#03-04.「本屋さんに通い続けてみた」
今日も学校帰りに書店へと向かう。
「いらっしゃいませー。――あっ、イッセーさん」
「ぴろん♡」――と、来店しただけで好感度アップの音が鳴った。
このあいだの日曜日に図書館で過ごし、誤解が解け――たわけではべつにないのだが。
「パンツを見る」という目的のために近づいていることを詩織に告げ、最悪まで落ちこんだ好感度は取り戻している。
イッセーは笑顔を浮かべて、詩織に話しかけた。
「今日はなにかお勧めの本はあるか? ――あとパンツを見せてくれ」
イッセーの〝目的〟はすでに詩織も了承済みだ。
隠していることがなにもない状態で接するのは、とても朗らかな気分である。
「だ、だからそういうのは――! ま、まだ早いです! あと――! 人のいるときには言わないでくださいね!」
「うむ。わかっている」
「絶対ですからね」
「無論。わかっている」
「絶対の絶対に絶対ですからね」
「それでお勧めの本なのだが?」
「あっ――、ごめんなさい! ええと。こっちの本なんて、どうでしょう?」
カウンターの向こうの棚から、本が出てくる。
詩織の選んできた本は数冊ほど。どれも目新しいテーマのものだった。
「とても興味深いな」
「そ、そうですか!」
正直、数冊ほどでは、イッセーにとっては物足りなくはあったが、詩織の選んでくれた数冊を貰って、店をあとにした。
◇
翌日も、イッセーは書店に通った。
「詩織。パンツを見せてくれ」
「はいはい。またこんどですね」
その翌日も、また書店に通う。
「余はパンツが見たいぞ」
「そういうことばっかり言っていると、おまわりさんに連れていかれちゃいますよ」
そうして、書店に通うのが日常となった
◇
「なぜおまえがついてくる?」
「イッセーが本屋さんに入りびたっていると、目撃者からの通報がありましてぇー」
斜め後ろをぴったりとついてくる藤野咲子に、イッセーは素朴な疑問を問いかけた。
学校を出るところから、咲子はずっとついてきている。
「む? 誰に見られた? ――ギャル子たちか」
「本橋と依川。クラスメートの名前くらい覚えようよ」
「うむ。いま覚えたぞ」
覚える必要がないと判断したために、覚えていなかったわけだが――。ほかでもない咲子が言うのであれば、覚えよう。
しかしギャル子は二人いるわけだが、どっちか本橋でどっちか依川だ?
「俺が書店に通い詰めているのは事実だが、それがなぜ、おまえがついてくる理由になるのだ?」
「だってイッセーのお気に入りの本屋さんなんでしょ?」
「まあそうなるな」
書店、それ自体ではなく、興があるのは書店員のほうなのだが――。
彼女が仕切っている関係で、本の品揃えも、なかなかによい。狭い店舗の限られた陳列スペースであるにも関わらず、可能な最大のバリエーションを揃えている。
「だったら気になるっしょ」
「そういうものか」
この前、パンツを見せてもらってから、咲子との距離感は、以前とは違うものになっていた。
よく話しかけられる。よく近くに寄ってくる。ふとしたときに、よく視線が合う。
一度など、「またパンツ見たいと思ってる?」などと聞かれた。
無論、一度パンツを見ているのだから、二度見る必要はない。
なぜそんなことを聞くのか、わけがわからない。
書店についてくるという咲子を、べつに追い払う必要もないので、好きにさせていた。
書店の前で、足を止める。
「へー。こんなところに本屋さんあったんだ」
雑居ビルに挟まれて、その入口は確かに狭い。
「いらっしゃいませー。――あっ」
店に入ってゆくと、詩織はまずイッセーを認めて顔をほころばせたが、続いて入ってきた咲子に、その笑顔を固まらせた。
「む?」
「あっ、中は広いんだー。へー。本屋さんってあんまり来たことないけど。本がいっぱいあるんだー」
あたりまえのことを言いつつ、咲子は物珍しそうに店内を見て回る。
イッセーはそんな咲子と、カウンターの内側にいる詩織とを交互に見比べた。
詩織の体に沿って、陽炎のようなものが立ち上っている。……気がする。
あれは前にも覚えがある。
パンツ目当てで近づいたことを告げた時――。同じ現象が起こっていた。
なにかまずいことが起ころうとしている。
そして、その原因として考えられるのは――。
「咲子。――ハウス」
「はぁ……?」
はしゃぎながら店内を見ていた咲子が、きょとんと、イッセーに顔を向けてくる。
「余におなじことを二度言わせるか? 咲子。――ハウスだ」
「は、ハウスって……! ちょっとイッセー! わたし! 犬じゃない!」
「咲子」
イッセーが静かにそう言うと、咲子は怯んだ顔になる。
「うう……。バイトあるから、どうせ行かなきゃならないけど……。この扱い……、なんかムカつく……」
途中で二度ほど、恨めしそうに振り返り、咲子は店を出ていった。
イッセーは背後を振り返り、詩織の姿を確かめた。
怒りのオーラは半分くらいに激減している。
対処方としては、これで〝正解〟だったようだ。だがまだ半分くらいは残っている。
「あれは単なるクラスメートだ」
「それにしてはずいぶん親しげな感じでしたけど」
「あいつは誰にでもああなのだ。そのせいでクラスの人気者だ」
「名前、呼び捨てされていましたよね」
「そういえば名前で呼ぶな名字で呼べと、うるさく言われ続けていたな」
最近はなぜか言ってこないのだが。
イッセーは、ちら、と詩織を見た。全身から立ち上るオーラは、だいぶ薄れてきている。だがまだ消失したわけではない。
どうもいま自分は、〝弁解〟なるものをやっているらしい。イッセーにとって人生初の〝弁解〟だった。
イッセーは〝弁解〟の糸口を探した。
「余が書店に通い詰めていることを、どこかから聞きつけてきたようだ。興味本位でつきまとわれて、正直、迷惑していたところだ」
嘘を言わないことを基本戦略として、詩織の怒りが収まりそうな方向を探る。
詩織の怒りがなぜ起きるのか、そこの仕組みがいまひとつわからないので、天才といえども、手探りするしかないのだが……。
「だけどお店としては困りました」
「む?」
いま「ぴろん♡」という音が聞こえた。
どのキーワードが功を奏したのかは、わからないのだが……。
「お客さんになりそうな人を、追い返されてしまいました」
「その分、余が本を買おう。それで問題なかろう」
「はい。ゆっくり選んでいってくださいね」
言われたとおりゆっくりと、イッセーは本を選んだ。
◇
学校帰りに書店に立ち寄る日々が続いた。
「いらっしゃいませー」
にこり、と笑顔をもらう。「ぴろん♡」という音もする。
「ああ。パンツを見せてくれ」
「おまわりさん、こっちでーす!」
今日もいつものように軽くいなされる。
イッセーは店の奥の棚に向かった。店内の棚はとっくに全制覇して、そろそろ三周目だが、イッセーがごっそり買っていって空いたそのスペースに、また新しい本が入っている。
タイトルの並びを見ただけで、詩織のチョイスであることは容易に窺える。
一冊、二冊を手に取って、ぱらぱらとページをめくっていると――。
「――落ちついてください! お客さん!」
詩織の緊迫した声が聞こえてきた。
何事かと思い、通路からひょいと覗いてみると――。
「うるせえ! いいから早く金を出せ!」
刃物を握っている男がいた。
「お客さん! そんなことしちゃだめです! それを収めてください! お願いします! 落ちついて!」
詩織は必死に説得しようとしている。
あれはどう見ても強盗であって、〝お客さん〟ではないように思うが――。
一瞬、こちらと目が合った詩織は、カウンターの下で、イッセーに手で合図を送ってきた。
察するに、その手の仕草は「隠れていて」――というようなものだったと思う。
だがイッセーはもうすでに移動をはじめていた。
特段、急ぐこともなく、普通の歩幅で、カウンターに向けて歩いてゆく。
「おま――! なんだおま!? やんのかおま!!」
「だめ! イッセーさん、だめです!」
男が叫ぶ。
詩織が止める。――気丈だな。詩織は。
だがしかし、たかだか刃物を向けられた程度のことで、天才であるイッセーが、行動を変える理由もなかった。
「うおらあぁぁ――!!」
男が錯乱して、刃物を振り回しながら飛びかかってきた。
ミリ以下の単位で避け、男の鳩尾に一発。同時に刃物を握った手首を掴み、単に握力をもって締め上げた。
からん、と、刃物が床に落ちる音がした。
イッセーがあっけなく取り押さえたときには、店の入口が開かれ、黒服で黒メガネの男たちとメイドが駆け込んできた。
「遅いぞ」
「申し訳ありません」
黒メガネ部隊が男を引きずって出ていった。乱闘のときに崩れた本を、メイドがささっと直してゆく。
突入から撤収まで、時間にすれば、五秒フラット――。
店内は強盗が現れる前の状態へと戻っていた。
「えっ? あっ? ――えと? ……いまの人たちは?」
ぽかんと立ったままの詩織が、店の入口のほうとイッセーとを、交互に見比べている。
「強盗未遂だからな。しかるべき筋へと引き渡した」
「え? あっ……? け、警察……、とか?」
「まあそんなようなものだな」
「そうですか……」
あまりに急な事態の変化に、詩織はついていけていない。それを狙っての高速撤収であるわけだが。
「あっ――!! イッセーさん!! それ!!」
詩織が、突然、叫んだ。
イッセーの顔を見て血相を変えている。
頬に手をやると、血がついた。
ああ。あまりにギリギリで避けすぎて、かすってしまっていたか。
つぎはせめてミリの単位で避けるようにしよう。
「そんな――ケガして!」
「かすり傷だ」
本当にかすり傷なのだが――。
詩織は錯乱ぎみになっていた。
「手当て――手当てしないと! き、救急車! 救急車っ!」
「救急車まではいらん。7119にかければ、間違いなく、絆創膏を貼っておいてくださいと言われるところだな」
「ば――絆創膏っ!」
詩織の手に捕まって、引っぱっていかれる。
女の手で、たいした力でもないのに、不思議と抗えない強さがあった。
詩織はイッセーをカウンターのところまで連れて行ったあと、バックヤードに飛びこんで、救急箱を持って飛び出してきた。
「しみるかもしれません」
消毒液を脱脂綿に染みこませ、頬の傷口に押しあててくる。
椅子に座らされて、イッセーは神妙にしていた。真剣な顔の詩織は、さっきの強盗よりもずっと怖い。
「よかった……、すごく浅い傷でした……」
「だからかすり傷だと言ったろう」
ミリ以下の単位で避けているから、当然、傷の深さもミリ以下だ。
「でも怪我は怪我です! こんな怪我をして……。わたしなんかを守って……。すいません。すいません。本当にすいません」
なぜ謝る。
そう言おうとして顔を向けたイッセーは、ぽろぽろと涙をこぼす詩織を見た。
「うおっ!? な……、なぜ泣く?」
「だって……、だってぇ……」
眼鏡を持ちあげて、ぐしぐしと手の甲でこする。だが涙はつぎつぎと出てきて、顎先から滴り落ちる。
「見ての通り余は無事だ。だが余の怪我などは問題ではない。詩織――おまえが無事で本当によかった」
「イッセーさん……」
「おまえは強盗に襲われていたとき、ハンドサインで『隠れていて』と伝えてきていたな。自分の身よりも、余の身を心配していたわけだ」
「そ、そうです! イッセーさんがわたしなんかのために傷つくなんて――! そんなの――!」
「それは余も同じなのだ」
イッセーは、言った。
「おなじことを二度言うのは、特別だぞ。――おまえが無事で、本当によかった」
「イッセーさん……」
詩織の涙は止まっていた。
眼鏡の奥でまじまじと見開かれた目が、イッセーの目と重なる。
「ぴろん♡」「ぴろろん♡」「ぴろろろろろろん♡」「ぴろろろろろろろろろろろん♡」
音が聞こえる。連続して鳴り響く音は、もはや一つ一つの音が区別できないほど。
イッセーと詩織は、じっと見つめあった。
イッセーは、ちとせに言われたことを思い出していた。
「女の子は、雰囲気が大事なんです」
雰囲気というものは、正直、よくわからないが……。
見つめ合っていて、まばたきさえ邪魔に感じるこの瞬間というのは、最高の状態なのではあるまいか。
よし――。
「詩織……」
「はい……」
――言うぞ。
「余はパンツが見たいぞ」
しばらく――、何秒も経ってから、詩織は――。
「……はい?」
首を傾げると、そう言った。
「はじめに……こそ、言ってはいなかったが、あとから伝えたから、理解していたはずだ。余はパンツを見るために、おまえに近づいたのだと」
「は? え? ……えっ? ええっ?」
詩織はまばたきを繰り返している。
イッセーは詩織に迫った。
「さあ、パンツを見せてくれ」
「そ、そう……でしたね。イッセーさんは、エッチなことが目的で、わたしに近づいてきたんでしたね」
「いや、それは誤解だ。パンツが見たい。パンツだけを見たい。エッチというのはよくわからんし、およそ君の考えていることとは違うはずだ」
そしてイッセーは、ひとつ、思いついたことを付け加えた。
「きっと君は〝恋愛〟なるものと誤解しているのだろう。だがそれとは無関係であることを断言しよう。余は純粋にパンツだけを見たいのだ」
恋愛小説なるものを詩織にお勧めされて、たくさん読破した。その経験からきた閃きだった。
「断言……ですか? 恋愛とは無関係?」
「ああ。もちろんだとも。余は本当に純粋な気持ちで、おパンツが見たいのだ」
イッセーは胸を張って、そう言った。
返事は……、ない。
詩織は顔をうつむかせたままでいた。
眼鏡のレンズに光が反射して、その目は見えない。
「……わかりました」
やがて承諾の返事が返ってきた。
イッセーは「おお!」と、拳を握りしめた。
おパンツ。おパンツ。おパンツ。ようやくおパンツが見れるぞ!
位置取りを決める。棚に手を付いた詩織の背後に素早く回りこんだ。
デニムのボタンを外す。ジッパーを降ろす音に、イッセーは期待と興奮を禁じ得ない。
鼓動が早くなるのを感じた。
なんと――! 天才であるイッセーが、心臓の動きひとつ、自由にできなくなっていた。
デニムのウエストに手を掛けたところで、詩織は、背後に回ったイッセーを見下ろした。
「本が好きだからといって、まともとは限らないんですね」
いくらなじってくれてもかまわない。いまはとにかくパンツが見たい。
余はパンツが見たいぞ!
「……見損ないました。……この変態」
デニムがずり下げられる。
現れたおパンツは……、ピンク色だった。
「……私の安いパンツなんか。……見て楽しいんですか」
冷たい声が降ってくる。
イッセーは、気づけば、床に伏せるようなローアングルから見上げていた。
詩織が「安い」と言うそのパンツは、たしかに、ちとせや咲子のパンツとは違う質感だった。
だがそれはそれで良い。何度も洗濯を繰り返したパンツには他と違う趣がある。
パンツに貴賎なしである。
「はふぅ……」
イッセーは吐息を洩らした。
満足がいった。完全に満たされた。やはりおパンツは素晴らしい。
「くだらない男」
冷たく冷え切った目線が降り注ぐなか、イッセーは、すっくと立ち上がった。
「詩織」
「名前、呼ばないでもらえますか」
「良いパンツを見せてもらった!! アディオス!! それではまた明日!!」
イッセーは意気揚々と店を出ていった。
「また明日……?」
一人残った詩織は、眉間に深い縦皺を刻んでいた。
はっと気づいて、デニムを引き上げる。パンツを隠す。
そして、つぶやきを洩らした。
「……ばか」
本屋さん編、完了であります。