床几
「えらく貧相な軍団長様だな」
敵陣から嘲るような声があがり、つられるように笑い声が起きた。
恥ずかしさで消えてしまいたいような気持になる一方、それまであった殺気が霧散して体が軽くなるのを感じた。
「イング! なにをいってるんだ」
「親父すまん、様をつけ忘れた。ローハン・ザロフ様だ!」
また笑い声が起きる。いいことなのか、悪いことなのかはわからないが、これで自分の声で話すことができる。
「全隊気をつけ! 静粛に!」
喇叭の様に響き渡る私の怒声に、敵の笑いが止まる。
教官の贈物がうみだす命令は、魔術のような効果を持つ。
「こちらの兵士が失礼した。私はキンネク族ハーラント王の代理で、休戦交渉にあたり全権を委任されているローハン・ザロフだ。オステオ・ギュッヒン様とはなしがしたい」
今度は、笑い声はおきなかった。
「武器を全て置いて、馬を降りろ」
敵陣から、またさきほどと同じ声がする。
「士官には、儀礼用の短剣を携帯する権利があるはずだが」
しばらく間があいてから、許可する旨の返答があった。
私は馬を降り、しょんぼりしているイングに声をかける。
「ありがとう、イング君。君のおかげで、私は自分の声ではなせるようになった」
イングには、私の贈物について詳しく伝えていなかったので、意味は分かっていないはずだが、自分の行動が失敗でなかったことに安堵の表情が浮かぶのが見えた。
「旗はそこに置いて置くんだ。君は士官ではないから、短剣もそこに置いていってくれ」
実際、イングの剣さばきや槍の使い方は十人並みで、素手で戦うほうがよほど脅威になるはずだ。
武器を置き、下馬した私とイングは導かれるままに敵陣に入っていった。兵士たちの視線が痛いように突き刺さるが、武器を持っていない私たちに露骨な殺意を向けるものはいない。
先導する男は四十がらみの歴戦の戦士で、私を一瞥すると、顎をしゃくってついて来いといった。
せっかくなので、敵の陣地を見ていこうと、できるだけキョロキョロしないように注意しながら、視線を走らせた。土塁の裏側には、しっかりとした壕が掘られており、勢いをつけて馬で土塁を乗り越えても、溝にはまり込んで人馬ともに大怪我をすることは間違いない。
土塁のつなぎ目をふさぐ様につくられた、小さな土塁の後ろ側にも、もう一つの陣地がつくられており、騎兵の突撃をあくまで許さないという意志が見てとれる。この陣地をつくった人間は、軍略をわきまえているのだ。
土塁が途切れると、少しなにもない場所が続いて、前方にまた土塁が見えてくる。
外周の陣地と、本陣のあいだに空間をつくり、突破してくる騎兵を射殺す作戦なのだろうか。百人少しの弓兵を分散配置するよりも、本陣に集中的に置く戦法なのかもしれない。そう考えてみれば、いままで一人も弓兵を見かけていない説明もつく。
それにしても、水場を中心として鬼角族の秋営地をぐるりと二重の陣地で囲んだとすれば、二千人の兵士といえども、休む暇はなかったのではないか。食料の補給もなく土木作業を続けているとすれば、兵士達にはかなりの消耗が考えられる。このまま補給を妨害し続ければ、いずれこの場所から撤退せざるをえなくなるだろう。
いろいろと考えているうちに、もともと水場のあった場所、おそらく敵の本陣の目の前まで来ていた。ここにも土塁があり、きっと裏側には少し深い壕が掘られているのだろうと想像がつく。
「こっちだ」
敵の本陣では、土塁と土塁のあいだにも馬が通れないように溝が掘られており、そこを通るために木の板が渡されていた。渡し板は、馬車かなにかを分解して作ったのだろうか。大の男が全体重をかけると折れそうに見えるが、先導する男が乗っても問題ないようなので、私もそれに倣った。
「ギュッヒン様、休戦交渉に来たという男を連れてまいりました」
そこには、床几に腰かけた若い色白の男がいた。




