微笑む月
「西部方面普通科連隊は、連隊本部、3つの中隊とそれらの支援部隊から構成されます。
医官殿の所属する衛生隊は連隊本部直轄で、通常、衛生長は連隊長の指揮下となりますが、・・・・・」
立花一尉は、部隊見学に続き、第1小隊の佐伯 教子小隊長を講師に迎え、西部方面普通科連隊(水力機動団)の任務や組織、役割について講義を受けている。
しかし、講師の美しさが気になって、話が全く頭に入らない。
「・・・・です。ただし、日本の自衛隊では、医官でも指揮・命令をする立場に立つ可能性がありますので、連隊の組織と役割分担についてはしっかりと覚えておいてください。
続いて、それぞれ約200名の隊員からなる第1・第2・第3中隊の部隊構成と各小隊の役割について説明します。よろしいですか?」
「・・・・・・・」
「立花一尉殿!話を聞いてますか?」
「あ!はい。えっと・・・多分、大丈夫です」
「多分では困ります。
医官殿は一等陸尉です。状況によっては小隊の指揮のみならず、中隊指揮の可能性も無いとは言えないので、このあたりはきっちりとご理解いただけないと困ります」
「はい。・・・・ごめんなさい」
「何か気になることでもありますか?」
「あの・・・・小隊長が綺麗で、見とれてちゃって・・・・ごめんなさい」
「!!!ちょっ!!!・・・(赤面)・・・」
講義は第1小隊事務室端のホワイトボード前で行われており、二人のやり取りは一条 定子三尉以下、小隊幹部全員に注目されていた。
見ている方が恥ずかしくなるような二人の様子に、部下たちも全く仕事が手に着かない。
小隊長が身だしなみを完ぺきに整えていることに、部下たちは小さな声で不満をささやきあう。
<副長、急に決まった見学なのに、どうして隊長はフル装備状態なんですか?
私たちが作業服(迷彩ズボンにTシャツ)なのに、一人だけ制服なんて、ずるいですよ!
天使ちゃん、開戦早々、降伏状態になっちゃってるじゃないですかあ!>
副長である一条三尉も事情は把握しておらず、不満が漏れる。
<知らないわよ!天使ちゃんが来るって連絡があったときに隊長はもうフル装備だったんだから!>
“状況”は知らない間に開始していたようだ。
着任日こそ先んじた一条三尉は、現時点で小隊長に大幅な遅れをとってしまった。
しかし少しもあきらめてはいなかった。
*****
結局、その日は急患もなく、衛生長の勧めもあり、立花一尉は午後も支援部隊と施設見学に費やした。この間、佐伯二尉がずっと案内役を買って出た。彼女のおかげで各小隊へのあいさつ回りは効率的に行うことができ、連隊の理解が進んだ。
行く先々で、脳筋女性隊員から握手攻めにあって少し疲れたけど、有意義な1日となった。
終礼前、彼は、感謝の気持ちを伝える。
「今日は、本当にありがとうございました。小隊長のおかげで、皆さんへの挨拶もできたし、施設の事もよくわかりました。あの、このお礼がしたいのですが・・・・」
彼女は、わずかに横を見ながら、頬を朱色に染めつつ、応えを返す。
「気になさらないでください。
講義でも述べましたが、日本の自衛隊では、医官であっても指揮官となる可能性は否定できません。
連隊についてご理解いただくことはとても大切です。当然のことをしたまでです」
「あの・・・・・でも・・・・・」
「・・・・・」
互いの思いは通じあっているのに、お互い伝えるべき言葉が見つからない。
若い医官は落ち込んだ様子で別れの挨拶を述べた。
「それでは、・・・・お疲れ様です」
「・・・・お疲れ様です」
*****
夕方。
終礼と残務を終え、帰宅の途に就く立花一尉。
構内を歩いていると、迷彩ズボンとTシャツに着替え、ランニングに励む小隊長を見つける。
若い医官は、しばらくその様子を遠くから見つめる。
彼女は特殊部隊の現場指揮官であり、高い身体能力が必要だ。
基礎体力を維持するために毎日やるべきことはあるのだろう。
自分の案内役のせいで、こんな時間からトレーニングをさせてしまったのだろうか?
しばらく見つめた後、彼はふたたび医務室に戻り、飲み物とタオルを手に彼女から少し離れたところで時がたつのを待つ。構内に人気はない。
ちょうど腕立て伏せを終えた彼女は、彼の存在に気付き、頬を染めながら尋ねる。
「どうかされましたか?男性隊員なんですから、暗くなる前に宿舎に戻られた方が良くないですか?」
彼は覚悟を決めて彼女に提案する。
「あの、一緒に帰りませんか?」
ほんのわずかな逡巡。彼女は惜しそうに心にもない返事を返す。
「・・・・・私は、もう少しトレーニングしますから」
「はい。大丈夫です。ここで待ちますから」
彼の笑顔に、彼女はもはや抵抗できない。
この日、二人は肩を並べて宿舎に帰ることとなった。
帰り道、二人は互いに、階級や役職ではなく、名前で呼び合うことを約束した。
夜空を指さし、彼女は初めて彼の名前を呼ぶ。
「道雪、みて、きれい」
「ほんとだね、教子さん。あ!ねえ、あれって、なんか、笑顔の口もとみたいじゃない?」
「ああ!ほんとね。可愛いわね」
「ね」
殆ど滞在者のいない男性用幹部宿舎の入口、二人は名残惜しそうに最後の挨拶を交わす。
「おやすみなさい。道雪」
「おやすみなさい。教子さん」
夜空では、美しい三日月が、若い二人に微笑みかけていた。