#01-01.「メイド 伊東ちとせ」
カーテンが半分ほど開いた隙間から、光が差しこむ。
光と影の交差するその場所で、椅子に腰掛けた男は、午後のゆるやかな時間を過ごしていた。
――余はパンツが見たいぞ。
ふむ……?
唐突に心に浮かんだその気持ちを、彼は不思議に感じた。
部屋のなかでは、メイドが紅茶を淹れている。
漂ってくるその香りから、本日の葉を予想することが、彼のひそかな愉しみとなっている。
彼の名は、豪徳寺一声――。
公立高校に通う十七歳であるが、この屋敷の主でもある。
屋敷も、敷地も、室内の豪華な調度品も、ありとあらゆるすべてが、彼――イッセーの所有するものだった。十二の時点で当主を継いで以来、財閥のすべては彼の手の内にある。
メイドは――子供の頃から仕えてくれている女だった。歳は、イッセーよりも幾つかは上のはず。
はっきりとは知らない。
前に訊ねてみたことがあったのだが、その時に、なぜか叱られてしまった。
いわく――。「女性に年齢を尋ねるのは失礼なことですよ」とのことだ。
「お坊ちゃま。――スコーンのジャムは、マーマレードでよろしいですか?」
メイドが尋ねる。イッセーは沈黙を持って答えた。
気心知れた間柄だ。それで肯定と伝わる。
彼女――ちとせの作るジャムはすべて手作りで、なかでもオレンジのマーマレードは絶品なのだ。
ちとせは紅茶を淹れ、ケーキを切り分けてゆく。
腰を支点に上体が動く。黒いメイド服のスカートに包まれたその腰は、女性らしい丸みを帯びていた。
その腰に、どうしても目が吸い寄せられてしまう。
これまでの人生において、一度も覚えたことのない、〝ある感覚〟が湧き起こる。
メイド服のスカート――。さらにその内側――。
そこにあるはずのもの――それが見たい。
――余はパンツを見たいぞ。
その衝動には、およそ、あらがい難い強さがあった。
うん。見たい。なぜだか見たい。
その気持ちを、そのまま口にすることにする。
「余はパンツが見たいぞ」
「……は?」
ちとせは手を止めて、こちらを振り向いた。
口をぽかんと開けている。
天才であるイッセーは、凡人のこうした反応には慣れていた。凡人に対しては、同じことを繰り返してやる必要があるのだ。
「余はパンツが見たいぞ」
「……はい?」
ちとせはまたも同じ顔。目を大きく開いている。
「三度も余に同じことを言わせるか……。まあいい。他でもないおまえだからな。もう一度だけ言ってやる。――余はパンツが見たいぞ」
「あ、あの……。お坊ちゃま? そういうご冗談は、あまり――」
「冗談ではない。――余が冗談を言ったためしがあったか?」
「いえ――。ありませんけど――。ないですけど――」
ちとせはしばらく考えこんでいた。
そして顔をあげると、消えそうなほどに頼りない笑顔を浮かべながら、イッセーに言う。
「お坊ちゃまも、そういうことにご興味を持つお歳になったのですね」
「いいから早くパンツを見せろ」
ちとせの表情がぴきりと固まった。わずかに残っていた笑顔も、完全に消え失せる。
「お坊ちゃま……。冗談ではないと理解しましたけど。でもそれってセクハラですよ。いえ。お立場を利用されていますから、これはもうパワハラですね」
「そういうものか」
「最近はそういうのは問題になるんです。大問題です。お坊ちゃまは豪徳寺グループを治められるお立場なのですから、気をつけていただかないと。私だから冗談で済みますけど。他の使用人にそんなことを言ったら――」
「だから冗談ではないと。――二度目だぞ?」
「いまなら冗談で済ませてあげます、と、そう言っているんです。――はい! はいはい! 紅茶が冷めてしまいますよ」
紅茶が出された。
オレンジのマーマレードの塗ったスコーンが添えられている。
紅茶を口に含み、スコーンを口にする。何度かそれを繰り返しつつ、ポケットからスマホを取り出した。
十数文字ほど書く。指示を送る。
送信。――と。
待つほどもなく、廊下を騒がしい声が近づいてきた。
「失礼しまーす! お坊ちゃま! 言われた物を持ってまいりましたーっ!」
がらがらがら、と台車を押して、別なメイドが部屋に入ってきた。
「なんですか。菜々子。まったくもう……騒々しい」
ちとせは眉をひそめて、後輩メイドをたしなめる。
だが肝心の本人は――。
「――あっ先輩っ! あっティータイム! あっ紅茶! スコーンもっ! いいなー! いいなー!」
菜々子は運んできた台車もうっちゃって――テーブルの上の紅茶とスコーンに目がロックオンしている。
「持ってきた物をそこに置け。……そうだな。縦に積み上げろ」
イッセーはそう言った。だが後輩メイドの菜々子は動かない。ていうか、そもそも聞いちゃいない。目はお菓子にロックオンしている。
イッセーはしばし思案してから、こう言った。
「仕事を終えたら、紅茶とスコーンを食ってよし」
「はい! 積むんですね! 縦積みですね!」
菜々子が動いた。さくっと動いた。素早く動いた。
台車に乗せて運ばれてきたのはスーツケース。その中からレンガぐらいの大きさの物体を握って取り出し、どんどんと、重たげな音を鳴らして床に置く。
縦積みしてゆく。
「えっ……? お金?」
先輩メイドのちとせが、ぎょっとした顔になっている。
菜々子が手で掴んでは積み上げている、それは――札束なのだった。
「立場を利用して強要するのは、セクハラだと言ったな。では正当な報酬を払うぞ。おまえが我が家に雇用されていることは知っている。……よくは知らんが、〝給料〟なるものが支払われているそうだな。この仕事が業務外であるなら、特別な〝報酬〟を支払おう。……とりあえず、おまえの背丈と同じ高さでよいか? ――菜々子。そこでストップだ」
「はーい!! 先輩の身長一六〇センチまで積みましたー!!」
ちとせの前には、彼女の背丈とちょうど同じだけの札束が積み上げられていた。
「わたし、知ってます! お札の一束は百万円で一センチなんです! ――センパイほらほら! 一億六千万円ですよー!!」
命じられた仕事を終えた菜々子は、紅茶とスコーンに飛びついた。
そういえば「食ってよし」と許可を出したな。しかし本当に食うんだな。まあいいが。
「あーっ、やっぱり今日のセンパイのスコーン、すっごく美味しいです!」
「あの……。お坊ちゃま? これって……、どういう……?」
札束の山と、イッセーとを交互に見ながら、ちとせは言う。
「足らんか?」
イッセーは言った。
どのくらいの値を付ければいいのかわからなかったので、とりあえずそこまで積ませてみた。
だが足りないというのであれば――。
「菜々子、追加だ」
「もうひょっふぉ! ふぁっふぇふはふぁ~~ひ!」
菜々子は食うのに忙しいようだ。
金額を上乗せしなくてはならないのだが。ちとせが首を縦に振るまで。
「そういうことではございません!」
ちとせは硬い声と硬い顔とで、そう言いきった。
「まったくもう……、哀しいやら、悔しいやら……。お坊ちゃまがこんなふうに育ってしまわれたなんて、奥様が草場の陰で泣いていらっしゃるに違いありません!」
「いや。母は海外にいるが」
三年ほど顔をあわせていないが、べつに死んでない。
ヨーロッパにおける新事業の立ちあげで、日本をイッセーに任せて出ていったままだ。ちなみに父はロシアとアメリカと中東を交互に飛び回っている。
「だまらっしゃい! とにかくそれだけ嘆いているっていうことです!」
「お、おう……」
ちとせは睨むような目で、イッセーを見ていた。
イッセーは特に思うところもなく、その視線を受け止めていた。
ちとせがなぜパンツを見せることを拒んでいるのかは、よくわからない。
凡人の思考は、天才である彼には、よくわからない。
だが一つはっきりとしていることがあって、これは彼女の側の問題だということだ。
金額に折り合いがつかないのであれば、こちらには積み増す用意がある。
ちとせのパンツを見る。
なぜなら「見たい」と思ったから。
これは確定事項であり――、変更はない。
「はぁ……」
ちとせは、深く深く、ため息をついた。
「お坊ちゃまは、昔から、こうと決めたことは頑固でしたね……」
「うむ。余が前言を撤回することは、そうそうないことだな」
「どうしても、見たいと、……そうおっしゃられますか?」
「ああ。どうしてもだ」
「私がそのことでお坊ちゃまを猛烈に軽蔑するとしても?」
「軽蔑という感情は凡人のものだからな。余は気にせんぞ」
「ああもうっ!」
ちとせは大きな声をあげると、自分のスカートに手を伸ばした。
……が、その手を途中で止める。
そこにいる菜々子に顔を向ける。
「菜々子! いつまで食べているのですか。――ハウス!」
「ひどいですー。センパイ。わたしワンコじゃありませんよう」
ちとせはイッセーに顔を戻す。そして懇願する。
「……お坊ちゃま。せめて二人きりにしてください。お願いです」
「菜々子。……退室しろ」
「ええっ! でもまだスコーンが残って――!」
「……スコーンも持っていってよし」
「はい!」
菜々子が出ていった。部屋が途端に静かになった。
鳥の声が、窓越しにわずかに響いてくる。そんな音さえも聞こえるようになった。
イッセーは椅子から身を乗り出した。いよいよパンツが見れるようだ。
「表情が硬いな。楽にしろ」
「これは軽蔑している表情です。嫌な顔です」
「そうか」
イッセーはうなずいた。
軽蔑されてもパンツが見たい。――さっき言った言葉だ。よって二言はない。
「お金で身を売らせるとか……。お坊ちゃまは、本当に最低です。最悪です。殿方としてまったく尊敬できません」
「いくらなじっても構わないが……。パンツは見せないのか?」
「――!!」
一番肝心なことを指摘してやると、ちとせは顔を引きつらせた。
「……み、見せます!!」
そしてメイド服のスカートに手を掛ける。
裾が十センチばかり持ちあがる。
そこでいったん止め、イッセーを見やる。
「止めないんですね……」
「当然だ」
再びスカートが上がってゆく。ストッキングに包まれた脚が、ふくらはぎから徐々に見えてくる。
豪徳寺家のメイドは、皆、ロングスカートを着用している。普段は決して見えない場所だ。
すこしずつ持ちあがってゆくスカートの裾を、イッセーはじっと見つめていた。
スカートの裾が膝小僧を越えたところで、一旦、止まった。
「あのお坊ちゃま……、本当に……」
「いちいち止めんでいい」
自分が苛立っているということに、イッセーはすこし驚いていた。
感情をコントロールできないということは、彼の人生で、はじめての経験だ。
はっきりと記憶に残っているが、赤子のときでさえ、自制心を発揮して、無駄に泣き喚いたりはしなかった。
だがいまは、早く見せろと、赤子のように大騒ぎしたい気分だった。
「お坊ちゃまも、男だったというわけですね……」
「そこは関係ないだろう」
「はぁ……。まさかお坊ちゃまと、こんなふうなことになるなんて……」
ちとせは大きなため息をついた。
「これ? 下着を見せるだけでは済みませんよね?」
「なんのことだ? ――いいから早く見せろ」
「本当にお坊ちゃまは……、どうしようもない人ですね」
冷え切った軽蔑の眼差しとともに、〝おあずけ〟がようやく解除される。
スカートの裾が、膝小僧からさらに上がってゆく。
太腿の中程で、肌が見えはじめる。
突然のように現れた太腿が、艶めかしく目に映る。
ガーター吊りのストッキングは、太腿の途中で終わりを告げていた。
パンツまではもうすこし。あとほんの数センチ――。
おパンツ! おパンツ!
スカートを止めているちとせに、目線で指図する。
「――ちいッ!」
はっきりとわかるほどの、壮絶な舌打ちが響く。
そしてスカートが、最後の数センチをするすると上がっていった。
「おお……っ!」
思わず目を奪われた。
白い……白いおパンツが、黒いスカートと肌色の太腿の合間で咲き誇っていた。
赤く小さなリボンが、ワンポイントで飾っている。それ以外はすべて純白のおパンツだった。
ちとせのおパンツは清楚であった。
「……はふう」
満足した吐息を漏らして、イッセーは椅子に背中を預けきった。
よいものを見た。
ああ……。完全に満たされた。
充足しきって、至福のひとときに浸っていると――。
メイドが――ちとせが、話しかけてきた。
「ご主人様……、つづきはせめて、寝室のほうでお願いしたいです」
冷たい目つきは、さっきまでと変わっていない。
まるで害虫にでも向けるような――そんな嫌悪の目を、イッセーに向けている。
そしてもうひとつ、イッセーには気がついたことがあった。
自分の呼びかたが、「お坊ちゃま」から「ご主人様」に変わっていることを――。
「いや。もう充分だ。もうすっかり満足した。よいものを見せてもらった。そうだ、紅茶……は、菜々子にすべて持っていかれていたのだな。あの食いしん坊め。――新しく淹れ直してくれないか」
「……は?」
「あの……、お坊ちゃま?」
おや? 呼びかたが戻ったな。――イッセーはそこに気がついた。
「あの……、ひょっとして……、ほんとに……? し、下着を……見せるだけ? ……なんですか?」
「はじめからそう言ってるが? ほかになにがあるというのだ?」
「だけ……って、そんな……」
「――そういえばさっき変なことを言っていたな? 寝室がどうとか?」
「わっ! わーっ! わわーっ! わーっ!!」
ちとせは突然叫びはじめた。
「どうした?」
「なんでもないです! なんでもありません! さ――さっきのは忘れてください!」
「いや。余は〝忘れる〟ということが不可能だが」
「じゃあ思い出さないでください! さっきのはとんだ勘違いで――!! ああやだもう! 恥ずかしい!」
ほっぺたを両手で押さえて身悶えを繰り返す。
そんなちとせを、イッセーは、わけわからん……と見つめていた。
「お坊ちゃま! こ、紅茶ですねっ! すぐに淹れてまいりますっ!」
ヘッドドレスを傾かせたままで、ちとせは部屋を飛び出していった。
その姿を見送って――。
「うむ」
イッセーは、ひとつ、うなずいた。
〝ご主人様〟よりも〝お坊ちゃま〟のほうが――。
うむ。やはりしっくりとくるな。