては昏睡状態にあったイッセーの頭の中だけで起きていた出来事ではないのか。――と、詩織は遠回しにそう言っている。
「真偽を検討することに意味などないな」
イッセーは言った。天才であるがゆえに、その可能性は、当然、想定済みである。
「刻限まで全力で努力したとして、仮にすべてが余の妄想だったときに、失うものは努力だけだ」
「お坊ちゃまの健康が失われます」
ちとせはにべもない。
「絶対安静で一週間以上も寝たきりだったんですよ」
「私も……、イッセーさんには安静にしていて欲しいです。せっかく意識が戻ったんですから。また倒れられたりしたら……、いやです」
ちとせと詩織の目は、お菓子をぱくぱく食べて幸せな顔の菜々子を素通りして、咲子に向けられる。
「えっ? えっえっ?」
同調圧力が、もんのすっごい。
味方しろ、という、無言のゴツイ圧力を受けて、咲子は目を白黒させていた。
「冥界での出来事が、仮に夢だろうと幻だろうと、余の行動はなにも変わらん」
「ほ、ほらイッセーも……、こう言ってることだし……」
咲子は言った。ちとせと詩織に、ぎろりと睨まれて、首をすくめるが――。
「余は約束をしたのだ。〝天秤を取り戻してきてやると〟たとえ夢であろうと、約束を違えるわけにはいかん」
イッセーらしいなぁ。
――と、咲子は思った。イッセーって、こういうバカなところあるよね。
「あははは。……ほらイッセーってバカだから」
「なにを言う? 余は天才だぞ?」
「はぁ……」
ちとせがため息をついた。しぶしぶといった顔で、不承不承、同意の顔を向ける。
「ちょっと待て。なぜそこに同意する?」
「イッセーさんですからね。……仕方ないですね」
詩織もうなずいた。
「だからなぜそこで同意する?」
「……それでお坊ちゃま? 手がかりもなしに、下界に落ちた天秤とやらを探すおつもりではありませんよね?」
「待て。余がバカだという話は終わっていないぞ。余は――」
「――いまは天秤の話です」
ちとせの迫力により、イッセーは黙らされた。
「……アヌビスの話では、自分を褒め称える宗教を覗いていたときに落とした可能性が大だそうだ」
「冥界の王、アヌビスですか?」
「そうだ。それを祭る新興宗教がないか、至急、調べろ。新しいものだそうだから、新興宗教を重点的に調べろ」
「了解しました」
ちとせがドアの内側をノックすると、ぱかっと開いてコンソールが現れる。
ヘッドセットで豪徳寺財閥情報部に指示を出し、自分でも豪徳寺家専用情報端末で調べはじめる。
ほどなくして、自身および配下から集まってきた情報を総合して、ちとせは報告をまとめあげた。
「アヌビスを崇める宗教は全世界において該当一件。日本、そして愛知県。その山中に総本山を置く〝滅びの刻〟という新興宗教団体ですね」
「ぶ……、物騒な名前……、だね……」
咲子が言う。
「強硬な勧誘。誘拐同然の研修会への連行。信者となった者の未帰還者、行方不明者多数。公安の観察対象にもなっています」
「ほ……、本当に物騒……、なんですね……」
詩織が言う。なぜか顔が半笑いになっている。人は対処できない現実に直面したとき、思わず笑ってしまうという。その心理だ。
「行方不明となった者たちは、教団の手によって、ミイラにされているという噂も……」
「ひいっ……」
「そういえばアヌビスの趣味は、ミイラ作りだったな」
「ひいっ……」
詩織がいちいち悲鳴をあげる。
「しかし、愛知か……。このまま車で行くには、やや遠いな」
「心配いりません。〝足〟を用意しておりますので――」
ちとせがそう言い終わるか、終わらないかといったあたりで、バラバラバラ――と、後方上空から音が響いてきた。
車は高速道路上を走行している。その車を追い抜く形で、大型ヘリが前に出てゆく。ヘリは車と同じ速度で飛行しながら、後部のハッチを開いた。
リムジンは後部ハッチからヘリの内部へと滑りこんだ。
アームが伸びてきてリムジンは固定される。ハッチが閉じる。
ヘリの内部の照明が点灯して、ドアが開いた。
「なっ、なっ、なっ……、なにが起きてるのー!」
「いっ、いっ、イッセーだからーっ!」
詩織は咲子と二人で抱き合って震えていた。
メイドたちとイッセーは、何事もなかったかのように車を降りた。
「そろそろeVTOLでも導入せんか?」
「開発部に伝えておきます」
詩織と咲子が、二人で抱き合っていると――。
「いつまで車に乗ってる」
「ヘリに乗るのって……、はじめてで……!」
ヘッドセットのようなものを投げ渡される。それをかぶると、会話がしやすくなった。
「現地まで何分だ?」
「日暮れ過ぎには到着します」
メイドさんは、驚いたことに、ヘリの操縦桿を握っていた。
◇
着陸地点をライトで照らし出す。
山奥に突如として平地が開けていた。教団本部の駐車場と覚しき場所に、ヘリは着陸を強行した。
騒音と暴風に、建物から大勢が飛びだしてくる。揃いの白い服を着た連中だ。
投光器で膨大な光量を投げ付けながら、イッセーは拡声器を持ち、マイクを手に、その連中に向けて声を投げつけた。
『あー、あー、あー……。テス、テス、テス……。おまえたちの企みはすべて見抜いているぞ。悪行はすべて調べがついている。だが大人しく〝神器〟を渡せば、引き上げてやってもよい。さあ――〝天秤〟を渡せ!』
イッセーがそこまで叫んだとき。
銃声が響き、投光器の一つが割れて砕けた。
「お坊ちゃま! 銃撃です! お下がりください――!」
メイドの手がイッセーの襟首を引っ掴んで、物陰に引っぱりこむ。
「なんで日本で銃撃戦になるんですかーっ!」
「い、イッセーのばかーっ!」
詩織と咲子の二人は、頭を抱えて叫んでいる。
その二人のところに菜々子が回っていき、黒光りする物体を手渡してきた。
「はーい! これー、念のため持っておいてくださいねー!」
「じゅ――!?」
「銃うう――っ!?」
女の手にはだいぶ大きいハンドガンを、握り方もわからず両手で持って、二人は叫んだ。
「本物じゃないですよー。ゴム弾ですよー」
菜々子がスカートをまくる。白い太腿の途中に同じ銃がくくられている。
ちとせのほうはメイド服の上からショルダーホルスターを肩掛けにしたところだ。胸元をぎゅっと絞りあげるホルスターには、銃ばかりでなく、日本刀の鞘まで吊られていた。
「お坊ちゃま。あれで交渉のおつもりですか?」
「む? どこがまずかったか?」
「後ろ暗い連中に、あれではまったく逆効果でしょう」
ちとせは対物ライフルを持ち出していた。がしゃこーん、と、ボルトを操作して弾を薬室に装填する。
ゴム弾……! ゴム弾だよねーっ!?
――と、咲子は詩織と抱き合って震えながら、そう祈っていた。
「いきなり撃ってくるような連中だぞ。交渉の余地があるとも思えんな。――ところでひとつわかったぞ。天秤は、やはりここにある。その名を出したところで撃ってきた」
「ご自身を標的にして確認されるのはいかがなものかと思います」
「交渉と確認、その手間と、こちらの良心の折り合いをつける段取りを省いただけだ。攻撃してくる者に容赦をするほど、余は寛容ではないぞ」
イッセーは、にやりと笑った。
「左右と背後の森に特殊部隊を潜ませてあります。お坊ちゃまの合図があれば、強襲させられますが」
「いや。うちの者の人的損失を出す危険を冒す必要もないな。――そろそろ〝あいつ〟にも働かせよう」
「……あいつ?」
ちとせがイッセーを見る。
菜々子も、きょとんと、イッセーを見やる。
咲子と詩織は、がくぶると震えながらイッセーを見つめた。
イッセーは顔を真上に向けると、暗い夜空に向けて声を放った。
「――おい! 聞こえているな! 貴様もすこしは働いたらどうだ! 貴様を崇める信者どもの不始末を、余につけさせるつもりか! 神として恥を知れ!」
咲子は詩織と抱き合って、空に向けて叫ぶイッセーを見ていた。
道中、冥界から生還したという話を聞かされた。
到底、信じられない内容だったが……。その話の通りに、〝教団〟は存在し、神具の〝天秤〟とやらも、ここにあるっぽい……。
とすると、冥界のアヌビス神というのも――。
それがもし〝本当〟だったとすれば――。
空から、光が差してきた。何条もの光の柱が、あちこちの地面に突き刺さり、沈み込んでゆく。
そして光の消えた地面が、ぼこりと盛りあがって――。
手が出てきた。骨の覗いた手が、地面をかきむしる。土をはねのけ、地面の下から、死者が現れた。
「行方不明者は土葬か。もとより容赦はしないつもりだったが――。彼らは余よりも容赦がなさそうだな」
イッセーが言う。
亡者の群れは、イッセーや咲子たちの脇を歩き抜け、教団の建物に向かっていった。
銃声、怒号、叫び声、悲鳴、などなどが聞こえてきたが、やがて段々とまばらになっていった。
咲子と詩織は、ずっと抱き合ってガタガタ震えていた。なーにも見なかった! なにも聞こえなかった!!
◇
数時間が経って……。
イッセーの姿を求めて、咲子と詩織は手を繋ぎ合って、あちこちを歩いた。
夜明け近くの現場には、様々な人がひしめくようになっていた。
警察なのか公安なのか自衛隊なのか、咲子には、それはよくわからない。
戦闘――といえる行為は、だいぶ前に終わっていて、その後片付けをしている。
人の中を、詩織と二人で歩いた。
なんで自分は、こんなところにいるのか。それはイッセーが心配だったからだ。
せっかく生き返――もとい、意識不明から回復したのに、そのまま放っておいたら、またどこか手の届かないところに行ってしまいそうで……。
ようやくイッセーの背中を見つけて、咲子と詩織は立ち止まった。
「イッセー……?」
「イッセーさん……?」
「咲子、詩織――」
振り返ったイッセーは、いつもと変わらない笑顔を浮かべた。
疲れというものを、まったく感じさせない顔だ。
傍らのちとせは、服と姿勢とはぴしりとしているものの、その表情は疲れ切っている。
もう一人のメイド――菜々子は、イッセーとちとせの足にもたれかかって、ぐーぐーと寝ている。
「すまないな。危険な現場に付き合わせてしまった」
「そ、それはいいけど」
「だ、だいじょうぶです……」
咲子と詩織は、二人して言った。イッセーが自分たちのことを心配してくれているのが、くすぐったくて、すごく嬉しい。
「イッセー……、それが?」
咲子はイッセーの手にある物に目を留めた。
「ああ。天秤だ」
「じゃあ、それを取り戻したから……」
「ああ。役目は終わった」
「じゃあ……」
咲子は詩織と顔を見合わせた。二人でうなずきあう。
――じゃあ、もう危ないことしなくていいんだ。
「さて……。そろそろ、時間だな」
地平線を見つめて、イッセーは言う。
「え? 時間?」
「刻限は、夜明けまでだと言っただろう?」
「だからそれは……、天秤? とかいうのを手に入れたから……、大丈夫なんでしょ?」
「おや? きちんと説明していなかったかな?」
イッセーは、言う。
「いまの余の命は、アヌビスから与えられた仮初めのものだ。天秤を取り戻すことはアヌビスとの約束だったが、その達成如何によらず、余の命は夜明けまでのものとなる」
「……えっ?」
そういえば……。そんな話を道中にされた覚えがある。
あのときは、冥界も、神も、まったく信じていなかったから、気にしていなかったけど……。
天秤があるということは、冥界があるということで、アヌビスが実在するということで……。だとすると、イッセーの言う〝仮初めの命〟ということも本当で……」
「イッセー……、死んじゃうの?」
「余はもう死んでいる。トラックに跳ねられたときにな」
「やだ……」
咲子は、助けを求めるように、ちとせを見た。
イッセーに仕えるメイドは、目を伏せて、すべてを受け入れるという顔をしている。菜々子はぐーすか寝ている。
隣を向くと、詩織も、大きく見開いた目を震わせていた。
「イッセーさん! なにか――! なにか手を考えましょう! きっとなにかあるはずです!」
「残念だが時間切れだ。それに残された時間は、足掻くためではなく、おまえたちと話すために使いたい」
「……!」
眼鏡の下に大量の涙をためて、詩織はイッセーを見る。
「詩織……。本を読んでくれ。俺のかわりに。たくさんな」
「は、はい……」
詩織は絞り出すように、そう返事した。
「咲子……。卒業まで一緒に通えなくてすまん」
「謝んな。ばか」
「ふむ……? では。おまえのパンツは、よいパンツであったぞ」
「もっとばか」
咲子は目の端を指でぬぐった。
「ほら。――ちとせさんにも」
咲子に言われると、おお、という顔で、イッセーはちとせを見た。
あたりまえすぎて忘れていた。――とでもいう顔だ。
「ちとせ。……その、これまで世話になったな」
「いえ。お坊ちゃまをお世話することが役目でしたので」
「おまえの紅茶を飲めなくなることが残念だ」
「恐れいります」
完璧なメイドの顔で、ちとせはうなずいた。
「あと……、おまえは余を叱ることのできる、唯一の者であったと――そう言っておく」
「そんな……っ、おそれ……おおい……、ですっ」
完璧なメイドの顔は、ここで決壊した。
ぐしぐしと掌で目元を擦ってから、ちとせは、まっすぐに自分の主人の顔を見た。
「そろそろ……。時間のようだな」
地平線の向こうから、朝日がのぼる。
その陽に照らされて、イッセーの手の中にある天秤が、さらさらと粒子になって消えてゆく。
そしてイッセーの体は、ふらりと傾いた。
三人の女たちの手で、イッセーの体は抱き止められた。
「んあ……? あれっ? ご主人さまは……は、どうしたんですかー?」
目を覚ました菜々子が、きょろきょろとしていた。




