#03-03.「本屋さんとデートしてみた」
日曜日。朝一〇時五分前――。
イッセーは駅前の時計台の下に立っていた。
駅前を行き交う人々は、年齢層も雰囲気も平日とは異なっていた。
その様子を興味深げに眺めながら、時が過ぎるのを、イッセーはただ待っていた。
この日、この時、この場所だった。――詩織との待ち合わせは。
無論、あんなことがあったので、彼女が来るとも思えない。好感度は、現在、マイナス一億点のはず。
ちとせも菜々子も、あとLINEで咲子にも意見を求めたが、三人とも同意見だった。
ちなみに咲子のほうは、「詩織ってだれ!?」とか「あのへんなこと誰かにまた言ってるの!?」とか、騒がしかったので、既読スルーにしてある。
イッセー自身の見解としても、「来るはずがない」という結論に至っている。
それでも待ち合わせの場所に立っているのは、約束をしたからだ。
待ち合わせの時間と場所。それを定めた。
その約束自体は、撤回されていない。状況が状況なので、詩織が約束を破ることは仕方がない。だがイッセーの側から破るわけにはいかなかった。
王たるものの言葉に、二言はないのだ。
時計の針が一〇時を指した。
約束は、果たした。
当然だが、詩織は現れなかった。
帰ろうと――。歩きはじめようとしたイッセーの背中に、声がかかった。
「なんで……、いるんですか?」
イッセーは、はっとなって振り返る。
松浦詩織の姿を見て、見間違えじゃないかと、一瞬、馬鹿げた思考が頭をよぎる。
天才であるイッセーは、見間違えなどしない。
「……君こそ、なんでいる?」
「お断りすることを伝えていなかったからです」
冷たい声と顔で、詩織はそう言った。
「約束を私から破るのは気持ち悪いじゃないですか。お客さんがいないことを確認したら、帰るつもりでした」
眼鏡の下から、暗い目で、睨むような視線を向けてくる。
昨夜とまったく同じ目だった。
「それで、これからどうする?」
「図書館に行きます。いつも日曜は図書館に行きますので。……できればついてこないでいただけると助かるのですけど」
「奇遇だな。余も図書館に行く予定だ」
「そうですか。ご勝手に」
詩織はイッセーに背中を向けると歩きはじめた。
イッセーも歩いた。
◇
数メートルほどの距離を保ったまま、同じ道の前後にわかれて、二人はずっと歩き続けた。
そのあいだ、なんの会話もない。
そして市立図書館に入った。
「なんでついてくるんですか」
「民俗学の本が、こちらの棚にあるからだ」
「……」
胡散臭い目で睨まれる。
だがイッセーに他意はない。
詩織の勤めている書店で、旅行ガイド、手芸、料理、と各コーナーを制覇してきて、つぎは民俗学の本の順番だったのだ。
ちとせが配下の黒メガネ部隊に命じて集めてきていた情報によれば、詩織の興味は民俗学だった。昔話とか、そういったものが好きらしい。
べつにそこを狙ったわけではない。
詩織ときっかり二メートルほどの距離を置いて、本を探す。
背表紙のタイトルを一望して、有益そうな本を、数冊、抜き出して中を確認していると――。
「人としては最低ですけど、本の趣味はいいんですよね」
「なにか言ったか?」
「いえ。なにも」
やがて詩織は良い本を見つけたか、一冊、二冊と、シリーズの頭から手に取った。だが三冊目のところで、指先が止まった。
「あ……、三が……」
続きもののシリーズのそこだけが欠けている。
切なそうな、哀しそうな表情が浮かぶ。
ふむ。凡人の心理は大抵わからないイッセーであるが、その感情だけは理解できた。
コンプリートしようと思ったのに、一つだけ欠けてしまう。画竜点睛を欠くというやつだ。
「その本の三巻目なら、返却カウンター脇の配架本のラックに置いてあったぞ」
図書館に入ってきたとき、一瞬、視界に入っていた。イッセーは天才であるので、当然、記憶していた。
「えっ? ほんとですか?」
詩織の顔に一瞬、喜びが溢れる。――だがすぐに気がついて、また難しく不機嫌な顔に戻る。
「でたらめ言ってたら……、怒りますから」
カウンターに行くと、詩織の目当ての本は、確かにそこにあった。
当然だった。イッセーは天才であるので、記憶違いなど起きない。
「やだ本当にあった……。あ、ごめんなさい。疑って……」
と、謝りかけたところで、詩織は、はっと気がついて、また硬い表情を取り繕った。
「……ですけど。イッセーさんを軽蔑していることには変わりませんから」
昨日の好感度マイナス一億点は、いまだ、挽回しきれていないらしい。
だがとりあえずは、〝お客さん〟から、〝イッセーさん〟に戻った。
〝お客さん〟と呼ばれるのと、〝イッセーさん〟と呼ばれるのとでは、後者のほうがほんのりと嬉しいということに、イッセーは気がついていた。
◇
図書館の閲覧コーナーのテーブルで、向かいに座って本を読んだ。
同じテーブルに座っても、彼女はなにも言ってこなかった。
一冊、数秒で読めてしまえるイッセーは、腰を落ち着けて本を読む必要など、本当はなかったのだが……。彼女に合わせるために、いつもの数十分の一ぐらいの速度で、一文字一文字、字面を確認するように読んだ。こんなにじっくりと本を読むことは、生まれてはじめての経験だった。
それほどまでにゆっくりと読んでも、どっさりと積み上げた十数冊の本を、三十分足らずで交換しに行くことになる。
そんなイッセーを見る詩織の目は、感心から賞賛に変わっていったが、
そのうちにイッセーは、資料や教養本よりも、文学作品を読むほうが、より速度を落とせるということを発見した。
理由は、文学作品では登場人物の感情に主題があてられることが多いが、その凡人の感情というものが、イッセーにとって未知であり、かつ、理解不能なものだったからだ。
登場人物が悩む場面で、いちいちつっかえるので、読書速度を落とすのにちょうどいい。
「くす……」
本から目を上げれば、向かいに座る詩織が笑っていた。
「……?」
「恋愛小説を、そんなに真面目に読んでいるから……」
「なにか、おかしかったかな?」
詩織が笑っている理由が、まったくわからない。
あと、さっきまでは、虫でも見るような嫌な目つきだったのだが、いまは普通に戻っている。
人の心の変化には、必ず理由があるはずだが……。その理由に、思いあたらない。
なにしろ、つい本の内容に熱中して、詩織のことを忘れてしまっていたくらいだ。
「あ、ごめんなさい。べつに男の人が恋愛小説を読んでいるのがいけないっていうわけではなくて……。〝本に貴賎なし〟っていうのが、私のモットーなんです。ちなみに〝職業に貴賎なし〟っていう、石田梅岩という人の言葉のパクリですけど」
「まったく同感だな。本は、たとえそれがどんなものであれ、そこに書かれた知識は有益なものだ」
「少女小説でも?」
「少女小説でも、だ」
しばらく聞こえてこなかった、「ぴろん♡」という音が、再び聞こえはじめるようになった。
「だけどイッセーさんって、本当に、読むのが速いですね……」
「何十万冊も詠んできているからな」
一日に「読書」の時間は四〇〇秒ほど取るようにしている。一冊一〇秒平均として、掛けることの一七年、掛けることの三六五日――。うむ。間違っていないな。
ちなみに0歳児から行っている。
「〝万〟なんて単位を出してくる人は、だいたい嘘つきだって思ってましたけど。――だけどイッセーさんなら、本当だと思っちゃいます」
詩織はそう言って、微笑んだ。
そして、右を見て、左を見て、他の利用者がこちらを向いていないことを確認してから、身を乗り出してイッセーの耳元に顔を近づけてきて――。
(そのシリーズ……、じつは私も読んでいたんです。あとで感想、聞かせてくださいね……)
なにか秘密でも告白するかのように、詩織は耳打ちしてくるのだった。
◇
閉館時間がやってくる。
チャイムが鳴り始めた。
「あっ――、いっけない! 借りる本、決めないと――! あっ、あっ――どれにしよっ!」
集中していて、時間に気づいていなかった詩織は、慌てている。
「余はこれに決めている」
詩織のいちばんオススメだという恋愛小説。全一〇巻。
借りることに決めていたので、内容はまだ読んでいない。あらすじによれば、中学生の主人公の少女が、好きになった人が最低だとわかって軽蔑したが、じつはそれは誤解で、いい人だということにあとから気がついて……」という内容らしい。
どこかで聞いた覚えがあるのだが、どこでだったのか、思い出せない。
天才であるイッセーが思い出せないということは、かなり珍しい事態である。別の意味でも興味をそそられた。
「いまのは予鈴だ。あと五分ある。焦ることはない」
「そ――、そうですね!」
「深呼吸しろ」
「すーはー、すーはー、ひっひっふー、ひっひっふー」
「それはラマーズ法だ」
「冗談ですよ。ていうかイッセーさん、ほんと、物知りですね。わかっちゃいますか」
「何十万冊も読んできているからな」
出産の心得、という本もあった。ラマーズ法というのは、妊婦が出産するときの呼吸法だ。
「……冗談が言えるようなら大丈夫だな。借りていく本は決まったか?」
「はい。イッセーさんのおかげで落ちつきました。これとこれとこれ、こっちの三冊と、こっちの七冊にします」
残りの本を棚に返すのを手伝い、貸し出しカウンターで手続きを行い、詩織が持ってきていたエコバックに本を入れて、図書館を出る。
詩織はイッセーの分もエコバックも用意していた。そのことがすこしイッセーには不思議だった。
今朝、彼女は言っていた。イッセーがいないことを確かめにきたのだと。
ならば、なぜ、イッセーの分のバッグまで持ってきていたのだろうか……?
人の心というものは、本当に、よくわからない。
「はぁ……。本がいっぱい。幸せですねえー……」
本がぎっしり詰まって、重たいバッグを胸に抱えて、詩織は頬を上気させてそう言った。
「余も、これを読みこなすのは苦労しそうだな。しかしやり甲斐はありそうだ」
「ふふっ。中学生の女の子が主人公ですから、イッセーさんには、ちょっと感情移入が難しいかもですね」
そういう意味ではないのだが。
凡人の思考をトレースすることに、すべからく苦労するという意味であって――。
だが詩織の笑顔に、それは言わないようにした。
まあたしかに、「中学生の女の子」に対しても、感情移入は難しい。その点については間違いがない。
「はぁ……。今日は本当に幸せです。本がこんなにたくさん。それに……、本の趣味の合う人と一緒で……」
ちら、と、詩織がイッセーを見る。
今朝の不機嫌さからすると、別人といってよいほどの変化だ。
なぜ機嫌が直ったのかまでは、わからない。だが彼女が上機嫌になってくれたのは、よいことだった。
ちら、と、また詩織がイッセーを見る。
ああ。そういうことか。
イッセーは了解した。
「重たいだろう。持とう」
「あっ、いえ……」
彼女の手には重たすぎるバッグを預かった。なにしろ本が十冊ほど入っている。
イッセーは詩織と並んで歩いた。
来たときには前後に数メートルも離れていた。それが帰るときには、横に三十センチの距離だった。
関係は、だいぶ改善されたといってよいだろう。
◇
アパートのドア前に到着する。
「あっ、あの……、お、お茶とか……飲んでいかれます? ひ、一人暮らしなんで、なんにも物のない部屋ですけど……、よ、よかったら……?」
めっちゃ汗をかいて、やたらと緊張した様子で、詩織が言う。
だがイッセーは軽く手を立てた。
「いや。遠慮しておこう」
「そ、そうですよね……。は、早すぎますよね……」
うむ? なにが早いというのか。
まあそれはいい。
茶ならば、ちとせの淹れる紅茶のほうが美味いに決まっているので、断っただけだが……。
本日の目的は果たした。
〝目的〟を告白したことで、最悪まで落ちきってしまっていた評価を、挽回することに成功した。おそらく告白前の段階までは戻せたに違いない。
また明日から書店通いを続けられる。
こんどは目的を隠しているわけではない。後ろめたい気持ちを抱えることなく、堂々と、書店に行ける。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日……」
イッセーがアパートの階段を下りきるまで、詩織の部屋のドアは開いていた。
そのドアが、ぱたりと閉まる音を聞いたあとで、イッセーは、ぐっと手を握りこんだ。
「……?」
自分のその仕草に、イッセーは首を傾げた。
いまのはなんだろう? なぜ、手を握るなどという意味のない動作をしたのだろう?
天才であるイッセーにとって、自覚できない行動というのは、珍しいことだった。
首を傾げながら、イッセーは屋敷への道を歩いた。