七号館への誘い
8.七号館への誘い
「この例を見る限り、これはこの時代にピタリと当てはまることが分かると思います」
マイクを通して、スクリーンに映し出された文献やグラフを説明している声に俺は少し頭を抱えた。
この声に聞き覚えがあったり、教壇に立っている姿に見覚えがあったりするからだ。
「間違いなのね?」
隣に座る敦賀林檎もついさっき俺の出した結論に、確認をしてくる。
「ああ、間違いない」
相違点は恐らく服装と眼鏡だけだ。
「事故って聞いたけど、結構元気そうだね?」
林檎の隣に座る春江瑞穂も小声でそう言った。
「いや、事故って言ってもぶつかりかけて、未遂だったもののバランス崩して転倒しただけだからな」
「でも頭は打ったんでしょ?」
「そこは俺も気にはなっていったが、大丈夫そうだな」
「一応授業終わってから、『大丈夫でしたか?』 って確認だけしてみたら」
もう飽きた様子の林檎がそういうと俺は頷いた。
「そうする」
俺はもう一度教壇の方に意識を向け、授業が終わるのを待った。
授業はそのあと三国先輩の解説から、普段通り本来の担当の九頭教授の講義に移った。
こういう場合、発表の終わった学生は退室することが多いので、もしかしたら帰るかもしれないと思ったが、三国先輩は空席に座り、最後は講義を聞いていた。
昼休みを告げるチャイムが教室内に響き、教授が、
「本日はここまでとする」
と宣言したので、ガヤガヤと教室内が席から立ったり、机の上のものを片付けたり、周りの寝ている生徒を起こしたりと騒がしくなる中、俺は立ち上がり出口とは真逆の黒板側に向かって歩く。
そして、机に広げていたパソコンやらノートやらを片付けていた三国先輩に近づき、
「すみません」
と、声を掛けた。
三国先輩は不思議そうに俺をジッと見つめたが、何か思いついたように口を開いた。
「キミ…もしかして…?」
もしかして昨日会ったことを覚えているのかと思った。正直それならば話は楽だ。
だが、三国先輩から放たれた言葉は全くの別物だった。
「もしかしてさっきの発表について質問がある感じかな?」
そう俺に問う目はどういうわけかキラキラと輝いて見えた。
「え、えっと全くの別件なのですが…」
俺は色々と戸惑いながら言葉を紡いだ。
「別件…?」
俺の言葉に三国先輩は怪訝な顔をして、更に続けた。
「別件ね…キミとどこかで面識あった?」
「ええ。昨日お会い致しました」
「昨日?」
そこで先輩は一層不思議そうな表情を見せた。
「駅近くの交差点で」
「!?」
その俺の言葉で先輩の表情は驚愕に変化した。
間違いなくこの人だ。
「そうか、キミは昨日あの場所にいたのだね」
それから二、三言葉を交わしてから先輩も昨日あの交差点に居合わせた男子の片方だという事に気付いたようだった。
「先輩、お怪我は大丈夫だったのですか?」
ここに来て俺は一番気にしていたことを聞いた。
「怪我?」
だが、件の先輩はなんのことか分かっていない様子だった。
「ほら、転倒した時に頭打たれていたようでしたが…」
「ああ、そのことか。あの時も言ったけど特に問題はないよ」
「そうですか…それなら良いのですが…」
放った言葉は語尾を濁してしまったが、正直内心ではかなり安堵していた。
「心配してくれていたのかい? 見ず知らずの人間なのに?」
「ええ。なにせ自分の目の前で未遂だったとはいえ事故があったんですから。被害者が気にならないほど薄情な人間ではないので」
「それは何か悪いね…」
先輩はそう言って今度は申し訳なさそうに呟くと、少し考えるような仕草を見せてから、
「時に今日は何限までだい? えっと…」
急に歯切れが悪くなった先輩を見て、俺はまだ名乗っていないことに気付いた。
「あ、申し遅れました。俺は一年の小浜誠と申します。四限まで授業ありますが…」
「小浜クン。未遂だったとはいえ巻き込んでしまう所だった。お詫びにお茶でも奢られてほしい。四限後ならウチも空いてるし」
「いえ、それは返ってこちらが申し訳ありませんし…」
俺は断ろうとしたが、先輩は俺から目線を外し、教室の後ろの方へと移動させた。
「キミの友達も誘ってくれてもいいし、あの時一緒にいた子も都合が合うなら是非とも呼んできてもらいたい」
俺は先輩に合わせて視線を教室の後ろに移すと、ジッとこっちをみている林檎達と目線があった。
特に幸雄は興味が湧いたようでニコニコと笑みをみせていた。
どうやら先輩はかなり気を使って下さったようだ。
俺は先輩には見えないよう振り向いたまま、小さく溜め息をついてから、目線を先輩の方へと戻し、
「すみませんが、御馳走になります」
と、言った。
「うん。いいよ」
先輩はそう言ってから更に場所を告げた。
「じゃあ、授業が終わり次第、七号館の四一三号室まで来てくれるかな?」
「分かりました」
そう言ってその場は一旦解散となった。
広げていた荷物を全て片付けた三国先輩は、すぐに教室を出て行った。
それを見送ると俺は荷物を置いていた所に戻った。
そこで待っていた林檎がニヤニヤという表現が似合うような笑みを見せていた。
「あたし達もお邪魔していいのよね?」
「聞いていたのか?」
「五人しか残っていなかったのよ? こっちが静かにしていたら図らずとも聞こえたわ」
林檎が静かにしていたというのは予想外ではあったが、言われてみれば人がいない教室で声がよく聞こえるというのは通りだ。
だからと言って先輩が気付く程ずっとこちらを見ていたのはどうかと思うが…。
俺は再び小さく溜め息をつくと、林檎達と共に昼食の為に教室を出た。
廊下に出て食堂に向けて歩き出すと、俺は上着のポケットから携帯電話を取り出すと、翼のメールアドレスを探し出して、本文に先程言われたことを掻い摘んで説明し、送信する。
返信は数分で返ってきて、翼も問題ないということだった。
「ふむ」
俺は返信を見て簡単に頷くと、放課後七号館に集まる旨を伝えて、携帯を仕舞った。
「七号館ね…」
今日の授業が全部終わった後、偶々あった幸雄と翼とで七号館を目指していた。
ここにきて七号館へ行くのは初めてだったことに気付いた。
と言っても珍しいことではない。
学部によって使う号館は全く違う事も多いし、女子短大部しかない号館みたいな号館となれば卒業までお世話になることはないだろう。
ただ、七号館がどの学部が基本的に使ってるのかが不思議と思い出せなかった。
大体どの学部がどこの号館を使うというのは何となく覚えてしまっているのだが、ここは何故か思い出せない。
入り口で物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回していている二人も同様のようだ。
ひとまず中に入ると、来たことのない理由に気付いた。
入ってすぐの所にあったのは講師準備室で、その奥は外国人講師の準備室だった。
つまりここは、教授達のオフィスが集まる号館ということだ。
では四一三号室というのは?
俺はそういう疑問を浮かべるが、幸雄が入り口そばの館内図を見て、答えを言った。
「四一三は…九頭先生の部屋だね」
「そういえば昨日の人は九頭ゼミなんだろ? よもや先生の部屋を指定してくるとはな」
幸雄の言葉に翼も反応する。
「教授に奢らせる気かもな」
俺もそんな冗談で話題に入った。
ここで林檎と瑞穂を待ってる間は雑談に興じることにした。
暫く待ってると二人が来たので、近くに見えていたエレベーターで四階に向かった。
後から来た二人も七号館は初めてだったようで、エレベーターの中でも何故か視線をあちこちに泳がせていた。
そして、上へ向かっていたエレベーターが停止し、その扉が開き四階に到着した。
「行こう」
俺は一言だけそう言って前へと踏み出した。